第5話 母の形見

 おなつが怖がるといけないので、部屋を暗くする前に、「邪気を見やすくする為に部屋を暗くするよ」と断りを入れる。


 私は、診療室と薬煎所を仕切っている木戸と廊下側の雨戸を閉めて、暗くした部屋に雨祓い用の雨香(うこう)を焚き始めた。

 おなつが、「良い香りですね」と深呼吸と共に呟いたので、「患者の心を和らげないと、邪気が取り出せないからね」と簡単な説明を加える。


 そして、治療の前に確認しなければならないことをおなつに訊ねた。


「これから行う治療は、朝廷で行われている白川流霊枢治療の雨祓いという特殊な治療で、通常は、身体の中で増え過ぎた邪気(雨)を身体の外に放出させて焼き祓うのだが、私の雨祓いは更に特殊で、放出させた邪気を自らの体内に取り込んでから、浄化させるという方法をとっている」


 こう言うと、おなつが心配そうに、「邪気を身体の中に取り込んでも、白川先生は平気なんですか?」と聞いてきたので、私は笑いながら、「平気じゃあないさ。でも、患者にとってはそれが最善なのだ」と本音を明かした。


「ただ、おなつの邪気を取り込むと、陰の感情が紡いだ記憶によって様々な情報が私にもたらされてしまう。

他言はしないが、私は、おなつの秘密を全て知ってしまうことになる。それでも大丈夫かい?」


 おなつが躊躇いがちに頷くのを確認してから治療を始める。


 まず、おなつを正座させてから丸めた布団を膝の上に乗せ、その布団を抱えるように首を突き出させた。

 まるで、土壇場で首を斬られる罪人のような格好だが、この姿勢が患者にとっては一番楽なのだ。


 それから、着物の合わせを大きく開くと、衿を抜いてうなじを露にする。

更に、焼酎を取り出して手拭いを濡らし、その手拭いで露になったうなじを拭いてやると、煤けたうなじが真っ白になった。


 汚れが落ちて清潔になったはずだが、その不健康な白さは、痩せた小さな背中を、より一層痛々しく感じさせた。

 煤で真っ黒になった手拭いを置くと、自らの手も消毒して「雨(う)」と呼ばれる特殊な鍼を摘む。


私が、「おなつ、今から雨を通すよ」と言うと、おなつが「雨って何ですか?」と当然の疑問を投げ掛けてきたので、「治療用の鍼だよ」と言うと、おなつの身体が急に固くなる。


 おなつを安心させる為に、「大丈夫、痛くないからね」と優しく囁いた。

 おなつの白いうなじに雨を通し終えて、邪気を呼び寄せる呪い詞(まじないことば)を唱えると、おなつの意識は失われ、代わりに雨の尻、雨柄(うへい)から煙よりも液体に近い雨(あめ)が吹き出してきた。


 吹き出した白っぽい雨(邪気)は、まるで人を嘲笑うかのように、クルクルと回転しながら行き場を探している。

 私は、その雨(邪気)にそっと顔を近づけて、ゆっくりと口から吸い込むと、行き場を見つけた雨(邪気)が、我先に私の身体の中に入り込んできた。


 そして、私の肉体を支配しようと体内で拡散しながら、あらゆる場所を突き刺して侵入を試みるが、私の強い霊力がそれを許さない。


 この時、無数の針で内側から身体を貫かれる激痛に苛まれる。

 やがて、侵入を諦めた雨(邪気)が小さく纏まって、硬い水晶玉みたいになると、私の様子を窺うように小刻みな伸縮を繰り返す。


 それはまるで、獰猛な獣が静かな呼吸を繰り返しながら獲物を狙っているようだ。

 私は、身体の中に有る、その凶々しくも美しい水晶玉に意識を集中させる。


 すると、そこから囁くような途切れ途切れの声が聞こえてきた。

 更に意識を集中させると、徐々に声がはっきりとして、会話が聞き取れるようになった。


 どうやら、中年の男と女が言い争っているようだ。

 そこに子供の泣き声が重なって、喧騒が益々激しさを増したところに、食器の割れる音が鳴り響いた。


「うるせって言ってるだろうが!

俺が、手前の甲斐性で他所に女を作って何が悪いっていうんだ!」


「子供が三人も居て、私のお腹には赤子までいるんだよ。

他所の女に入れあげるんなら、ちゃんと子供を食わせてからにしておくれ。

私の内職だけじゃあ子供が飢えちまうよ」


「お前はごちゃごちゃとうるせえんだよ!」

土間の鍋を蹴り上げる音に続いて、引戸を叩きつけるよつに開く音が聞こえる。


 男が家を出て行くと、女の啜り泣く声が聞こえてきた。

 そこに、おなつのかすれた声が重なる。

「おっかさん大丈夫?どこも痛くない?」

おなつが母親の背中を優しくさすると、泣いていた母親がおなつの手を乱暴に払いのけて、こう言い放ったのだ。


「子供なんて産むんじゃあなかったよ。

旦那は女の所に行っちまうし、ガキはぴぃぴぃ泣き喚くし、私にどうしろって言うんだい」


 母親の言葉に驚いたおなつは、しばらく呆然として母親を見詰めていた。

 普段の母親なら、こんな物言いは絶対にしない。


 いつもならおなつに、「すまないね」と言いながら割れた食器を片付けて、「怪我はないかい?」と優しい気遣いを見せてくれる。


 どうしたのかと心配になって、「おっかさん」と言いながら母親の肩をゆすると、それを無視してスッと立ち上がった母親が、素足のまま土間に降りて酒の入った徳利を掴むと、そのままぐびぐびと飲み始めたのだ。


 赤子を宿す以前から、母親は一滴の酒も飲まなかった。

慌てたおなつが、母親から酒を取り上げようとすると、右手で徳利を掲げながら、左手でおなつを邪険に振り払う。


 徳利の酒を全て飲み干した母親は、いきなり空の徳利を土間に叩きつけた。

 粉々に砕けた徳利の破片が、おなつの足や腕を襲ったので、咄嗟に短い悲鳴を上げてしまう。


 驚いて母親を見上げると、母親はおなつを見下ろしながらニヤニヤと笑っていた。

 膨らんだ腹に痩せた手足が、まるで地獄を徘徊する餓鬼のように見える。


 しかし、おなつに向けられた目には何も映っていなかった。

 おなつのことも、他の子供達のことも…

その目は、まるで洞窟の入口みたいにどこまでも深く、どこまでも暗かった。


 それを、敏感に感じ取ったおなつは、恐怖と不安に押し潰されて、堪え切れずに泣き声を上げてしまう。

 すると、その泣き声が段々と高くなって、やがて耳障りな金属音に変わると、すっと幕が降りるみたいに消えてしまった。


 次に、再び幕が上がると別の声が聞こえてくる。

雑音の中で、途切れ途切れだった声が徐々に明確になってきた。


「おときさんも可哀想に…

もとは裕福な呉服屋の娘だってのに、あんな男に引っ掛かったばっかりに、抱え込まなくてもいい苦労を抱え込んじまって」


 裏長屋の井戸端で話し込んでいるのか、ゴシゴシと衣類を揉み洗いする音に混じって、木桶に水を汲む音が聞こえてくる。

 女のため息まじりの言葉に、別の年増もやるせないという風に応えた。


「駆け落ち同然で家を出ちまったから、今更帰るわけにもいかないしね。

身重の体で子供が三人も居るってのに、旦那には出て行かれて、入れ替わりに狐が入っちまうなんて本当に運が悪いよ」


 三人で噂話をしているのか、別の女も会話に加わってくる。


「でも、一番大変なのはおなつ坊だよ。

弟と妹の子守りだけでも大変だってのに、母親があれじゃあ目も当てられない。

こないだも、おときさんを無理やり神田明神に連れて行って、お祓いをしてもらったらしいけど、何の効果も無かったって落ち込んでたよ。

孝行娘なのに本当にやるせないね。

ウチの馬鹿息子に、おなつ坊の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたくらいだよ」


 すると、笑い声をあげながら別の女が、「おなつ坊の爪の垢を飲ませてもアンタの息子にゃあ効かないよ。何せ母親が母親だからね」と揶揄ったので、女三人の大きな笑い声が井戸端に弾ける。


 その笑い声が、間延びするように低くなると、ぷつ、ぷつと途切れ途切れになって、また幕が降りるみたいにすっと消えてしまった。


 今度は、その静寂を切り裂くように、半鐘を叩くけたたましい音が鳴り響いて、「火事だ!火事だ!」と男達の怒号が飛び交う中、女や子供達の甲高い悲鳴が入り混じっている。


 町全体が混乱の坩堝(るつぼ)と化している中で、おなつの店だけがひっそりとした静寂の中にあった。

 母親が穏やかな笑みを浮かべて、空の食器を食卓に並べながら子供達に話し掛けている。


「今日は、内職の手間賃が入ったからね。

ご馳走を用意したんだ。

みんな遠慮せずに食べるんだよ」


 空の食器を前に、最初は戸惑っていた子供達も母親が豹変することを恐れて、ままごと遊びよろしく、作り笑いを浮かべながら空想のご馳走を美味しいそうに食べ始めた。


 五歳になる幸太の仕草は、何とか様になっているものの、三歳のおみつに至っては、空の茶碗を不思議そうに覗き込んでいる。


 そこに突然、同じ長屋で棒手振りの亀吉が飛び込んで来て大声で喚き始めた。

「なに呑気に飯なんか食ってるんだよ。

火事なんだ。早く逃げないとみんな焼け死んじまう」


 すると、それまで穏やかな笑みを浮かべていたおときの顔が、急に般若のようになって、「何だい、今さら帰って来てもアンタの食事なんて用意してないよ!」と叫びながら、握っていた湯呑みを亀吉に向かって投げ付ける。


「あわ、あわ」と慌てた亀吉が首をすくめて、飛んで来た湯呑みを何とか躱すと、「人が親切で言ってやってるのに、何しやがるんだ!」と言いながら、おときの手首を無理やり掴んで引っ張った。


 しかし、おときが両手をめちゃくちゃに振り回して暴れるので、思わず手を放してしまう。

「こりゃあ駄目だ。おときさんは後で助けるから、まずは子供達だけでも外に出よう」と言って、おなつに手を差し出したが、おなつが頭を下げながらその手を拒んだ。


「もう良いんです。

おっかさんだけ置いて逃げる訳にはいきません。

私達も残りますから、亀吉さんは早く逃げてください」


 亀吉は、驚いた顔でしばらくおなつを見詰めていたが、頭上でパチパチと炎が爆ぜる音がしたので、間に合わないと観念したのか、「分かった」と言って家を飛び出して行く。


 おなつは母親に笑顔を向けて、「おっかさんは座ってて、ご飯は私がよそうから」と言うと、再び穏やかな笑みを浮かべたおときが、「そうかい。すまないね」と言いながら腰をおろす。


 その時、天井がミシミシと軋み、天板の隙間から黄色い煙がまるで滝のように降って来た。

裏の障子には、赤々とした炎の色が透けて見える。


 すると、おときの表情に微妙な変化が生まれ始めた。

 急にキョロキョロと辺りを見渡しながら、「何か焦げてる匂いがするよ…」と呟いたのだ。

そして、いきなり立ち上がると、「火事だ。おなつ火事だよ!」と叫び始める。


 おなつは、おっかさんが正気に戻ったのかと喜んだが、おときが大急ぎで茶箪笥の前に行って、一番下の抽斗(ひきだし)を引っ張り出すと力任せに壊し始めたので、やっぱり狐憑きのまんまだと落ち込んでしまう。


 しかし、おときはそんなおなつの気持ちを余所に、バラバラにした抽斗の先板(さきいた)を二つに割って、中から小さな紙入れを取り出すと、「おなつ逃げるよ」と言って幸太とおみつの手を取った。


 おなつは、母親が正気に戻った事が嬉しくて、「おっかさん」と笑顔で声を掛けたが、その途端、天井が崩れ落ちてきて、瓦や柱と共に炎が雪崩となっておときの頭上に降り注いだ。


 おなつは、その衝撃で土間まで吹き飛ばされたが、凄い土埃でしばらくの間、目を開けることも出来ない。


 そこに、町火消しを二人連れた亀吉が戻って来て、おなつの肩を揺すりながら、「大丈夫か」と言ったが、おなつはそれを無視して、瓦礫の山と化した部屋に向かおうとするので、背後から亀吉がおなつを羽交締めにする。


「もう無理だ。間に合わねぇ!」

おなつは、「おっかさん!幸太!おみつ!」と叫びながら亀吉から逃れようと暴れるが、亀吉は凄い力でおなつを捕まえて離さない。


 それでも暴れるおなつに向かって、亀吉が絞り出すような涙声で、「すまねぇ。堪えてくれ。頼む!」と叫んだので、おなつの身体から全ての力が抜けてしまった。


 代わりに、おなつの口からは血を吐くような激しい慟哭が迸る。


 その悲痛な絶叫が段々と高くなって、まるで金属を擦り合わせるみたいな高い音に変わると、再び幕が降りるようにスッと消えてしまった。


 今度は、何の音もない、何の色もない、墨がにじむような静寂の中に一人の少女が佇んでいた。


 少女の足元には、大、中、小と三つの炭の塊が横たわっている。

少女の両手は真っ黒に煤けており、指の爪が何本か剥がれ落ちて黒い血を滴らせていた。


 更に、黒く汚れた手や足には無数の傷が付いている。

何日も掛けて、瓦礫の山から一人で炭の塊を掘り出してきたのだろう。


 その炭の塊は、大きな炭の塊が小さな炭の塊と、中くらいの炭の塊を庇うように覆い被さっている。

 少女は、三つの炭の塊の前に跪くと、その炭の塊を慈しむように優しく抱きしめた。


 少女の閉じられた瞼の隙間から、とめどなく黒い涙が流れ落ちている。


 その炭の塊は悲しいほど脆く、残酷なほど軽く、そして絶望の闇よりも黒かった。


 しばらくそうしていた少女は、静かに立ち上がると用意していた筵を広げて、その上に三つの炭の塊を置こうとしたが、大きな炭の塊が、拳に握られた右手を天に向かって突き出している。


 その姿は、誰かに何かを必死に託そうとしているように見えた。


 不思議に思った少女が、拳に触れるとパラパラと崩れて、中から真っ黒に焼け焦げた紙入れが出てくる。

 その紙入れは良質な物だったのか、あれだけの大火事にも関わらず、開くと所々に布の色が残っていた。


 これが、少女に残された唯一の形見なのだ。

少女がその形見を手の平に乗せ、愛しむように頬擦りをすると、じゃりっという金属音がする。


 驚いた少女が紙入れの中身を確かめてみると、黄金色に輝く二枚の一分金貨が出てきたのだ。

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