脇役転生したからチート主人公の腰巾着しようと思った
カタツムリ
第1話
平成生まれの日本人男性の記憶を持って異世界の侯爵家の長男に生まれた。
お、これは流行の異世界転生系俺Tueeeeeか? 剣と魔法で世界救う系? それとも内政チートで産業革命? まあハーレム物は確定だな、とか思った。
だってめちゃイケメンだったんだよ、俺。窓の外に金髪碧眼の天使ちゃんがいると思ったら鏡だったなんて嘘のような本当の話。天使ちゃんな俺は成長したら綺麗系イケメンになった。モテないわけがない。
給料が出るだけマシみたいなブラックに近いグレーな会社で毎日くたくたになるまで働いてさ、結婚どころか彼女なんて夢の夢みたいなうだつの上がらない男がさ、地位も名誉も金もあるイケメン様だよ? そりゃチートハーレムキター!ってなるよね。
まあ、全部俺の妄想だったわけなんですけど。
この世界、剣はあったけど魔法はないし、俺が考えられる程度の技術や制度はすでにそこそこ運用されてた。大きな町には上下水道が整備されてるし、ノーフォーク農法も品種こそ違ったけど似たようなのが導入済み。医療分野は抗生物質やワクチンこそなかったが衛生観念が発達していて手洗いうがい、熱湯消毒も一般常識。アオカビから抗生物質? 漫画で読んだけど作り方なんて覚えてねえし、天然痘からワクチンとか全くわからん。政治関連は俺の頭の出来が悪いので食い込むとっかかりさえ分からん。民主主義を推し進めるとかどうやんの? 基本的人権とかどうやって特権階級に認めさせるの? 知らんし、それを進めることで今よりも国が良くなるかどうか、俺には全然わからんかった。だって、身分社会だけどうちの国かなり豊かみたいで平民も結構いい暮らししてる。
ファンタジーなラノベにありがちな近世ヨーロッパみたいな見た目しておきながら、文化レベルは限りなく近代に近かった。トイレ水洗だし風呂もちゃんと入れるし、飯はうまいし、大変快適。
俺やることない。
んじゃ武力チートかと思いきや、この世界の武力チート頭おかしかった。
体鍛えて俺Tueeeを目指すべく三歳から毎朝庭を走り回り、その辺に落ちてた棒で素振りを繰り返し、五歳で剣の師匠を得てからは将来は将軍かと誉めそやされた俺だったが、チートなんてなかった。
なかったんや…。
つか師匠の誉め言葉はアレだ、完全に俺の親に対する胡麻すりだわ。すんげえ鼻高々で棒きれ振り回してた子供の俺は確実に可愛かった。中身三十路越えてたのに、頭の中まで可愛いかったでちゅねー。
この世界のチート様は拳で岩を砕き、剣の一振りで大地を裂き、万の兵がこもる城を百の兵で落とした武力、知力共にチートな世紀末覇王様だったのだ。俺どころではない地位と名誉と財を持ち、さらに武力、知略、人望ガン積み。これはバグキャラですわー。しかも容姿も男なら誰でも一度はなってみたいワイルド系イケメンに筋肉のしっかりついたマッチョですよ。やたらと発達した見せ筋肉じゃなくて実用系マッチョな。もうね、俺がなりたかったイケメンそのものよ。確かに俺だって今生は女の子にキャーキャー言われる綺麗系さんになりましたよ。父上、母上ありがとうと感謝の気持ちを忘れたことはありませんよ。でもね、男の子はね、どうしても筋肉に惹かれるんですよ。荷物を持ち上げるときにぐっと盛り上がる上腕二頭筋とか、六つに分かれた腹筋とか、汗の滴る僧帽筋とかね、もううっとりしちゃうじゃないですかー。
男の子そういうの好きー! ってなるでしょ。
まあ、チート様は幼馴染の兄ちゃんで、めちゃくちゃ俺に甘かったので普通に大好きになった。結構わがままも言ったしムカつくガキだったと思うが、甘いのでしょうがないなあ、とデレデレした顔で聞いてくれる。それでも最後の最後は絶対にチート様のご意思が優先されるのだが、そこはチート様なのでしょうがない。俺の人生はチート様とすでに一蓮托生。チート様のコバンザメとして貴族社会で泳ぎぬくしかないのだ。チート様はチート様なので今のところ俺も俺の家も安泰。
そんなチート様と一緒にいるから、あ、俺、チート様の覇王伝説の脇役かな? とか思って身の程を弁えちゃうよね。異世界転生系主人公終了のお知らせ。
流されるままに長男だから嫁貰って、親から爵位を継いで、子供も長女と長男に恵まれた。なんとか子供にちゃんと家を継がせてやりたいなーって財産も地位も維持できるように頑張って、チート様のご機嫌伺い行ったり、チート様と遊んだり、チート様のご活躍を褒め称えたりしながら、たまに幼馴染と茶しばいて、貴族家当主とか向いてないから早く引退したいなーなんて日々を過ごしてたら。
「お父様、申し訳ありません。わたくし、殿下から婚約破棄を言い渡されました」
屋敷の執務室に淑女ならぬ勢いで飛び込んできた愛しの我が娘が悔しそうにそう言うではないか。
なんのこっちゃ???? と脳みそが停止しても致し方ない。
そうして数秒、吾輩の天才的な頭脳が閃いてしまった。
俺、悪役令嬢の父親だったのか!
さて、王都から馬で半月ほど北に向かうと広大な岩砂漠と荒野の広がる隣国との国境線を守る王国最大の要衝都市がある。豊かな土地の広がる南へ国境線を押し広げたい隣国との係争が絶えぬ地であり、また隣国との貿易の窓口でもあるという複雑な都市だ。本来であれば国の直轄地となるべき要所だが、隣国への睨みを効かせるために先だっての隣国との戦争で王国を勝利に導いた英雄に領地として与えられた。英雄の名をエルトリート大公ヴェルリッド。母親の身分の低さから王位継承権を放棄し一代限りの公爵位を与えられた現王の異母兄である。
そんでもってめちゃくちゃカッコいいチート様である。
窓の外に広がる荒野に目に見える線はない。隣国との緩衝地帯を挟んでこの国を守るのは三重の門と灰色の石造りの巨大な要塞。
その要塞の大変ご立派な執務室の机に座る偉丈夫を俺は惚れ惚れと見た。
俺より五つ年上のチート様は四十半ばになろうかという年だが、艶々とした黒髪には白髪一つ見えない。キリリとした太い眉の下の切れ長の目には野生の獣のような獰猛な色が宿り、むんずと引き結んだデカい口は獲物の首を容易く噛みちぎるだろう。太い首とそれを支える巌のような肩にはしっかりした筋肉が盛り上がっていてこの世で軍服が一番似合うで賞を差し上げたい。ごつごつしてカッコいい。完全に機動兵器の貫禄。
俺はうんうんと頷いた。
「それで、お前のとこの娘をコケにしたクソガキはどうしたんだ?」
低く響く声まで良い。
「知らね。話聞いてすぐ王都出てきた。俺だけ馬で嫁さんと子供たちは馬車だから、あと一週間くらいしたら来るかな?」
ざっくばらんな口調で俺は答えた。貴族的な話し方もできない事は無いが幼なじみの兄ちゃんにその必要は無い。
ちなみに娘の婚約者は現王の三男だった。
現王は王太后の唯一の息子で四年前に即位したばかり。まだ権力地盤に不安がある。それどころか、先王崩御後から政務に口を出すようになった王太后のせいで法服貴族からのヘイトが徐々に積もっている。まあ、うちは貴族院の議席は持ってるけど国の役職は持ってないからよくは知らん。議会の時だけ席に座ってボーとしてるとでっかい議員年金貰えるからラッキーくらいの気持ちでいるので。
んで、そんなうちと王子様がなんで婚約を結んだかいうと、向こうから頼まれてなわけです。俺からそんな面倒なこと頼むわけがない。
そもそもの原因はチート様だ。
チート様は王位継承権を放棄しているが長年の隣国との戦に連戦連勝の大英雄。軍閥貴族からの支持はもちろん、民からの支持も厚い。その上、領地を任されてからはチート様の内政チートが火を吹き、たった数年で度重なる係争で荒れ果てスラム街みてえだった国境の街が国随一の貿易都市として生まれ変わった。国を跨いで膨大な利益をあげた商人たちはチート様にメロメロである。
なんでこいつが王じゃないんだって言われても仕方ないね。チート様だから。
これを中央の王太后派閥の貴族たちは面白く思わなかった。思わなかったが、ここまでの名声を得たチート様を排除できる人間はいなかった。
そりゃそうよ、チート様が王になってりゃこの国は今頃この大陸を統一してたって俺は驚かないね。
そんなチート様になんとか鎖を付けたいと目をつけられたのがチート様の腰巾着である俺の娘。
大変悔しいが俺にはチートがないので王様から直々に命令されたらお断りできないのだ。世知辛いね。
チート様ご本人は継承権を放棄した時に婚姻しないこと、子を持たないことを誓約させられていたのでそういった柵がなかったのだ。王太后が強引に飲ませた条件がチート様を有利にする流れ痺れる。ざまあ、とか思ってたら、うちに矛先が向いたのマジうける。
まあ、チート様は俺を可愛がってくれてるので、俺の娘のことも無碍にはしない。どっちかっていうとめちゃ可愛がってる。なんでも買ってくれる気前のいい親戚のおじちゃんポジションを獲得してる。
そんなわけでチート様が万が一にも中央に牙を剥かないように、俺の娘はか細い鎖となって第三王子と繋がれたのでした。クソッタレどもめ。
第一王子は同盟国の姫と婚姻を結び国同士の友好を、第二王子は王太后派の中央貴族から婚約者を選び権力の足固めを、そして第三王子にはチート様の子飼い貴族の娘と結ぶことで牽制と軍閥貴族の取り込みを。王権を揺るぎないものとしたい現王が示した道筋だ。
だけどざーんねん! 鎖は切れた!
「クソガキがバカなおかげで可愛い娘ちゃんを不幸にしなくて済んだ。感謝したいくらいだよ」
俺がニヤニヤと笑いながら言うと、チート様も唇を片方だけ上げてニヤリと笑った。
「それはそうだが、ケジメは別だ」
さて、どこまでやってやりたい? とチート様が聞く。それを待ってましたと、俺は腕を広げる。
「どこまででも!」
チート様が面白がるかのように俺を見た。
サーカスの前座を眺める観客のように。頬杖をつきながらニヒルに笑う。
俺は期待に応える腰巾着だぜ!
「王都屋敷は抜け殻! 主要街道は封鎖した! 侯爵領の兵はいつでも発てる! 呼応した貴族家へ伝令も走らせた! そんでもって!」
観客一名の晴れ舞台に俺は満面の笑みを浮かべる。
「ルーディは教会を出た!」
笑って俺の言葉を聞いていたチート様が目を見開く。
ルーディ、ルードルフ、俺の幼なじみ。チート様の同母兄妹で先王の三男だ。
チート様とルーディの母親である側妃様が亡くなった後、すぐに教会に入れられた。母の死を悼むために自ら信仰の道を選んだなんて言われているが、そんなわけあるか。十五歳のやんちゃボーイが女の子と触れ合うこともできない辛気くせえ男ばっかの教会に自分から行くわけねえだろ。
何より、ルーディは俺の目の前で攫われたのだ。
成人したばかりのチート様は母の死を悼む間も無く戦に駆り出され、父親は最愛の側妃の死に心を病んで部屋に篭って出てこなくなった。
質素な葬儀の後は王妃派の貴族が宮中で大きな顔をして、使用人たちでさえルーディの周りからは消えた。
ルーディは一人だった。
五歳の時に貴族の子供を集めたガーデンパーティーで出会って以来、俺は引っ込み思案のルーディを子分だと思ってる。ルーディと出会わなければチート様にも出会えなかったのだから感謝も込めて面倒を見てやってた。まあ、身分はあいつのほうが上だけど。
だから、あの日もルーディが王宮で頼るべき人もなく不便をしていると聞いて、チート様が帰ってくるまでうちの領地に来いと誘いに行ったのだ。
誰もいない離宮で、ルーディが自分で入れたまっずい茶を飲みながら。
一瞬だった。誰かに頭を殴られて気を失った。ルーディが何かを叫んでいた気がしたが、分からない。気がついた時は王都の侯爵家の自室で寝ていて3日たっていた。
3日のうちにルーディは止める俺を振り切って教会に駆け込んだことになっていたし、俺はルーディに殴られて頭を打ったことになっていた。違うと言ってもそういうことになっていた。控えていた使用人が証言し、門番はルーディが通用門から抜け出すのを見送ったと言う。
いもしなかった使用人と見てないものを証言する門番がのうのうと居座る王宮で俺の言葉は誰にも届かなかったし、侯爵家当主の父の抗議さえ王宮は無視した。王は沈黙していた。
教会に申し出たルーディとの面会は全て断られ、チート様への手紙は握りつぶされた。軍の輜重部隊に潜り込ませた人間から伝言が伝わったのはルーディが攫われてから半年もたってからだった。
チート様はそこからわずか一週間で膠着した戦況を我が国有利の停戦状態まで持っていき王都に凱旋した。
凱旋式典のために貴族たちが集められた謁見の間で、チート様は王位継承権を放棄した。生涯、妻も娶らず子も設けず、その身を王国に捧げると宣言して。
真っ赤な絨毯に膝をついて首を垂れたのだ。
チート様が! 玉座に座る王と王妃に!
あの時の屈辱! 体の中から内臓を焼かれているような! 目の前の全てを否定したくて叫び出したいのを必死に我慢した!
口の中噛んでズタボロになってたのも気づかんくらい我慢したし、握りすぎた掌は爪で穴開いて血出てた。
式典後、チート様の離宮に突撃して土下座した。ルーディを守れなかった事、チート様に膝を付かせたこと、全てが申し訳なかった。俺が十五歳のピチピチ可愛い天使ちゃんなだけの無力な脇役だったばっかりに。
チート様は口からダラダラと血を流しながら土下座する俺にドン引きしながら頭を上げさせた。
それから、俺の頭を軽く殴った。チート様の軽くは天使のような十五歳の俺には全然軽くなくてめちゃくちゃ痛かった。めちゃくちゃ痛かったから、俺は泣いた。痛くて泣いた。
泣きじゃくる俺にチート様は子供の頃したように頭をぐちゃぐちゃに撫でた。
「ルーディは生きている」
それだけは確実だ。だってそのためにチート様は全てを捨てた。生きている、そう取引がされたのだ。
ルーディと会えたのはそれから三年後。司祭となり教会の儀礼にも出るようになったため面会が許された。もちろんそこに至るまでとんでもない額の寄付をしたし、手当たり次第に袖の下も忍ばせた。金の力は偉大なりー。でも面会が許可されたのは俺だけ。教会はクソ、知ってました。
三年ぶりの幼なじみは随分と痩せほそり、右足を引きずっていた。ふざけんなって思った。俺の幼なじみだぞ、チート様の弟だぞ、王族で、引っ込み思案で、ビビリのくせに俺の後ろをついて回る子分なんだぞ。
三年ぶりの子分は久しぶり〜、元気だった〜? と笑いながら言った。元気元気、お前は〜、っていつも通りに返しておいた。そんで五分くらいでお時間ですのでって追い出された。やっぱり教会はクソ。
それからは年に数回、でっかい寄付の後にちょっとだけ会えるようになった。めちゃ指名料高いキャバ嬢かよ。ふざけんな。
チート様がルーディに会えるのは戦場に行く前の出陣式でだけだった。戦勝を祈る司教の後ろに並ぶ司祭の一人として。声をかけることも、視線を向けることもできず、ただ生きていることだけを確認していた。
二十年だ。
二十年、俺たちは首輪をつけられ、鎖に繋がれていた。
もういいだろう? 二十年はクソッタレのジジイどもが死んで、上層部が入れ替わるのに十分な時間だ。
教会は密かに内部で割れ、教主国から派遣された司教と王太后派の司教が対立している。
二十年前に教主国の修道院に突っ込んだ親族の庶子は潤沢な資金を使っていい仕事をしてくれた。無茶振りするなと泣き言を手紙に認めていた平民のクソガキが今では管区長である。さてはお前もチート。
教会に、軍に、官吏に、商人に、二十年間あらゆる場所に人を送り続けた。チート様を信奉し、チート様のために死ねる人間を育て続けた。無力で可愛いだけの俺にできるせめてもの準備だ。
いや、三十だいぶすぎて可愛いはなかったわ、そこは異論を認めるわ。
もう準備は十分できた。
ルーディは秘密裏に教会を出て今頃俺の妻子と合流しているはず。
二十年間、反抗もせず大人しく過ごしていたルーディは司教補の座にある。王族で王弟なのだから司教でもおかしくないのに、王太后派はいまだにルーディに権力を持たせることを忌んでいた。それでも長い年月を教会で過ごせば監視の目は緩む。かつてのことを知らず、ただ誠実な聖職者としてのルーディを慕うものも出てくる。そうした彼らに守られ、ルーディは教会を出た。二十年ぶりに、その敷地から足を踏み出したのである。運動不足で鈍った体が大丈夫か心配。我々、もう中年だからね。
「鎖は切れた! 首輪は外れた! どこまででも俺たちは行ける!」
歌劇の役者のように、俺は右手を胸に当てて左を大きく広げた。
自信満々に、勝利を確信した顔をして。
しっかりと前座は温めた。これから一世一代のショーが始まる。
楽しい楽しいチート様のチート劇場だ。俺はそれを特等席で眺めるのだ。なんという役得。脇役転生最高。
チート様は顔に手を当てて上を向いた。
そして、弾けたように笑い出した。お、ウケた?
「お前は、本当に、昔から変わらない」
笑いながらチート様が息も絶え絶えに言う。めっちゃ爆笑するじゃん?
「ついて来い」
立ち上がったチート様の獰猛な覇気を宿した目がギラギラと輝く。歯を剥き出しにして笑うチート様に、俺もニッコリしてしまう。
「もちろん! どこまででも!」
部屋を出て控えていた側近たちに招集をかけるチート様の背中が頼もしくて、俺はウキウキと下手なスキップを踏む。
砦はにわかに騒がしくなり、兵士たちが小走りに伝令に出る。
楽しいなあ、本当に、ワクワクしちゃう。
そんな俺を通りすがりの兵士がギョッとして見ていたが、気にしてはいけない。
俺はチート様の覇気あふれる背中を見るのに忙しいのだ。
ここ数日でレオノーラの思い描いていた未来は濁流に飲み込まれ、未来どころか現在の自分の状況さえわからないまま馬車に揺られている。
どうしてこんなことになっているのかしら?
本当に不思議に思いながら、レオノーラは母と弟と自分の乗る馬車に同乗する人物を見た。
艶めく黒髪を肩口で切り揃え、柔和な面立ちで微笑むのは王都教会の司教補で父の友人でもあった。レオノーラと弟の洗礼も彼が行ってくれたので面識はある。
だが、なぜこんな状況になっているのか。レオノーラは小首を傾げた。
先日、早咲きの薔薇を楽しむ王宮主催のガーデンパーティーで突然に婚約者から婚約破棄を言い渡された。
お互いにこの婚約をよく思っていないことは分かっていたが、軍閥貴族の取り込みに必要なこの婚約は王家にとってなくてはならいものだとレオノーラは認識していた。レオノーラの父は軍務にはついていないが、かつて国軍の将軍を務めていたエルトリート大公と個人的に親交があり、自分たちもよくしてもらっている。そのおかげで侯爵家は軍閥貴族寄りと思われていたし、実際、父が付き合うのは大公を信奉する軍閥貴族ばかりだった。
大公を支持する貴族の取り込み、ひいては王家の安寧のためにレオノーラは第三王子に嫁ぐのだと十歳の時に王家から派遣された家庭教師に言われた。なるほど、つまりは国家のため自分は嫁ぐのだと幼いながらも賢いレオノーラは納得した。国に尽くすのは貴族の義務である。
レオノーラよりも父の方が聞き分けが悪く、何度も嫌だ嫌だと駄々を捏ねていた。
レオノーラにとって父はいつもニコニコしてて優しいが、なんだかよくわからない人だった。貴族らしくもなく、かといって平民のようでもなく、なんだか地に足のついてないふわふわした人だった。昔は天使のように可愛らしかったんだよ、と自分で言っていたが、今でも天使のように麗しい容姿をしている。その父に似ていると言われるとレオノーラは嬉しいような悔しいような気持ちなる。
父のことはともかく、この婚約が国家のためのものだとお互い認識しているとレオノーラは思っていたのだ。
それなのに、殿下は婚約を破棄した。
麗らかな日差しの下、咲き誇る薔薇の香りに包まれた王家の庭園。貴婦人たちが美しく着飾り、花々とその艶を競うような典雅な席で、婚約者は彼女の顔に泥を塗った。
思い出すのも忌々しい。
庭園に現れた殿下と殿下の腕にベッタリと張り付いた榛色の髪をした少女。
殿下の瞳の色をしたドレスを身につけ、華奢な体を震わせながら涙目で睨まれた。会ったこともない少女だというのに。
婚約者以外の少女をエスコートした殿下を眉を顰めてみるものもいれば、レオノーラを揶揄するように見るものもいた。
殿下はそんな周りの目を気にすることなくレオノーラを忌々しそうに見て言葉をぶつけた。
その少女に辛く当たっただの、軍閥貴族は時代遅れの野蛮人ばかりだの、戯言ばかり言い募る。
初めて会った少女に何かした覚えもないし、何十年と続いている隣国との係争が落ち着いているのは今も国境を守っている大公閣下のおかげだ。
彼は、そんなことも分からないのか。
婚約を破棄すると言われたときは悔しさもあったが、一種の開放感もあった。
けれど、その後に言われた言葉はレオノーラにとって予想外なほどに不快で、彼女の中の怒りを煽った。
ぱきり、と手に握った扇の骨が折れた。
「あら、どうしたの?」
隣に座った母がレオノーラの手元を見た。怪我はしてない? と優しく聞かれて、大丈夫だとレオノーラは答えた。
この扇はもう使えない。気に入っていたのに。
レオノーラはため息をついた。
「何か、お悩みかな?」
ルードルフ師が穏やかに尋ねる。レオノーラは思い出した怒りを少しだけ宥めて淑女らしく小さく笑みを浮かべた。
「大したことではございませんの、先日少々不愉快なことを言われまして」
「何を言われたんですか姉上?」
言葉を濁して話を変えようとしているのにルードルフ師の隣に座った弟があっけらかんと聞いてくる。
この十歳になる弟は見目は母に似ているが中身は父にそっくりだった。空気を読まないし、人の顔色も見ない。
困ったように笑うと、意外なことに母が口を開いた。
「思い出して怒りが湧いてくるくらい不快な言葉なら吐き出しておしまいなさい。ここにいるのは家族だけよ」
家族だけ、と言われてルードルフ師を見る。ルードルフ師は家族だった? ルードルフ師も困ったような照れたような顔をして母を見た。
母はそれを澄ました顔をして無視していた。
破天荒な父に寄り添い、家内を守る堅実な母はレオノーラにとって貴婦人の鑑である。その母が、さあ、とレオノーラを促す。
母がそういうなら、とレオノーラは口を開いた。
「ええ、殿下に婚約の破棄を言い渡された時に言われたのです。へらへらと笑って大公に媚を売るしか能のない道化の娘など王家に相応しくないと」
口に出してみると、胃の奥の熾火が燃え上がるような怒りが湧く。
確かに父はいつも笑っているし、大公閣下への信奉は度を越していると思わなくもない。
しかし、それらは下心あって媚を売っているわけではない。父は本当に単純に、大公閣下が大好きなだけの昼行燈なのである。それは大公閣下も分かっているから父に目をかけてくれているのだろう。
だからこそレオノーラが婚約者に選ばれたというのに。
いや、素直になろう、レオノーラ自身も父はちょっと貴族家の当主としてどうかと思う。しっかり者の母がいなければ侯爵家はどうなっていただろうか。いつもフラフラしていて、最近見ないなと思うと大抵大公閣下のところに入り浸っている。特に国の要職につくわけでもなく、たまに貴族院議員として議会の席を温めているくらいしか仕事をしているところを見たことがない。
中央貴族に道化と呼ばれていることは知っていた。軍閥貴族の若者のなかにも大公閣下の太鼓持ちと揶揄するものはいた。
レオノーラもそれらをわざわざ否定したりはしない。
しかし、しかしだ、それとこれとは別なのだ。
レオノーラの父はきちんとレオノーラのことを愛し、将来の幸福を願ってくれる優しい人なのだ。その家族を大勢の前で貶されたことがレオノーラには何よりも悔しかった。
唇を噛むレオノーラに母は沈黙して畳んだ扇を額に当てた。
眉間の皺が大変なことになっている。
「そう見えるとしても人から言われるとムカつくね!」
弟が無邪気に笑う。そう、そうなのだ、自分で思ってても人に言われるとムカつくのだ。
母はため息を一つついた。
「お若い方はご存知ないから、仕方ないわね」
「もう十年以上、大きな戦はありませんからねえ」
ルードルフ師が母の言葉に頷く。
少し言葉を選ぶように視線を迷わせてから、母は口を開いた。
「旦那様を道化と言い出したのは隣国との戦いの最前線に出ていた兵士たちなの。正しくは『血塗れ道化師』ね」
思いもしない物騒な話が出てきてレオノーラは目を丸くした。弟はなんか面白そうな話が始まったぞとワクワクした顔をしている。
「旦那様はまだ十七かそこらではなかったかしら? 隣国との戦いが一番頻発していた頃よ、大公閣下は戦場を渡り歩いて王都に戻ることなく国境を守ってらっしゃって」
「父上は軍務についてなかったんでしょ? なんで兵士にあだ名をつけられるの?」
弟の問いにルードルフ師は苦笑し、母はため息をついた。
「勝手についていったのよ」
はあ? と思わず淑女らしからぬ声が溢れた。
「大公閣下の私兵だと言い張ってついて行ったの」
「侯爵家の嫡男が?」
そう、侯爵家の嫡男が、と母は頷いた。
弟は笑い転げて隣に座るルードルフ師の膝に倒れ込んだ。ルードルフ師は優しく肩を叩いて大丈夫? と声をかけていた。
「大公閣下の行くところ、全てについて回ったの。どんな激戦地でも、閣下の後ろにぴったりとついて、にこにこ笑ってたとお祖父様がおっしゃってたわ」
母の実家は代々優秀な軍人を送り出してきた生粋の軍閥貴族家だった。かつては戦場で兵を率いていたお祖父様は現在も国軍の上層部にいる。
「ひどい混戦となった戦場で兵士たちが誰も閣下についていけなくなっても、旦那様だけは閣下に最後までお供して、全身血塗れにしてニコニコしながら帰ってくるのですって。そして、閣下の活躍を血塗れのまま兵士たちに語ってね。その語り口がまた大層おもしろいと兵士たちが集まって。ついたあだ名が『血塗れ道化師』」
弟が笑いすぎて呼吸困難になっていた。なにがこんなにツボにハマってしまったのか姉には分からない。
「3年くらいついて回って、大怪我をして戦地からお戻りになったところを旦那様のお父様に捕まって戦場に行かせないために侯爵位を継がされたのよ」
さすがに軍人でもない侯爵が戦場に気軽に出るわけには行かないので。
「お父様のお怪我は戦場で?」
レオノーラが心配して聞くと、ルードルフ師が吹き出した。慌てて顔を背けていたが顔が笑っている。
「馬の上でうたた寝して転げ落ちたそうよ」
お父様、とレオノーラは目を閉じた。
弟は瀕死だった。
「その頃を知ってる方が旦那様を道化と呼ぶのは仲間意識と畏怖があってのこと。決して侮られて呼ばれたものではなかったの」
けれど、それを聞いた中央貴族は由来も知らず父を蔑んだ。今では軍閥の若者でさえ。面白くないこと、と母は扇子をピシリと音を立てて閉めた。
「あなたと殿下の婚約はわたくしの失敗だわ。あれほど疎んでいる閣下の子飼いと縁を結ぼうなんて王太后殿下のお考えにはありえないことでした。陛下が王太后殿下の意に反してことを進めるほどの意思があるなど、我々は想像もしていなかったのよ」
母はそっと言葉を吐き出した。
そこに滲む後悔と謝罪を察せないほど鈍い娘ではなかった。
「侯爵夫人だけではありませんよ、皆、あの王に自分の意思があるなど思ったこともなかったでしょう。私はきっと二番目の兄上は人形なんだろうと幼い頃は思っていたものです」
ルードルフ師が母を慰める言葉にレオノーラは息を呑む。王を兄と呼ぶこの人は。
「けれど、わたくしは旦那様に嫁ぐ時にお祖父様に言われたの。あれは頭のおかしい男だが、大公閣下には必要な男だと。あれを家のことで煩わせず自由にさせるのがお前の役目と」
「少将閣下も無理をおっしゃる。あれを自由にさせておいたら兄と一緒にどこまでも飛んでいってしまいますよ。あれは兄をその気にさせるのが昔から上手いんですよ」
呆れたように言う。
お父様が頭のおかしい男であることは否定しないんだ、と弟が呟いたが、大人たちは上品に聞かなかったことにしていた。
なんだか知らないこと、分からない話ばかりで目を瞬かせてしまう。そんなレオノーラに気がついたのか、ルードルフ師は何でもないように、自分は大公閣下の同母弟だと言う。
「王宮では私のことは触れることさえ憚られているようなので、お若い方は先王に三人目の子がいたことさえ知らないでしょうねえ。あの人たちは都合の悪いものは見えない場所に追いやってしまえば始めからなかったものになると思っているんですよ」
そんなわけがないと朗らかにルードルフ師は笑う。その細めた目の奥に灯る色が確かに大公閣下に似ているとレオノーラは思った。
知らなかったこと、分からないことばかりだ。自分は賢いと思っていた。王族に嫁ぐために十分に学んできたと、けれど今、レオノーラには何も分からない。
婚約破棄をされ、その日のうちに父は屋敷を飛び出した行った。レオノーラは夜通し荷物をまとめて翌日の早朝には母と弟と共に馬車に乗っていた。付いてきたのは数人の侍女と護衛の兵士だけ。家令は屋敷に残ったが使用人たちをまとめてその日のうちに侯爵領へ向かうと言っていた。何が起こっているのか、何も分からず、ただ迷いなく指示する母の言葉に従った。
そうして、数日馬車で揺られてたどり着いた街道の街でルードルフ師と合流。
母は始めから計画されていたかのようにルードルフ師を馬車に招いた。
教会に囚われていた足を引きずった司教補、大公閣下の弟、そして、国境の街に待つ、父と英雄。
断片が恐ろしい可能性を紡ぎ出す。
背筋がゾクゾクと粟立つ。レオノーラは全身の毛が逆立つような畏れを感じた。
「レオノーラ嬢、不安に感じることはないよ。兄もきみのお父様も君たちの幸せを願っている」
ちゃっかりとルードルフ師の膝枕で寝っ転がった弟の頭を撫でながら穏やかにその人は言う。
その言葉に、けれどレオノーラは安心できなかった。この国は荒れる。頸木から解かれた英雄が牙を剥くのだ。その未来にレオノーラは慄いた。あの日、レオノーラの婚約破棄から全てが始まった気がした。これから起こる全ての悲劇が自分のせいではないかという罪に震えた。
「そうだね、血は流れる。でも、それはかつて王太后が蒔いた種だ。君のせいじゃない」
優しく告げられても、レオノーラの指先は小さく震え、無理やり浮かべた笑みは歪んでいた。
ルードルフ師は変わらぬ笑みを浮かべてレオノーラと視線を合わせる。
「昔ねえ、君たちのお父さんが言ったんだよ。この世界は兄が主役の英雄譚の世界で私たちはその物語の脇役なんだって」
むかーしのお話だよ、とルードルフ師は言う。
化け物と呼ばれた王子がいた。生まれてすぐに産婆の指の骨を折って乳母を引き受けるのを誰もが嫌がった。母親は彼に触れもしなかった。
ヤギの乳で育ち、可哀想にと同情して三歳の彼を抱きしめた侍女を抱きしめ返して肋骨を折った。
化け物と呼ばれ、母に抱かれたことは一度もなく父に声をかけられたことさえない。弟でさえ、近づいてはいけないと言われていた。
だから王宮内でかくれんぼをしていた時にたまたま会ってしまった兄王子に近づく友達に、ダメだと注意したのだ。本人の目の前で、全部説明して。
兄王子は十歳で、弟王子は五歳だった。
「弟、人の心なさすぎでは????」
ルードルフ師の膝で爆笑する弟をレオノーラは折れた扇子で叩いた。
まあ五歳だからね、と肩をすくめてルードルフ師は続ける。
「そうしたら君たちのお父さんはね、こう言ったの『主人公の子供の頃じゃん』って」
なんかそういう物語とか読んでたのかもねえ、と懐かしそうに言う。
「キラキラした目で、天使みたいな子が見上げて言うんだよ。こういう奴が将来は英雄になるんだって。力が強くて、頭も良くて、さりげなく優しくて女の子にもモテモテになるって」
五歳の子供にそう言われ続けた化け物は英雄になった。
十五で死んでこいと初陣に出されても、敵将を打ち取り一番手柄を上げて帰ってきた。
十歳になった子供は幼なじみと一緒にそれを寿いだ。
『ほら! やっぱりこの世界はヴェルリッド様の英雄譚だ! 俺たち脇役だけどヴェルリッド様についてけば安泰だぞ!』
馬車がガタリと揺れて笑い転げていた弟がルードルフ師の膝の上から落ちた。
ルードルフ師と母は慌てて馬車の床に転がった弟に手を伸ばすが、弟は転がったまま笑っていた。
「調子乗りすぎて、途中で殺されるタイプの脇役じゃん!」
母が手のひらで弟の頭を叩き、ルードルフ師が脇の下を持って持ち上げた。
聖職者なのに意外と力があるのだなあ、とレオノーラは思った。
「まあ、ともかく、私たちは確かに自分の人生において主人公であるかもしれないけれど、世界にとっては数多いる脇役の一人にすぎないんだろうねえ」
レオノーラもこの物語の脇役にすぎないのだと言われると、何だか癪に触るような気もする。
けれど、指先の震えは収まり、ちょっと拗ねたように唇は結ばれていた。
笑いすぎて喉乾いたと騒ぐ弟から目を逸らし、馬車の窓から外を見る。
晴れた初夏の空の下、石畳の街道は終わり均しただけの土の道が続いていた。
街の近くでは一面に広がっていた田畑がだいぶ疎になり、なだらかに広がる草原に羊の群れがいる。
国境の街に繋がるこの道に、遠くない日に軍馬が駆けるのだろうか。
レオノーラは目を瞑った。
国境の街ではきっといつものように笑いながら『血塗れ道化師』が自分たちを待っている。
脇役転生したからチート主人公の腰巾着しようと思った カタツムリ @hana8
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