剖検室のワーグナー
ふと白い天井と蛍光灯の光に目が眩む。
自室のベッドだ、と気づくまで何秒かかかった。
確か、ぼくは学校の帰り道で轢かれて……多分失神したんだ。
膝が擦りむけたのか、滲む血がズボンに染みて冷たくなってきている。
扉越しの階下から、甲高く詰る声が聞こえる。
「あなた! 親御さんは?」
「……いなくて」
男の低い声が聞こえてきた。
「どういうつもり? 信じられない! うちの
母の金切り声の後、重い沈黙があった。
「本当にごめんなさい……」
間を置いて、少女の声が控えめに割って入る。
「私、ダビドの幼馴染なんですけど。ダビドのお父さんとお母さんは忙しくて、日本語も分からないんです。急な事故でしたし、明日なら伺えるかと……ね、ダビド、そうでしょ?」
「なによッ、あなたまで……! 真理ちゃんに怪我をさせておいて、忙しいから来られないですって?」
玄関に響く甲高い怒鳴り声、気まずい沈黙。
部屋の壁時計の針の音がやけに大きく聞こえた。
部屋の向こうがあまりにも騒がしい。
ぼくは扉を開いて廊下に出て、吹き抜けから階下を見おろした。
玄関口には、色白のほっそりした中年女性――ぼくの母親、制服姿のダビド、美保さんの三人が立っている。
「あ、谷崎く……」
美保さんがぼくを見て目を見開いた。
目鼻立ちのはっきりした顔が強張っている。
もう何十分も玄関口で母に怒鳴られていたのだろう。
ため息をついて、ゆっくりと階段を降りる。
一歩踏み出すごとに足ががくりと崩れて、手すりに縋りつきたくなる。
擦りむいた膝がまだしくしくと痛んだ。
「母さん、もういいから」
母さんの怒りの半分は、ぼくを想う親心かもしれない。
しかしもう半分は、彼女自身の抑圧のはけ口でしかないのだ。
自分の苛立ちをぶつける対象を探していて、たまたま学生二人が現れただけ。
「ぼくはもう大丈夫だから、さっさと話を終わらせようよ」
「そう? 優しい子ねぇ」
母は血色の悪い唇で微笑みを作る。
「谷崎くん、怪我はもういいの?」
「平気だよ。頭も打っていないからな」
美保さんが頭を下げると、亜麻色の三つ編みもそれを追い、ひまわりのヘアゴムが揺れた。
「私がついていながら事故になっちゃって、本当にごめんなさい! ほらダビド、あんたも謝んなきゃ、あんたが轢いたんだから」
「……ごめん」
見上げると、色素の薄い、澄んだ青の瞳と目が合う。
「分かったから、二人とももう帰ってくれ」
自分でも驚くほど強張った声が出た。
別に、美保さん達を気遣っているわけじゃない。
口先の謝罪なんてぼくにとって意味も価値もないから早く終わらせたいだけ。
早く母さんを宥めて、誰も得しない時間を終わらせなければ。
「本当にごめんなさい! また改めてお詫びに来ます」
改めてそう言って頭を下げ、二人は帰っていった。
「育ちが悪いわね」
背中の後ろで、母が細くつぶやく声が聞こえた。
「あの外人、近所じゃ有名な不良って聞いたよ。うちなら金があると踏んで、当たり屋まがいの事故を仕掛けてきたんだわ」
母はぼくの擦り傷を見て、ごめんねと小さくつぶやき、ぼくの淡い茶髪を愛おしそうに撫でた。
その晩遅く、父は職場で夕食をとってから帰宅した。
母がそそくさと一礼し、上着を取る。
「おかえりなさい
引き締まった長身の壮年男性。
こけた頬、ぼくとよく似た鋭い瞳からは、抜け目なさそうな雰囲気が漂っていた。
母はおずおずとぼくの怪我を報告する。
「今日、真理ちゃんが自転車に轢かれて、怪我をしちゃったんです」
「またか? たかが、擦り傷で騒ぐな。大事な時期なんだから、無駄に騒いで俺を煩わせるな」
父は冷ややかで落ち着いた口調で告げた。
母の言葉は宙を舞うだけだが、父の言葉は冷たい刃のごとく鋭く突き刺さる。
顔を上げると父と目が合った。
獲物を探す猛禽類のような瞳。
一瞬の戦慄。
怒鳴られる前に姿勢を正してしまう。
「真理、何だ? その目は」
「……何でもありません。今夜の解剖に支障は出しません」
彼は『冷酷なよそ者の成金』ではあるものの、島社会への貢献から一定の人望は得ていた。
しかし近年、谷崎家は突如異常なまでに羽振りがよくなり、食器、家具、服、車、あらゆる生活用品が上等になった。
そして父は強引な開発計画を立ち上げてサナトリウム『わたつみ』を建設し、同時に島民向け診療所の運営を縮小した。
島民は当然怒る。
それをきっかけに、息子であるぼくも『わたつみの坊ちゃん』と皮肉混じりに呼ばれ、学校でも距離を置かれているのだった。
日曜日の夜は、わたつみの開業祝賀会だ。
冷血な父はなぜ突如サナトリウムを開業したのか。
資金の出所はどこなのか?
ぼくの日々の状況を作った元凶『わたつみ』とは、一体どんな場所なのか――。
開業祝賀会に参加すれば、答えに近づけるかもしれない。
「父さん。日曜夜のサナトリウム開業祝賀会に、ぼくも出席して構わないでしょうか?」
「誰が、家にいていいと言った。参加して当たり前だろう。俺の息子として恥ずかしくないように振る舞え」
父の瞳がぎらりと光る。
「だが、地下病棟には立ち入るなよ」
・
夕食後は、ぼくの一日において最も平穏な時間だ。
同級生たちがプロレス中継やFM放送のエアチェックに夢中になっている間、ぼくは父と『解剖実習』を行っている。
自宅地下の剖検室。
いつも父が流すクラシックのレコードが、かすかに針の音を立てている。
ストリングスの荘厳な響き。
楽劇『
彼はワーグナーが好きだった。
父は白手袋をはめて事務的に告げる。
「今日のホトケは
解剖台の上に寝そべるのは、老人。
見知らぬ彼女は、穏やかな死に顔を浮かべてとても幸せそうだ。
父は、死亡診断書や病理解剖診断書を偽装して、島で亡くなった遺体を許可なく切り刻んでいる。死体解剖保存法違反だ。
だが、解剖は密かに行われているため公式記録には残らない。
島民たちは雄真の行為にうすうす気づいていても口を出さない。彼に逆らえば診療所を利用できなくなるからだ。
硝子島の医療インフラは全て彼の支配下にある。
島にとっての谷崎雄真は『許容しがたい冷酷なよそ者の成金』でもあり、『表立って反発できない暴君』でもあった。
「今日は二体だ。いつも通りやれ」
うるさいな。
いちいち言わなくても、分かっているよ。
はやる気持ちを抑えながら薬品棚の鍵を開け、新品の解剖器具を取り出した。
高鳴る胸、指先に満ちる高揚。
今日はどんな断面を描こうか?
医学生の実習では一つのホルマリン漬け献体を時間をかけて系統解剖する。
しかし、ぼくたちの『解剖実習』は病理解剖に近い。
死後間もない遺体を二〜三時間程度で切り刻み、胸部から腹部にかけてメスで切開。臓器を取り出して肉眼観察し、写真に記録する。
もし気に入った臓器があればホルマリンの中で保存したり、顕微鏡で観察するための組織標本にしたりする。
解剖後はそのまま焼いてしまい、遺骨のみが遺族に渡される。
冷ややかな剖検室の中で、レコードの針が優雅な旋律を奏でていた。
ストリングスの調べに合わせて心拍のリズムが整っていく。
今日の彼女はよく切れる。
ぼくは父のやり方よりももっと丁寧に解剖したかった。
皮膚組織はたおやかに、内臓は美しく。さながら職人のこだわりだ。
ぼくが初めて『解剖実習』に参加したのは小学一年生の時。
子供の頃は怖がって立ち竦んでいたものの、父に拳で躾られたおかげで今やごく普通に切り刻める。
ぼくにとって、生きている人間は
生者たちは嘘をつき、怒鳴り、見下し、裏切る。
生臭くて醜悪で汚くて不潔だ。
視線と言葉を押しつけ、価値観を押しつけ、どうでもいい感情をぶつけてくる。
黙ってくれればいいのに。
それに比べて死体は嘘をつかない。
生前の生活習慣、食嗜好から死因まで、赤黒く変色した臓器が率直に真実を教えてくれる。
動かぬ屍は全てを受容する。
父の罵声、母の悲鳴、島民の視線全てから解放されて、ただ目の前の死体に向き合える静かで穏やかな日課だ。
だから、死体の解剖が好きだった。
この平和な時間がずっと続きますように。
全ての生命は平等に無価値だ。
死んではじめて、ぼくたちは完全になる。
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