菊池静緒

 桶の湯が糸をつむぐ。宙で蝶々結びをするように輪を作るそばから、冬の空気にほどけてしまう。湯の中では、白い、透明な魚がゆらゆら泳いでいるように見える。琴子の足先である。

 琴子はくたびれてやわらかくなった浴衣のすそを膝まで開いて、足湯で温まっている。籐椅子に浅く掛けた腰がか細い。胸も肩も頼りない。首筋は三日月ように長細く、椅子の背もたれにあずけている頭の重さに、今にも折れそうである。

 桃の薄皮のような頬の間に、うすい唇が少し開いている。幼さの抜けない目は、疲れ切って、とげのようなまつ毛を時折ゆっくり伏せながら、雪の降る庭に向けられている。黒髪が無愛想に長い。前髪が汗で湿っている。毛先のゆるい癖。片腕をだらんとぶら下げて、退屈そうに、指先でみかんの皮をつぶしている。


 山間の貧しい温泉宿の一室である。どこもかしこも雑木ばかりで、景色の眺めが悪い。窓のそばに円くて小さい庭があり、数本残った椿が雪の布団をかぶって、たわんでいる。口紅の先ほどのつぼみが所々にのぞいている。その下に墨をたらした硯のような寂しい池がある。しんしんと降り続く牡丹雪が、水面に触れるそばから次々と消えてゆく。

 琴子は先からその消えてゆく雪を見ている。

「雪が消える音は、とても静かだ。」

 椿のしずり雪が池に吸い込まれてゆく。琴子はしずり雪が溶けてなくなる間だけ、瞬きをせずに見届ける。池の水が静かになると、琴子はつぶしていたみかんの皮を足湯の中に放り、ゆっくり目を閉じて、両の足先を戯れに揺らし始める。連れて湯気も細く戯れる。


 するすると部屋の戸が開く。

「お邪魔します。」

 と、女将が頭をちょんと垂れて、握りこぶしのような笑顔でこたつににじり寄る。着物のにあわない濃い顔の女将である。ささくれた竹のかごに小さなみかんを山ほど持ってくる。こたつの中をちょっとのぞいて、冷めているとわかると、すぐに電気をつける。

「おみかんどうぞ。熱いお茶も入れましょうね。」

 琴子は庭を見たまま、

「ひとつ下さい。」

「はい。どうぞ。そちらに持っていきましょ。おひとつ?」

「はい。ひとつ。」

「ひとつね。」

 女将は小振りで形のいいみかんをさっと選んで、琴子の方へ持ってゆく。琴子は女将に微笑んで見せて、もらったみかんを手のひらでころころ転がす。女将が開けっ放しの窓を閉めようとすると、

「そのままでいいんです。雪を見たいから。」

 女将は笑って、

「ここらじゃ珍しくないのにね。寒くない?」

「大丈夫。あっちでも降るけど、こんなにきれいじゃないから、よく見ておこうと思って。」

「今、お茶入れますからね。」

「はい。」


 女将が茶の支度をするのを、琴子はみかんを食べながら見ている。何度目の茶の支度になるのだろう。すっかり手慣れていて、雑だけど無駄がない。ちちち……、と湯呑みの底に落ちる茶の音に、思わず口を開く。話したくないから頬張っていたみかんの酸っぱさが、一声ごとに奥歯にしみる。

「あの池、何かいるんですか。魚とか。」

「ええ、いますよ。大きな緋鯉が一匹。この宿を始めたころは親指くらいの大きさだったんですけど、今じゃあねぇ、このくらいありますよ。」

 と、女将は自分の肩幅ほどに手を広げてみせる。

 琴子は素直に驚いた。ずっと池を見ているのに、鯉がいる気配など少しも気がつかなかった。

「本当に?」

「寒いからねぇ、底のほうでじっとしてるのよ。」

「えさはやらなくていいんですか?」

「いいの、放っておいて。雪と一緒に落ちてくる椿を食べるから。」

 女将は出来の悪い息子のように緋鯉のことを言う。淹れたばかりの茶から、もうもうと湯気が上がっている。琴子は手のひらに残った一房のみかんを池に放り投げる。女将が背中で笑っている。

「鯉がみかんなんて食べるかね。」

「椿を食べるくらいなら、みかんなんか喜んで食べますよ。」

「そうね。そうだわね。」

 女将は子どものように笑って、

「最後のお客様があなたみたいな人で嬉しい。春までお泊めしても構わないんですよ。」

 琴子は素直に嬉しくなる。

「鯉はどうするんですか? お家で飼うの?」

「いいえ。放っておきます。」

 女将はくすくすと笑いを引きずりながら、部屋を出てゆく。

 琴子が池に目を戻すと、鯉なのか、投げ込んだみかんなのか、ゆらりと立った波が静まってゆく途中である。


 露天風呂へつながる狭い坂道を上がる途中で、琴子は蒔絵とすれ違う。

 琴子は宿で借りた海老茶のこうもり傘で顔を隠して、蒔絵が行き過ぎるのを待つ。蒔絵は雪の中を傘も差さずに、空の鳥籠を振り回しながら、宿に向かって駆け下りてゆく。

 蒔絵は女将の一人娘である。琴子が宿に飛び込んだ時、たまたま帳場にいたのが蒔絵だった。蒔絵は宿の番をしているように見えたが、琴子のあいさつを無視して、だるまのような黒猫をつかまえて、廊下の奥に引っ込んでしまった。

「学校に全然行かないのよ、あの子。もう中学も卒業なのに一度も行かないの。何で行かないのかしらね。」

 女将は笑いながらそう言った切り、宿帳に目を落として黙ってしまった。琴子は蒔絵の、あの気難しそうなへの字口が頭に残って、蒔絵からこそこそ逃げ回るようになってしまった。

 傘をつぼめると、雪の重さが髪にふれる。その重さを一つ一つ数えながら、数えるそばから消えてゆくのを感じながら、つぼめたこうもり傘を振り回して、狭い坂道をゆっくりと上がる。


 こぢんまりとした湯船で、目一杯足を伸ばす。縁の雪に頭を埋めて、雪空の奥をじっと見つめる。火照った頬に雪のひとひらひとひらが心地よい。身体が休まるにつれて、嫌でも頭が冴えてくる。

 娘はどうなっただろうか。

 止まない雷雨のように慌ただしい毎日を過ごした。全て娘のためだった。娘の三才の誕生日に琴子は初めてケーキを焼いた。なぜそんなことをしたのか、自分でもわからなかった。細かい材料まで全てそろえ、オーブンを新調し、洋菓子作りの本を買った。娘の誕生日は孤独で、他人事のように華やかだった。

 ケーキが焼けるのを待ちながら、真赤ないちごを切っていると、ふと、あと何回ケーキを焼かなければならないのか、という思いが、小さな火花のように弾けた。驚きだったのは、それを不安に感じたことだった。疑いようもなく、不安に感じたのだ。自分の背後から世界が真っ白に消え去り、今日という日だけが目の前にあって、それが将棋倒しのように連続しているような気がした。琴子は生焼けのケーキを捨て、気がつくと部屋から逃げ出していた。

 

 雪はやまない。雪空と雪肌が溶け合って、どこまでもぼんやりと満たしている。呼吸の仕方がわからない。とうに手足の感覚がない。(おわり)

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菊池静緒 @kikuchisizuo

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