第4話 小石川養生所

 小石川養生所の建物は収容者数を増やすために、開設から五十年間、主屋を除く病人長屋の増築を繰り返していて、今では、女病人長屋を含む五棟もの長屋が設けられており、それぞれの長屋の前に、薬煎所を含む診療室が併設されている。


 表門から、おなつを連れて主屋の前を通り過ぎながら一番奥の診療室に向かう。

 いつもなら、主屋の役人詰所に寄って与力や同心に挨拶をするのだが、今は誰も出仕していない。


 黒光りする板間の診療室に入ると、おなつに座ることを勧めてから、自分もおなつの前に胡座をかいた。

「それで」と、私が話を促すと、少し落ち着いた様子のおなつが再び喋り始める。


「だから、おっかさんに取り憑いたお狐様を祓って欲しいんです」

私は童にも分かるように、どう説明したものかと少し考えてから口を開いた。


「世間で言う憑依や除霊というのは、宗教の価値を高める為に、人が勝手に作り出した方便なのだ。

外から、人に悪霊が取り憑くなんてことはないのだよ。

実際には、人が陰の感情から生み出した邪気を体内に宿すことで、心や身体を病んでしまっているだけなのだ」


 しかし、その説明を聞いてもおなつは納得が出来ずに、「でも、同じ長屋の茂吉さんがお狐様に取り憑かれた時は、神田明神のお祓いで良くなりました」と反論してくる。


 私は、ため息を吐きながら正直に答えた。

「それは、お祓いをしてもらったという安心感から一時的に邪気が鎮まって、良くなったと勘違いしているだけなのだ」


 これを聞いたおなつは、目にいっぱいの涙を溜めながら、「じゃあ、白川先生でもおっかさんのお狐様は祓えないんですか?」と聞いて来たので、ここは、正直に打ち明けるしかないと覚悟を決めた。


「いいかい。

この世界は、全てが陰と陽で出来ている。

影と光、鬼と仏、夜と朝、雨と晴れのように。

これは、人の身体に流れている気も同じなのだ。

 身体には、陽(晴)にあたる聖気と陰(雨)にあたる邪気が有って、どちらも人間には必要な気なのだが、毒気である邪気が増え過ぎると、薬気である聖気を駆逐して魂が病んでしまう。

すると、心や身体にも悪い影響が表れるのだ」


 そこで、おなつが口を挟む。


「どうして邪気が増えるんですか?」

良い質問なので私の口元が自然と綻ぶ。

「怒りや苦しみ、不安や悲しみなどの陰の感情から邪気は生まれる。

逆に、笑いや楽しみ、安心や喜びなどの陽の感情からは聖気が生まれるのだ」


 おなつが頷くのを確認してから話を続ける。

「私は鍼治療以外にも、増え過ぎた邪気(雨)を身体の外に放出させて、患者の体調を整える治療もやっているだ。

だから、母上の病が邪気によるものなら私にも治すことが出来る」


 するとおなつは、小さな拳で涙を拭いながら、黒光りする床に頭を擦り付けた。

「白川先生の言ってることは半分も分からないけど、おっかさんを治せるのなら治して欲しいんです。お願いします」


 その素直な物言いに微笑みを浮かべた私は、さっきから気になっていた事をおなつに告げた。

「おなつの母上も心配だが、今は、おなつの治療の方が先だよ」


 こう言うと、おなつは驚いて顔を上げる。

「私は大丈夫です。

どこも悪くありません。

それよりも、おっかさんの病を早く治してあげてください」


 私は、ゆっくりと首を左右に振った。

「母上を助けたいと思うのなら、まずは、自分の身体を気遣いなさい。

私から見れば、おなつの身体からは大量の邪気が溢れている。

このままでは、命に関わるほど危険な状態なのだ。

すぐに治療しなければ、母上を助けるどころではなくなるよ」


 おなつは、私の言葉に戸惑いながらも、「母親を治してくれるのなら…」と、私の治療を受け入れる決心をしてくれた。

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