第7話・決意のアンダーグラウンド③


 音声ファイルを流したクライアントは、社内を洗っても該当者がいないと嘆いた。

 削除を依頼したシステム会社も、出所は掴めないと首を振った。


 悪意ある第三者の悪戯だと処理された、謎の残る出来事――。

 偶然しては、あまりに都合のいい風穴だった。


 だが、そこにもし、望加みかが関わっていたのだとしたら。

 自分の声を自らの手で殺し、その代償が兄へ向かないように――デモテープの声を残して。


 そして――蒼葉あおば明司あかしが出会うように、わずかな必然を仕掛けていたのだとしたら。


 兄の善性と、蒼葉の勘の良さを信じて。遅かれ早かれ真実にたどり着くと分かっていたからこそ、祈りに近い細い糸へ――未来を結んだ。


 途方もない推測に、蒼葉は喉の奥で小さく息を漏らす。

 笑いとも涙ともつかないその音は、胸の奥で静かにほどけていった。


有栖ありすにあんな風に言われたら……また、罪を重ねそうになる」


 傍らで骨が軋む音がする。明司が拳を強く握る音。強く噛み締められた奥歯も低く、鈍い音を立てた。


『……あなたは死んだらダメですけど、人を殺すのもダメです。それこそ、あの人の思う壺だから』


「……分かってんよ。お前が傍にいてくれて、よかった」


 明司の体から力が抜けて、沈黙をノイズが満たす。


『おれとあなたが出会ったのも、望加がくれたものなのかもしれませんね』


 そっと、仮説の一端をECHOエコーに託してみる。

 明司は力を抜いたまま、ぼんやりとした口調で返してきた。


「そう思うか? お前は、確実に巻き込まれてる。俺なんかに出会わなかったら、お前は今でもあの家で、色づいた音と一緒に暮らせてた」


『それでも、望加を失ったままです』


「失ったって知らなかったら、どこかで生きてるって希望を持ち続けられたかもしれねえだろ」


 今度は蒼葉が言葉を止めた。一定の機械音を聞きながら、庫内に伝わる振動に身を委ねる。


『どうなんでしょうね……たぶん、気づくと思います。きっと、気づいてしまう』


「……それでも、お前は生きるだろ。お前には才能がある」


『音楽は好きですよ。寄り添ってくれるものだとも思います……でもおれは、人と生きることを知ってしまった』


「ああ……なんか、すげえな」


 ECHOが望加の声で話すたび、胸が焼かれる思いがした。

 この先、ECHOの声を聞くたびに味わう痛みだと思うと居た堪れなくなる――けれども、知らなければよかったとは思わない。

 彼女が大切にしていたものも、決意も、託された想いも。


 だからと言って、彼女がくれた世界を、彼女がいないままで生きる理由が見つかることはないだろう。


――それでも。


 いま隣にいる存在が、どんどん大きくなっていく。


 望加が守ろうとした、彼女の唯一の血の繋がった家族。

 蒼葉は大きく息を吸い込んで、喉奥にその空気を留める――固い決意と一緒に。


「あんたにとって望加は、それだけの存在だったってことか。俺にとって、望加は……」


 明司の声が独り言つように呟く。蒼葉は口角を上げて、明司の肩に頭を寄せる。


『明司さんは、これからどうするんですか?』


 ECHOが青い光を瞬く。明司は閉じた口の中で唾液を転がし、やがて吐く息と共に言葉をこぼす。


「ひとまず、なんとしてでもあんたを逃がす」


 明司の手の中で、樹脂の表面が擦れる音がする。蒼葉は明司が手にしているものを思い、クッと微かに喉を鳴らした。


『明司さん』


 呼びかけて、視線が向く気配。蒼葉は明司の顔に鼻先を寄せながら、ECHOに言葉を託す。


『お願いがあります』


 ゴクリ、唾を呑む音。蒼葉は一拍間を置いて、言葉を継ぐ。


『おれに命を預けてください』


 回りくどい説明の一切を省いたせいで、意図が伝わっているとは思えなかった。

 それでも、響いてほしいと願う――生きる意味を失った者同士だから。


「……あんた、何をする気だ?」


 探るような声は、震えてはいない。低く、言葉の真意を探る音。

 断片的にでも響いているのを確信して、蒼葉はホゥと安堵の息を吐く。


『協力してほしいんです。あなたの力が必要で――おれを、信じてもらわなければならないから』


「命を懸けるほどのこと、か」


 ポツリとこぼす明司の声。胸の奥底にしまったはずの不安がチラリと顔を覗かせる。

 明司と出会って、まだ2日。

 それでも蒼葉は、彼の中に望加と似た色を感じてしまう。


――人に頼ることも覚えなきゃだめだよ。


 そう何度も注意してくれた望加の声を思い出す。

 蒼葉は震える指先を握り締めて、明司から距離を取った。

 そして深く、頭を下げる。


「蒼葉……?」


『明司さん、お願いです……おれに力を貸して下さい。おれを、信じてください』


 気遣うように差し出された手を、思わず強く掴んでいた。大きな掌。皮の分厚い使い込まれた指先。骨ばった指。震えて滑る指先が、彼の形を伝えてくる。

 望加のものとは似ても似つかない。

 温度も、彼の方がずっと高かった。


 ヒッ、と。引きつる音を立て、下手くそになった呼吸が詰まる。

 キュルルと高い音を立てるワイヤーが、胸の内を引き裂くように響く。


 繋がっているように見える、細い糸。その先を握る人の手をただ、信じるしかできない。

 滑りかける指先を、硬い指が掴む。

 ギュッと強く握られて、解けないよう絡む指に引き寄せられた。


「俺があんたを信じると言えば……それは、あんたへの償いになるか?」


 指の隙間に入り込んだ指。握られるままに、掌がヒタリと重なる。明司の声は力なく揺れて、余韻に自虐的な笑みを含んでいた。


「……なんて、そんな話をしてんじゃねえよな。望加のことを想う気持ちは、あんたと同じだ……けどごめん。俺は今――どうしようもなく、あんたが大事だ」


 喉の奥で、息が詰まった。

 自然と開いた唇の隙間に、熱い息が滲む。


「お前が、壊れちまいそうだ」


 慰める温度を孕んだ、限りなく優しい声。


「俺が……あんたを守る」


 乱れていた呼吸が、急速に凪いでいく。

 揺らいでいた自身の輪郭が、ちゃんと人の形を成すように。

 蒼葉の指の形を確かめ、なぞるように振れる指先。

 ハッ、と。吐き出された息の強さに、蒼葉は顔を上げた。


「俺は、俺の全部をかけてあんたの力になりたい」


 閉ざされた庫内に、あり得ないはずの色が差し込む。

 焼け落ちたように感じていたオレンジが、再び芽吹く。


「失いかけてた俺っていう存在を、もう一度取り戻させてくれたのはあんたなんだ。あんたが、俺を信じてくれたから」


 伝わる熱が、緊張で冷えていた掌を体温で染めていく。

 蒼葉は喘ぐように息を吐き、明司の指を握り返した。


「俺は何をすればいい。あんたが何をするつもりか、全部教えてくれ」


 同じ温度になる指先の震えが――止まった。


「俺はあんたを――信じる」


 震える息がこぼれた。嗚咽ではなく、安堵と歓喜の笑み。

 燃えるような熱を持っていたECHOが、その余韻だけを残して温度を潜めていく。


 青い光を瞬く音。それを彼女の同意だととるのはあまりに傲慢だろう。


 けれども脳内には、鮮やかなオレンジがふわりと咲いた。

 望加と、明司から視える同じ色彩。

 

 その色に背中を押されて、蒼葉はスゥと息を吸い込む。

 

 これでいい。間違っていない。


 機能しない声帯から、微かに嗚咽の欠片がこぼれ落ちる。



『望加の声を――消します』



《7/END》

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