第19話 黄金の瞳、静かに迫る

 王都レグナスの夜は、何も知らない人間たちにとっては穏やかだ。

 だが裏の世界は静かに、しかし、確かにざわつき始めていた。



 黒の巣では、黒アレス(黒の悪魔)が珍しく落ち着かない動きを見せていた。


「セリア〜。今日はね〜、夜の仕事はいったん中止〜♪」


「……え……?」


 セリアが小さく目を見開く。


「狙われてるのに〜外歩くのは危ないでしょ〜? ちょっとね〜、罠張ったり〜、偵察したり〜……色々あるんだよ〜」


 黒アレスは冗談めかして笑うが、瞳だけは笑っていなかった。


「セリア。今日は絶対にここから出ちゃダメだよ〜? “俺が迎えに来るまで”ね〜?」


「……はい。黒さま……」


 黒アレスに言われると、胸がぎゅっと熱くなる。

 心配されている。

 守ってくれようとしている。


(……黒さま……わたしのために……)


 その幸福は確かに存在する。

 しかし──胸の奥のざわつきは消えなかった。



 黒アレスが外に出ていくと、黒の巣に静けさが戻った。

 恐怖に駆られたセリアには、灯りの揺れすら、どこか不気味に感じられる。


(……こわい……けど……黒さまが戻るまで、ここに……)


 セリアは両腕を抱き、黒アレスの魔力の残滓を感じることで心を落ち着けようとする。 黒マントの布が、かすかに震える指を隠した。

 

 その時だった。


 ふ、と。

 空気の揺らぎが、井戸の天井の方から落ちてきた。


(……気配……?)


 違う。

 “気配がなさすぎる”のだ。


 黒アレスの影すら、セリアにとっては、もっと暖かい。

 これは──底冷えする無音。



 井戸の上。

 石縁に、黒い革靴がそっと触れる。


 かすかな摩擦音。

 だがその足音には、魔術による“消音”がかかっているため、普通の耳では拾えない。


 リンドがそこにいた。


「ここが……黒の悪魔の巣、ですか」


 降りる気配すら見せず、暗がりに立っている。


「なるほど。……意外と居心地が良さそうですね」


 金色の瞳だけが、井戸の底――セリアの居場所を正確に捉えていた。


(……いますね。セリアさん。)


 リンドは静かに口角を上げた。



 その気配が、ほんの少しだけ漏れたのだろう。


 黒の巣の奥で、セリアが震えた。


(……寒い……誰か……いる……?)


 黒アレスではない。

 気配を察知しているのではない。雰囲気が、空気が、ただ気持ち悪い。


「……黒さま……黒さま……帰ってきて……早く……」


 声はかすれていた。

 いつものセリアなら言えない言葉だった。


 黒アレスが“迎えに来るまで絶対に動くな”と言ったから、動けない。

 でも──何もしてなくても重苦しい。



 井戸の上で、リンドはセリアの怯えを確かに感じ取った。


「いい反応ですね。

 やはり“黒の悪魔の隣”に置かれるだけはあります」


 薄く笑う。


「……さて。そろそろ“試験”を始めましょうか」


 リンドの指先が、空気を撫でる。


 影が、静かに地面へと落ちていく。

 黒の巣へ伸びていく一筋の“細い闇”。


「あなたがどれほど黒の悪魔に依存しているのか……

 そして、どれほど脆いのか」


 声は風音に紛れ、どこにも届かない。


「少し、遊んで差し上げましょう」


 影が井戸の内壁をすべり落ちていく。

 セリアの足元へ、音もなく。



 ちょうどその瞬間──外で何かが走る気配がした。


 黒アレスだ。


 リンドは気配を完全に消し、屋根の影へと戻った。


「……今はまだ、いいでしょう。

 黒の悪魔さんの前で引きずり出すのは、もう少し先で」


 そう言い残し、リンドは闇に溶けた。



 黒アレスが黒の巣に戻ると、セリアは震えながらマントを握りしめていた。


「セリア〜? どうしたの〜? そんなに顔真っ青で〜」


「……黒さま……誰か……いた……。何かが、わたしの近くまで……」


 黒アレスから笑顔が消えた。周囲の空気が、鋭く、冷たく、殺気に満ちていく。

 セリアが感じ取れるほど深い殺意が漏れ出てしまっていた。


「そっかぁ……そこまで来ちゃったか〜」


 黒アレスはセリアの震える肩を抱き寄せた。


「……黒さま……」


「大丈夫だからね〜?」


 その声は優しい。

 だが瞳の奥には──


「殺す」


 そう書いてあった。



 黒アレスの腕の中で、セリアはかすかに呼吸を整えながら、震える声で言った。


「……黒さま……わたし……

 どこにも……行きたくない……黒さまの隣に……いたい……」


 黒アレスは微笑む。


「うんうん〜♪ セリアは俺の隣にいていいんだよ〜?」


 その瞬間。

 セリアは少しだけ安心した。


 だがリンドはもう、すぐそこに迫っている──

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最強勇者。のち、黒の悪魔。所により白の騎士。 にしあふ @satoru-AK

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