お友達になりましょうよ

 日曜日の夜、サナトリウム『わたつみ』の開業祝賀会が行われた。


 わたつみは硝子島の片隅の山の斜面に建っている。

 外観も内装も高級ホテル並みにきらびやかで、オーシャンビューの絶景が売りだ。


 五階ホールの祝賀会会場も、赤い緞帳と絨毯・金屏風・シャンデリアで飾られている。

 ガラス張りの窓から夜の金靄港が一望できた。


 ぼくは制服に身を包んで会場を見渡す。

 ざわめくホールには、油っこい食事と酒、来賓の香水が混じった濃い匂いが漂っていた。

 虚弱な肉体には胃にくる。生者の欺瞞が胃を焼くように、生温かい不快感が喉の奥を這い上がった。



「我々は、わたつみを通じて、硝子島全体を発展させていきます」


 ぼくの父・雄真がスピーチを語ると、白々しい拍手が起きたが、誰の顔にも喜びの色はない。


 わたつみは島民向けの施設ではない。

 職員の時給は五百円程度ながら、入所金は数千万と完全に富裕層向けだ。


 反対に、雄真は島の診療所の診療時間を短縮している。

 診療所を縮小してまで作られたサナトリウムが、島民にとって全く手の届かない存在という皮肉。

 先ほど開業の祝辞を述べた理事すら、入所者など話題にすらあげず、経済振興の話ばかりしている。


 上辺の社交のためか、町議員の永海ながみが雄真と立ち話をしていた。

 六十代半ばで白髪混じり、老獪な古狸といった油断ならない雰囲気がある。



「谷崎先生、おめでとうございます。立派な施設ですね。硝子島の皆さんも、さぞかし安心されるでしょう。……診療所の方は、少し気がかりですけれど」


 永海町議は雄真の顔を見ようともせず、ずんぐりした指でワイングラスを弄んでいた。

 社交辞令の裏に牽制と皮肉が滲んでいる。


 当然の帰結だ。永海町議は表向きこそ雄真を歓迎しているが、陰では島が成金の食い物にされていると怒っているのだ。



「ありがとうございます。永海さんのお陰で、硝子島も益々発展していきますね」


 猛禽類じみた瞳を細め、はぐらかした答えを返す雄真。

 外向きに優秀な医師として振る舞おうとしているが、声は張り詰めていた。


 すべては政治。


 大人たちのやりとりを眺めていると、父が振り返る。鷹揚な仕草でぼくを手招きして、「挨拶しろ」と言った。

 命じられるままに頭を下げ、棒読みで挨拶する。



「こんばんは。息子の谷崎真理です。いつも父がお世話になっています」


「真理君、大きくなりましたね。目元がお父さんそっくり。お父さんがいる限り、島は安心ですよ。誇りに思ってね」


 偽りの微笑み。偽りの褒め言葉。

 狸と狐の化かし合いだ。


 祝賀会の料理は安っぽい揚げ物ばかりだった。

 山盛りになった唐揚げの衣が、安い油でぐしゃぐしゃになって崩れている。

 衣を箸で押すと、じわっと油が染み出し、紙がべっとりと透けた。皿の縁にこびりつく黒ずんだ揚げかす。


 祝賀会なんだから見栄えのいい料理を用意してもいいのに、経費をケチったんだな。

 体裁を取り繕う分には長けているが、結局は底が見えている。


 来賓の大半をしめる中高年だって、安っぽい料理なんて食べる気が起きないだろうに。

 周囲を見渡しても誰も食べ物に手を付けていない。


 すると、ホールの隅で診療所の縮小を愚痴っていた島民たちが、ぼくの視線に気づいた瞬間に後ずさった。



「ほら、わたつみの坊ちゃんだ」


 誰かが小声で言った。

 老人が咳払いで会話をごまかして別の話題に移る。

 大っぴらに敵意を向けるのではなく、あくまで避けるだけなのがいやらしい。


 島民は、ぼくを『わたつみの坊ちゃん』としてしか見ない。よそ者、家族の遺体を蹂躙する敵の息子、島を都合よく利用して私腹を肥やす裏切り者の一族……と思われているのだ。

 父の傲慢な行動の代償をぼくが支払わなければならない。


 島民達が望むなら、ぼくは今すぐにでも彼らの輪に飛び込んで、谷崎雄真がどんなに冷酷な男か小一時間演説してやれるのに。


 壁にかかった名画のレプリカまでもが、不自然に傾いていた。


 あらゆる欺瞞にうんざりする。





 祝賀会は表向きつつがなく終了した。

 来賓が退出して、ホールにはざわめきの余韻だけが残る。

 ほとんど手をつけられていない料理は、捨てるしかないのだろう。


 母とともに後片付けをしていると、ふと、どこかから子どもの声がした。



「ふふ」


 ――何だ。今の声は?


 声につられて振り向く。

 最初は左の方から聞こえたが、次は背後から聞こえた。


 無人の会場内を見渡して、


「母さん。今、子どもの声が聞こえなかった?」


「私は何も聞こえなかったけれど。でも確か、看護婦の弓子ゆみこさんが息子さんを連れてきていたはずだよ。母子家庭だから大変だね」


 パーティドレスに身を包んだ母は、揚げ物の皿を片付けながら、忌々しそうに吐き捨てた。


 弓子さんは元々診療所に勤務していた若い看護婦だが、この口ぶりだとわたつみに異動になったらしい。

 なら彼女の子どもが迷子になったのだろうか?


 ぼくが周囲を見回していると、母は小さな目を瞬かせた。



「夜遅くまで疲れたでしょう。真理ちゃんはもう休んでて良いよ。あとは大人たちでやっておくから」


「……分かった。そうするよ」


 パイプ椅子を壁に立てかけて、ホールを出た。


 ぬるい夜風が皮膚にまとわりつく。

 迷子の声を探し、トイレの電灯だけが光る暗い廊下を歩いていると、ホール隣の控室から漏れ出ている光に気づいた。

 部屋の中を覗き込んだ瞬間、目を見開いてしまった。


 見間違いじゃないだろうか?

 看護婦と父が抱き合っているなんて……。



「私たちも、ようやく始められるわね」


 エキゾチックな顔立ちに浮かぶ蕩けた笑み、甘ったるいムスクの匂い。

 父の骨ばった手が、弓子さんの艶やかな太腿に指を這わせる。



「奥さん、うるさいんだから……」


 息を潜めて、ドアの隙間から二人の姿を見ていたが、目眩と吐き気に耐えきれなかった。

 唐揚げの脂っこい匂いがなおも胃に残っている。

 情事の生々しさで限界が来た。

 トイレに駆け込み、洗面台にしがみつき嘔吐する。


 胃が締め付けられて縮こまり、喉に酸っぱいものが込み上げてきた。

 飛び散った吐瀉物は透明な胃液ばかりで、内容物はまったくなかった。

 自分の内側にはもう何も残っていない、ただただ苦味と酸味と不快感だけが満ちていると晒される。


 膝が抜けそうになり、思わず洗面台に手をつきしがみつく。

 水道水を手ですくって、無理やり口の中を濯ぐ。喉の奥が焼けるように痛んだ。口腔内に残る、胃液の生暖かい残滓。


 それから洗面台を急いで洗った。水の冷たさが逆に皮膚を刺す。

 鏡に映る青白い顔が知らない他人に見えた。


 蛇口からぽたり、ぽたりと水滴が落ちる。

 蛇口を強く強く締めた。金属に触れた指が、ほんのわずかに冷たかった。



 ◆


 ふらついた足取りで手洗いを出る。

 真っ暗な廊下に空調の機械音だけが響いて、静かだ。



「ふふふ」


 静寂を切り裂いて、可憐な笑い声が聞こえた。

 廊下に人影が長く伸びている――その影の主を目で追い、はっと目を見開く。


 異常に冷えた空調の中、高い窓から降り注ぐ月光に照らされて、ひとりの女の子が佇んでいた。


 小学校中学年くらいの、幼い子ども。

 長い黒髪に白いネグリジェワンピース。

 体つきはほっそりと華奢で、肌はまるで紙のように白かった。

 目尻の吊り上がった大きな瞳、長い睫毛、くちびるは細筆で描いたように薄い。

 月光の薄明かりの中で、虚飾のない幽玄を感じさせた。


 もしやこの子が先ほどの笑い声の主だろうか。


 逡巡していると、子どもはぼくの方を向いて微笑みかけてきた。

 夜闇を思わせる真っ黒な瞳に、月光が映り込んで、白金にきらめいている。



「あなたも一人?」


 窓からのぞく月を見上げながら、子どもが呟く。



「お月さまって静かで綺麗よね。誰かと一緒に見ると、とくべつ美しく見える気がするわ」


 高く柔らかい声。

 日常のささやかな情緒を語っているだけなのに、遠くを夢見るような語り口だ。



「ねえ、あなたもそう思うでしょう?」


「……毎日見られるものが特別なわけないだろ」


「わたし、ここから出られないから。お月さまを見るのもとくべつなの」


 どういう意味だ?



「ね、お友達になりましょうよ」


「友達?」


「わたし、夏と一緒に消えちゃうの。でもね……わたし、死ぬまでに、ひとつだけ、どうしても叶えたい夢があるの。あなたには、そのお手伝いをしてほしいのよ」


 彼女は目を細めて、さみしそうに呟いた。

 瞳の潤んだ笑顔が、助けてと言っているように見える。


 まるで、枯れかけの植物が最後に残された力を振り絞って咲いているかのようだった。

 光の届かない地下でひっそりと咲く、夢みる花。



「……そんな約束は、できない」


 ぼくは、その時は冷たい言葉を返した。


 初対面の、余命わずかの女児の最期の夢を背負うなんて荷が重すぎる。

 下手にうんと答えられないし、嫌だとも言えない。


 すると少女は長い黒髪を翻し、ぼくの方へ近づいてきた。

 柔らかい布で作られたバレエシューズが床を擦る。

 細い姿が近づくにつれて完全な静寂と沈黙が訪れた。空調の機械音がふっと途絶え、呼吸すらも止まったように錯覚してしまう。



「怖がらないで? わたし、あなたが苦しんでいる声が聞こえたから、ここまで会いに来たのよ」


 ぼくは困惑して言葉に詰まった。


 少女は背伸びして、小さな白い手でぼくに触れてきた。

 滑らかな指先が触れた瞬間、一瞬自分の皮膚がなくなったかと錯覚する。

 意外なほどに冷たい手。

 触れられるだけで急速に体温を奪われ、思考が仮死状態に入っていく。

 まるで、死体みたいだ――。



「真理。どうして泣いているのかしら?」


 細い人差し指がぼくの頬を軽く拭う。

 ぼくはそこでようやく、いつの間にか自分が涙していたことに気づいた。



「きみは、ぼくの……名前を……」


 境界線があっさりと踏み越えられ、壊される。

 純粋で無防備な仕草に、ぼくは戸惑い、畏れ……しかし、一方で安堵すら感じた。


 表向き『わたつみの坊ちゃん』は孤独ではない。

 島の名士の裕福な家庭で育てられ、華やかな祝賀会に参加して、坊ちゃんと褒めそやされている。けれどその裏で、父の不倫を目撃して一人きりで嘔吐している。彼女はあっさりと真実を言い当てた。

 見透かされてしまった恐怖と理解された安堵に、内面が引き裂かれて、何も言い返せない。


 少女は、猫を思わせる瞳を細めて微笑み、なおも柔らかく語りかけてきた。



「涙を拭いて。こんな綺麗な夜に、泣いているだけなんてさみしいわ」


 すると彼女はどこからか薄紅色のハンカチを渡し、ぼくの手にそっと握らせて、包み込むようにしてぼくの指を折らせた。

 蓮の刺繍が妙に古風だ。かすかに香水を思わせる甘い匂いがする。



「ハンカチ、貸してあげる。また洗って返しに来て頂戴ね」


「返すって……どこに……」


「わたつみの地下病棟よ。誰も知らない一番奥底」


 ――地下病棟には立ち入るなよ。

 父の言葉を思い出し、背筋が凍りつく。


 すると、廊下のはるか向こう、会場ホールから物音が聞こえた。

 母はまだ片付けに追われているのだろう。


 少女はホールから漏れる光を一瞥し、つまらなさそうに目をすがめる。

 やがて立ち上がって踵を返し、廊下の反対側の突き当たりへ向かう。

『職員専用区域』と書かれた扉を押した。


 一体どこへ去っていくのだろうか。

 わたつみの扉の向こう、地下病棟には何がある?


 知りたい。追いかけたい。

 けれど、扉の向こう側に踏み込んでしまったら最後、もう二度と元には戻れない予感もするのだ。



「待って! きみの――名前は――」


 閉じていく扉に手を伸ばすと、彼女は振り向いた。

 長い黒髪がふわりと広がる。

 黄泉の国の入り口へと誘う微笑み。



「わたし、希子のりこ。『そこ』で、あなたを待っているから」

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