ダム湖の神社

丁山 因

ダム湖の神社

 ヤマシタくんは高校を卒業すると、地元の国立大学に進学した。偏差値はそこそこでも、地元で就職するには十分すぎるほど堅実な選択だ。親も安心していたし、本人も「まあ、このあたりで無難にやっていくんだろうな」と思っていた。


 一年生の夏休みを迎える頃には、サークルや同じ学部の友人たちと自然に馴染み、気づけば毎日のように誰かとつるんでいた。夜になると、仲間の部屋でゲームをしたり、どうでもいい話で笑い転げたり、若さに任せて時間を無駄遣いしては、それをまた楽しいと思える──そんな日々だった。


 八月の上旬、湿気がまとわりつくような、肌に夜気が貼り付く日。女子のリクエストでエアコンを高めにしているせいか、室内の空気がどこか生ぬるい。いつものたまり場──タケダくんのアパートで、六人が思い思いに床やソファに転がり、ゲームのコントローラーを回しながら笑っていた。


 その時だった。誰が言ったのかは、あとになってもはっきりしない。ただ、確かにその声は、部屋の空気を一変させた。


「心霊スポット、行かない?」


 瞬間、ヤマシタくんの背骨を、冷たいものがつうっと走った。こういう怪談めいたものが苦手なのを自覚している彼は、反射的に「いやいやいやいや、絶対ムリ!」と心の中で叫んだ。だが、周囲の反応は逆だった。


「面白そうじゃね?」

「近くにどっかある?」

「夜だし丁度いいじゃん!」


 そんな声が次々と上がり、部屋の温度が一段跳ね上がるような熱気に変わっていく。誰も止める気配がない。ひとり逃げ腰の自分だけが、部屋の隅に取り残されたような気持ちになる。


 中でもひときわ騒いでいたのはフジイくんだった。仲間内でも特にうるさくて、盛り上げ役ではあるのだが、正直、調子に乗りすぎると少し鬱陶しいところがある。今日もテンションが振り切れていた。


「じゃあさ、タケダに車出してもらえばいいじゃん! みんなで行こうぜ!」


 フジイくんが両手を叩いて宣言すると、あっさり「行く」ことが決定してしまう。


 その場にいたのはヤマシタくん、フジイくん、タケダくん、シロタくん──そして、女子のハナムラさんとミズキちゃん。六人。男女比もちょうどよく、肝試しには「最適な人数」だとか、誰かが茶化していた。


 タケダくんの部屋は、実家が管理するアパートの一室だ。家は数十メートル先で、ガレージには父親が使っているという七人乗りのファミリーワゴンが停められている。


 外に出ると、むっと押し寄せる湿気が肌にまとわりついた。街灯のオレンジが滲んで見えるほどの蒸し暑さだ。六人は小さく息を漏らしながら歩き、ガレージへと向かった。


 その時、ヤマシタくんだけは、胸の奥に小さな棘のようなざわめきを覚えていた。

 ──行かない方が、絶対にいい気がする。

 けれどその「声」は、仲間の弾む足取りと笑い声にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。


 *


 タケダくんのワゴンは、夜の県道を静かに進んでいた。ヘッドライトが照らす白線だけが、暗闇の中で頼りなく浮かび上がる。窓の外は山の稜線が黒々と沈み、街灯の少ない道では、世界そのものが車の周囲だけに縮んでしまったように感じられた。


 運転席ではタケダくんが、真面目な顔でハンドルを握っている。助手席のシロタくんは、時折窓の外を見ながら「あ、この道、夜だと雰囲気あるな」なんて軽い声を出していた。


 後部座席には、ハナムラさんとミズキちゃん、そしてヤマシタくんが座っている。二人の女子は最初こそキャッキャと話していたが、山に近づくにつれ、会話が小声になっていった。窓の外が街の光から切り離され、ほぼ闇一色になるにつれ、笑い声が徐々にしぼんでいくのが分かる。


 一番後ろでは、三列目シートを独占したフジイくんが、まるで王様のように足を広げてふんぞり返っていた。時折「おーい、怖がってないよな?」なんて茶化す声が聞こえてくるが、誰もまともに返事をしない。


 時刻は深夜十一時をまわった頃。県道は昼間の喧騒が嘘のように落ち着き、すれ違う車はほんの数分に一度という静けさだった。街の息遣いが途切れ、闇の中に自分たちだけが取り残されたような空気が漂っていた。


 目的地は、山間部のダム湖。その上流にある神社──というにはあまりに寂れた場所──が、県内でも屈指の心霊スポットとして有名らしい。距離は市街地から二十キロほど。地元の人間なら誰もが知っているはずの場所なのだが、それでも夜中に向かうとなると、別世界に踏み込むような気がしてくる。


 そのダムには、もともと小さな集落があった。今は湖の底に沈んでしまっているが、建設当初から幽霊話には事欠かず、地元では「決して一人で湖面に近づくな」と言い伝える者もいるほどだ。


 自殺の名所としても知られており、深夜の湖面に手が伸びてくるだとか、親子の影が立っているだとか──そんな噂は挙げればきりがない。麓のコンビニには「赤い服の女の子が近づいてくる」という話まである。誰に聞いても、眉をひそめつつ「まあ、あそこはな……」と呟くのだ。


 だが、その一連の怪談の中でも、最も「ヤバい」とされているのが、上流の神社だ。


 神社といっても社殿などなく、巨大な岩の前に朽ちかけた鳥居と、風雨に晒され表面が擦り減った石祠、岩と石で作られた灯籠が一つあるだけの、奇妙に荒れた場所。

 深夜に訪れると呪われるとか、必ず「何か」に追いかけられるとか。

 ネットの心霊スポットサイトでは堂々のAランク評価で、地元の若者にとっては夏の風物詩のような肝試しスポットになっている。


 ──けれど。


 ヤマシタくんは、背もたれにもたれたまま、胸の奥をぎゅっと掴まれたような感覚に襲われていた。車内の湿度とエアコンの冷気が混じり合って、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。


「マジで行くのか……」


 声には出さないまま、窓の外の暗闇を見つめる。闇は底なしのように深く、まるで自分たちをじっと見返しているようだった。


 *


「な〜んもねぇな〜」


 フジイくんが気の抜けた声を漏らした。

 確かに、その言葉に反論する余地はない。件の「神社」は、道のすぐ脇──というより、道沿いの森の隙間に押し込まれるように存在していた。


 沢沿いに続く細い山道の途中、木々が黒い影になって立ち並ぶ。そのわずかな切れ目の奥に、剥き出しの大岩がぽつんと鎮座している。どうやらそれがご神体らしい。けれど、社殿はない。拝殿もない。見えるのは、朽ちかけた鳥居と、半ば倒れかかった石灯籠、そして古い石祠だけ。


 「心霊スポット」という言葉から連想するような奥行きや恐ろしい雰囲気はまるでない。道を挟んだ向かい側はダムの河川公園で、駐車場もすぐそこにある。場所としては拍子抜けするほど訪れやすい。


 六人は車を止め、懐中電灯を頼りに公園の薄暗い緑地を抜けて神社を探した。公衆トイレがぽつんと置かれているだけで、キャンプ場のような設備もない。静まり返ったその空気は、どこか異様なほど澄んでいた。


 そして──なぜか今日は、他の肝試しグループの姿が一切ない。

 この季節なら、何組か若者がいるはずなのに。

 夜風に揺れる木の葉の音だけが、妙に耳についた。


 空を見上げれば、街から離れた分、星が驚くほどくっきりしている。闇の中にただ光だけが浮かんでいるようで、何か別の世界に迷い込んだ気さえした。


「アレじゃね? 神社」


 シロタくんが懐中電灯の光を細かく揺らしながら、ぽつんとした鳥居を照らし出した。

 人の胸の高さほどしかない、小さな鳥居。木材は黒ずみ、苔とひび割れで原型が崩れかけている。昼間に車で通り過ぎても、まず気づかないだろう。


「なんだ、こんなチャチなもんか?」


 フジイくんがあからさまに失望した声で言った。

 その気持ちは理解できる。二十キロ以上走って来た先がこれでは、肩透かしを食らったような気分にもなるだろう。


 ──だが、ヤマシタくんだけは、ほんの少し安堵していた。


 もしこれが、崩れかかった拝殿や大きな社殿を持つ本格的な廃神社だったら。

 もしフジイくんが「中、入ってみようぜ」なんて言い出したら。

 その時、自分はどうしていただろう──そんな不安が、車に乗っている間ずっと胸に張り付いていたのだ。


 この形なら、奥へ進むも何もない。鳥居と岩、それだけ。

 「行きようがない」という事実に、心のどこかが救われた。


「星、綺麗だね〜」

「うん、街中だとこんなに見えないよね」


 女子二人が見上げた空は、夏の濃い闇を背景に、無数の星が静かに瞬いていた。

 どうやら心霊スポットのはずが、すっかり星空観賞会に変わってしまったらしい。


 確かに、周囲はただの山道に過ぎず、息苦しくなるような「怪異の気配」はどこにもない。風が梢を揺らす音も涼やかで、むしろ清々しさすらあった。


「何も無いみたいだから帰るか」


 タケダくんが車のキーを取り出し、帰り支度に入ろうとしたその瞬間だった。

 ヤマシタくんの視界の端で、水音と共に何かが「流れている」のが見えた。


 ──まさか、と思って振り返る。


「何してんだよフジイ!!」


 声が裏返るほどの驚きと怒りが混じった叫びが、夜の静けさを破った。


 フジイくんは、ご神体の岩に向かって堂々と立ち、小便をしていた。

 放物線を描く液体が鳥居の脚を濡らし、岩肌に滴り、ぬめった音を立てながら地面にしみ込んでいく。


 冗談では済まされない光景だった。


「最低〜〜!」

「信じらんないってば!!」


 女子二人が悲鳴のような怒声を上げる。

 ヤマシタくんとシロタくんも、咄嗟に声を荒げた。


「止めろって言ってんだろフジイ!!」


 懐中電灯の光が揺れ、周囲の木々がざわざわと囁くように見えた。

 夜気は湿っているのに、背筋の辺りだけ妙に冷たい。


「なんだよ、ちょうどしたかったんだからいいだろ。うるさいこと言うなよ〜」


 フジイくんは、悪びれる様子もなくチャックを上げながら戻ってくる。

 その笑い顔に、場の空気とは全く噛み合わない軽さがあった。


「いくらなんでもやりすぎだ! トイレならそこにあるだろ!」


 タケダくんが低い声で叱りつける。

 しかし当の本人は「そんな怒んなよ〜」と、まったく反省していない。


 先ほどまでの薄い緊張感や冒険めいたワクワクは、完全に吹き飛んでいた。

 代わりに残ったのは重たい沈黙と、湿った苛立ちだけ。


 六人はばらばらにワゴンへ戻り、無言のまま乗り込む。

 エンジン音がやけに大きく車内に響き、誰も目を合わせようとしない。


「なんだよ〜、ちょっとした冗談じゃねーか。何そんな怒ってんだよ〜」


 三列目からフジイくんの声が、くぐもったように響く。

 無視されているのに、彼は逆に調子を上げていくタイプだ。

 その空気の読めなさに、ヤマシタくんのこめかみがズキズキし始めていた。


 とうとう我慢できなくなり、声をぶつけてしまった。


「お前いいかげんにしろよ!! いい年して、やっていいことと悪いことの区別もつかないのか!!」


 車内の空気が、一瞬びりっと震えたように感じた。

 それは他の仲間の感情を代弁した言葉だった。


「ほんと無いわ、あれは」

「常識なさすぎ……」


 女子たちもすぐに追随した。

 一対五の圧力がフジイくんに向かう。


「……あー、もういいわ! 俺が悪かったってことでいいだろ! ったく、ノリわりーんだよ!」


 まったく反省のない声色でそう吐き捨てた直後だった。


 ──ゴリッ。


 何かがきしむような、骨が当たるような音が車内に響いた。

 続いて、背もたれに「ドッ」と何かが沈み込む音。


 ヤマシタくんは反射的に後ろを振り向いた。


 フジイくんは、三列目のシートでふんぞり返るような姿勢のまま、天井を見上げた状態でじっとしている。


 まるでふて寝に入ったみたいだった。

 顔が上を向き、薄暗い車内灯の光に喉元が白く浮いている。


 ……なんだよ。

 子どもじゃあるまいし。


 呆れが先に立ち、さっきの不気味な音について深く考えようとしなかった。

 ただ、胸の奥が──ほんの少しだけざわついた。


 車はダム沿いの道を抜け、次第に街の灯りが増えてくる。

 緊張の糸がゆっくり緩む頃、コンビニの看板が視界に入り、タケダくんは駐車場へと車を滑り込ませた。


 *


 ヤマシタくんとシロタくんが自動ドアをくぐると、ひやりとした店内の空気が頬を撫でた。明るい蛍光灯の下、無機質に並ぶ商品棚。その前、レジにまっすぐ向き合うかのように──赤い服の女の子が立っていた。


 小学生くらいだろうか。肩までの黒髪が静かに揺れ、赤いワンピースがやけに鮮やかで、周囲の空気から浮いている。


 二人の視線が合った瞬間、少女の口元がゆっくりと緩んだ。声も、息遣いすらもない。ただ形だけが笑っていた。


 ぞっ……と背中を何かで撫でられたような感覚が走る。ヤマシタくんは反射的に一歩退いた。喉の奥が急速に乾いていく。


(なんだ今の……?)


 しかし、店内には普通に他の客が二組いる。その誰かの子供に違いない──そう無理やり自分に言い聞かせ、足を踏み出そうとした、その時だった。


 コンビニの外から、甲高い悲鳴が突き刺さった。


 ミズキちゃんの声だ。


「どうしたの!!」


 二人は弾かれたように店を飛び出した。夜気を切るように走り、ワゴン車へ駆け戻る。


 駐車場の照明に照らされた車の前で、ハナムラさんがタケダくんの腕にしがみつき、全身を震わせている。その足元ではミズキちゃんがへたり込み、顔面は蒼白だった。


「あっ、あっ、あれ……」


 震える指が、ワゴンの後部座席──三列目を指し示す。


 そこはさっきまで真っ暗でよく見えなかった。だが今は、コンビニの白い光が車内深くまで届き、はっきりと映し出している。


 フジイくんは、そこにいた。


 だが、その首が──あり得ない角度で回っていた。


 ヤマシタくんの膝がガクンと崩れ落ちる。シロタくんも同時にその場に尻をついた。


「ま……まじかよ……」


 声というより空気の漏れる音だった。震えた指先が冷え、何度瞬きをしても目の前の光景は消えない。


 コンビニの店員と客が騒ぎを聞きつけ駆け寄ってくる。


 赤い服の女の子──その姿は、もうどこにもなかった。


 やがて警察と救急車のサイレンが、静まり返った山間の駐車場に不気味な渦を描くように響いてくる。


 救急隊員がフジイくんの状態を確認すると、すぐに顔を曇らせた。周囲の誰が見ても、助かるはずがない状況だった。


 *


「それからはもう大変で……」


 ヤマシタさんは、膝の上で組んだ指をぎゅっと握りしめながら、その夜の余韻をたぐり寄せるように口を開いた。声は低く、どこか遠くを見つめている。


「俺達がフジイくんを殺したんじゃないかって……まあ、状況から見たら、そう疑われても仕方ないんですけど……」


 言葉に自嘲が混じる。あの夜の闇が、今も胸のどこかに残っているのがわかった。


 死因は頸椎骨折による脊椎損傷──警察が淡々と告げたその一言は、妙に現実味がなかった。あの異様な姿勢を思い出すだけで、背中が冷たくなる。


 だが奇妙なのはそこからだ。遺体には揉み合った跡も、暴行を受けた痕跡も一切ない。もし力ずくで首を回したのなら、皮膚には痣が付き、筋肉にも損傷が残るはずだ。


 それが、何もない。


 ただ「そこにそうなっていた」と言わんばかりの、静かな異様さ。


「まるで……自然に、突然首が百八十度回ったみたいで……」


 ヤマシタさんは言葉を詰まらせ、息を呑む。話すだけで当時の空気を吸い直してしまうのだろう。


「全員、何日か拘留されて取り調べも受けましたけど、何も無しで釈放されました」


 淡々と述べてはいるが、その「何日か」がどれほど長いものだったか、容易に想像できた。狭い取調室の空気、繰り返される同じ質問、そして自分たちにすら答えられない「なぜ」。


 最終的に警察が下した判断は──事件性なし。

 フジイくんは「自然死」として処理され、新聞には一行すら載らなかった。


 あまりにも静かに、あまりにもあっさりと、その死は世間から消えた。


「……あれから、みんなとは疎遠になりました」


 ヤマシタさんは、テーブルの端に視線を落とす。


「顔を見ると、どうしても思い出すんです。あの時のこと……だから、必要最低限しか連絡もしなくなって。ホント……あんな心霊スポットなんか、行かなきゃよかった」


 ぽつりと漏らす後悔の色は、消えない傷跡のようだった。


 *


 話を聞いたあと、念のため独自に調べてみた。たしかに、そのダムは以前から「出る」と有名な場所だった。だが──神社についての記述は、どこにもない。古いサイトも、SNSのまとめも、地元の噂話アーカイブですら空白のまま。


 奇妙なのは、地図には存在していることだ。


 ストリートビューを開くと、山道の奥、木々の影に確かに朽ちた鳥居と石灯籠が映っている。まるで誰かがそこに置き忘れたように、ぽつんと。


 だが、その場所にまつわる噂も、事故の記録も、一切何もない。跡形もなく消えている。


 最初から噂などなかったのか。

 それとも──誰かが意図的に消したのか。


 今となっては確かめる術はなく、ただ山の奥で静かに朽ちるその神社だけが、不気味に沈黙を守っている。

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ダム湖の神社 丁山 因 @hiyamachinamu

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