空白の街

徳田朝雨

第1話 逃避と備忘

 空白の街、というのを知ってる?


 ずいぶん前、1人旅をしていた時のことだった。ぼくは列車に揺られていて、駆け抜けていく山々とか、雲とか、ひゅーと鳴る風にばかり目を向けていたから、その問いかけに気づくのには少しの間を必要としたのだけれど、


「ごめんなさい、なんですって?」

「空白の街」


 知ってる? と、通路を挟んだ向こう側の男が再び聞いた。この男—というのはつまり、紆余曲折あって今は旅仲間となった七瀬ななせアルのことなのだけれど—それはまあ、一旦置いておくとして。

 ぼくはまだ何も言葉を返しちゃいなかったが、七瀬はそのまま話を続けた。そもそも、端から質問のつもりではなかったのかもしれない。彼は語ることが好きだから。


「その街は、旅の中で、ふとした瞬間に現れるんだ。旅人が疲れ果てたとき、あるいは、何にも意味を見出せなくなったときに、真っ白なページのように彼らを包み込むのだとか」


 へえ、という相槌は中身を伴わず消えた。がたんごとん、という音と振動が身体を震わせる。列車にはぼくたち2人だけだった。そもそも、ぼくは何処から、いつからここに座っていたのだか、それすらも曖昧になっていた。とにかく疲れていたのだ。

 相も変わらず、ぼくは口を開けずにいたけれど、七瀬は1人語り続けている。街の住民についてとか、突然の自己紹介とか、「ところで君、相当疲れてそうだね!」とか。とにかくざっくばらんに。

 申し訳ないけれど、少しうるさい。車両を変わろうか……等と思い始めたら、途端に、自分が今いる場所が気に食わなくなってきた。

 ……いいや、思えば、初めからだったのだ。


 ふいに蘇った記憶の中で、ぼくはただひたすらに逃げていた。そこそこに恵まれていた人生の全てを投げ捨てて、鞄ひとつを抱えて、夜明けも待たずに駆け出した。そうしようと思ったわけではなくて、気づいたらそうなっていたのだ。消えてしまえたらどんなに良かったかと思うけれど、そうやって命を断つほどぼくは絶望しきっていなかったし、どうしても生存への執着は捨てられなかった。

 故郷を去るとして、ぼくは丸切り別物になりたかった。仕事で得た絶望の残滓すら連れて行きたくはなかったから、ずうっと前に履いていた靴を引っ張り出してやった。それで、走って、走って、そうしているうちに、気づけば、靴の裏はぼろぼろと剥がれ落ちていた。アスファルトとぼくの体重の板挟みになって擦り下ろされたからだ。生活の濁流で崩れ行く自分の姿が重なり、少し泣いた。加水分解とか言ったと思うけれど、ともかく。

 走り続けてきた。あらゆる場所を走った。少し立ち止まろうかと考えたことがちょっとも無いわけではないが、やはりどこも自分の居場所ではないような気がして、逃げた。逃げて、逃げて、もう、世界中の大半を見て回ったような気すらしたのに、どうやらどこにも、帰る場所は見つけられなかった。


「そんな街があるんなら、とうの昔に、ぼくの前に現れてるはずだ」

「というと?」

「無いんだよ。その話は迷信だってこと」

「夢がないなあ」


 まあ別に僕も信じちゃいないんだけどね、と彼は笑った。じゃあ何で急にその題目で話しかけてきたんだよ、とは言わなかった。多分この人も疲れているんだろう、という気がしたからだった。

 それで、ぼくらは黙った。

 列車が走る小気味良い音と、しんとした空気が肺を冷やしていた。

 

 昔から、冬の早朝が好きだった。冷たい空気はそれだけで澄んでいるような錯覚を与えてくれるからだ。ぼくの故郷というものは機械まみれで汚いところだったし、そんな場所の空気は当然澄んでいるはずもなかったけれど。冷えているというただそれだけで、それがまるで綺麗なものに様変わりしたような気さえするのだった。

 色んな場所を通り抜けてきて、今はもう、本物の「綺麗な空気」というものを知っているはずなのだけれど、それでも、どこにいても、冷たい空気は「良いものだ」という気がしてくる。

 冷えが指先を侵食する感覚も、ぼくには心地よかった。それは多分、致命傷になるほどの寒さを経験したことがないから、というのもあるだろうが。


「それはさておき、君はこれから何処へ?」

「何処へでも」

「投げやりだなあ」

「そっちはどうなんだ」

「何処へでも」

「なんなんだよ……」


 鸚鵡返しのようなセリフに顔を顰めれば、彼は心底面白そうに笑って見せた。

 光を編んだような白髪が、窓の向こうの微かな陽を受けて霞んでいる。ぼくとは正反対の色だ。髪も、目も。どこがどんな色だろうが、形だろうが、結局のところ骨で、血で、肉に違いはないので、どうでもいいと言えばいいのだけれど、まあ、綺麗だとは思った。


「君は何処から」

「さむーいところから。君は?」

「寒かったり暑かったり、心地よかったりするところから」

「そう」


 それでまた、ぼくらは黙った。

 お互いに、偶然同じ列車に乗り合わせた他人に過ぎなかったので、興味という興味はなかったのだ。良くも悪くも、それはぼくにとって心地よかった。

 基本的に—個人的に思うこととして—人間は周囲に興味がありすぎる。それは生き延びるための知恵でもあるし、そういう意味ではぼくは生きることに無頓着すぎたのかもしれないけれど。

 ぼくは悪意に疎い。好意にも疎い。人間は怖い。結局言いたいのは、干渉しないので干渉しないでください、というだけのことだったのだが、これが世界では非常に難しいらしかった。

 人という字は人と人とが支え合ってできている、とか、親戚の誰かの葬式のときに、これまた親戚の誰かが延々と語っていた記憶がぼんやり残っている。でも多分、「人と人とは"結果的には"支え合うような形になってぎりぎり成り立っている」という方が、よほど現実を捉えた表現なのではないだろうか。

 崇高な人の考えることは知らないけれど、大半の人は、生きるため、対価のために労働をしていて、その結果他者を支えることにつながっている、というだけだと思うのだけれど……。

 と。様々な事をごちゃごちゃと考え続けているから、疲れもするわけである。

 これがいわゆるぼくの悪癖で、聞かれてもいないことを勝手に、延々と、目が覚めてから眠るまで考えずにはいられないのだった。

 これは七瀬も同じようなもので、彼もまた、聞かれてもいないことを勝手に、延々と、目が覚めてから眠るまで語らずにはいられないのだった。とはいえ、このころ—出会ったばかりの頃—はこうして黙っていられたのだから、少しはマシだったんだろう。それとも、知らないうちにぼくが悪影響でも与えてしまったのだろうか。

 やっぱり近いうちに別行動に切り替えた方が良いな。


 ともかく。これがぼくと七瀬の出会いの一端で、「空白の街」を追う旅の始まりでもある。それを少しずつ、いつかの自分を慰めるために、備忘録的に書き連ねてゆきたいのだ。

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空白の街 徳田朝雨 @Tkd_Asa

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