死体はともだち
さかえ
流刑の島
静謐な日々の中、鮮烈な痛みを感じ続けている。
消え去るならば海がいい。肌寒い朝に独りぼっちで死にたい。
波打ち際に身をうずめると、砂浜に割り入る冷たい水がゆっくりと肌にからみつく。透明な潮が肺を満たし、醜くもがいているうちに自我は葬られるだろう。そのまま息を止めて海の藻屑になる。ぼくの体に水草が絡みつき、水面に溶けゆくなきがらを魚がついばむのだ。
淡い茶色の短髪も、痩せぎすの肉体も、そばかすの目立つ色白の肌も、眼鏡の奥の人好きしない鋭い瞳も――ぼくの全てが骨になる。
母なる海に還っていく。
・
窓から吹き込む潮風が生温く肌にまとわりついて、べたつく。
午後の曇り空の中、初夏の教室は蒸していた。
知っている内容ばかりで無意味な授業だった。配られたプリントは湿気で波打っていて、開く手すらじっとりと湿る。
ぼくの席は教室の窓際から一列内側にあって、視線を逸らせばすぐ海が見える。だから、よく水平線を眺めて時間を潰している。空と海を隔てる線を。
よそ見を見咎められたのか、担任のしじみ目がぼくをじろりと捉えた。
担任は小太りのプロレスラー体型で、シャツにはじわりと汗染みが広がっている。
「
ぼくの名前が呼ばれた瞬間、先ほどまで笑顔が溢れていた教室は水を打ったように静まり返った。
自分でも分かるほどの冷ややかな目線に刺されながら、立ち上がって口を開く。
「『夜光の珠も暗中に置けば光彩を放つが、白日の下に曝せば宝石の魅力を失う如く、陰翳の作用を離れて美はないと思う』」
授業の課題文は『
公立中学校の三年生という繊細な時期に、カリキュラム範囲外の評論文を扱うのは担任の趣味だろう。
ぼくだけ十分ほど立ちっぱなしにさせられて、他のクラスメイトの三倍長い文量を音読させられているのも、きっと担任の趣味だ。
担任はぼくをねめつけ、いつものあだ名で呼んだ。
「『坊ちゃん』、そのまま次の文も読んで」
彼は次もその次もと指示を飛ばしてきて、一向に音読をやめさせてくれない。
「『案ずるにわれわれ東洋人は己の置かれた境遇の中に満足を求め、現状に甘んじようとする風があるので、暗いということに不平を感ぜず、それは仕方のないものとあきらめてしまい、光線が乏しいなら乏しいなりに、かえってその闇に沈潜し、その中に自ずからなる美を発見する』」
不気味なほどの沈黙の中、教室にぼくの声だけが響く。
喉仏の浮き出た細い喉に汗が這い、だんだん口がからからに渇いていった。
やっと解放されて椅子に座り直すと、あちこちからまばらな拍手が起こる。普段音読が終わった後に拍手なんてしないのに、『坊ちゃん』が読んだらこれだ。
義務的な称賛が終わった後、間を置いてまた喧騒が戻った。
教室に満ちる温かいざわめきが、どこか遠く感じられた。
「じゃあ次はオマエ、ダビド・スミルノフ。おい。寝るな」
担任は教室の最後方に向かう。
教室の一番隅、クラスメイトの机から若干距離のある席に、がっしりした体格の少年が腰掛けていた。
いや、正確には机に突っ伏して居眠りしている。
「オマエ、アホなんだけ授業くらい起きとれ」
担任は国語の教科書でダビドの後頭部をはたく。
ようやく起き出した少年はくすんだ銀髪をもたげ、眠そうに目を擦った。まるで冬眠から起きた熊みたいだった。
洗いざらしでよれたポロシャツも黒いスラックスも、大人顔負けの体格には似合わない。
彼は大柄な体をゆっくりと起こして立ち上がる。
そのまま、外国語訛りの強いイントネーションで音読を始めた。
「『こうしてみると、かつて』……『白せき人種』……『が有色人種を』……ひかどした」
「『
「『はいせきした』、……『心理が』……『頷けるのであって』」
ダビドはところどころ音読に詰まる。
今度は誰からともなく、くすくす笑いが漏れ始めた。
「ちょっと! 皆やめなよ……」
ぼくの左隣に座る学級委員長・
しかし周囲の笑いはおさまらない。
ぼくはため息をつきながら目を逸らした。
くだらない。静かにしてくれればいいのに。
「『白人中でも』……『神経質な人間には』……『社交じょうりに出来る一点のしみ』……『一人か二人の有色人さえが』、……『気にならずにはいなかったのであろう』」
つっかえながらも音読は続く。
すると、教室中心部に座っていた男子生徒が、ダビドの口調をそのまま真似た。中学生らしいただのからかいだった。
美保さんは顔をしかめるが、彼女が口を挟むよりも前に、ダビドのほうが教科書を床に叩きつけた。
「Пошли вы все!」
彼は怒声とともに、丸太みたいに太い腕で『自分の机を持ち上げ、窓から投げ捨てた』。
机は軽々と空を舞い、教科書や文房具が床に飛び散る。女子が甲高い悲鳴を上げ、窓際の生徒が飛び退いた。
「先生! 怖い」
「あいつ今日は機嫌悪いね……」
クラスメイトが小声で怯える声が漏れ聞こえてきた。急速に空気が冷えていく。
騒ぎを聞きつけたのだろう。隣の教室から男性教師の応援が来て、ダビドは羽交い締めにされて引き摺り出されていった。教師たちはまたかと呆れている。
この後、彼は職員室で殴られるんだろう。
この学校の生徒は基本的に大人しい。
先祖代々知り合いばかりの離島だし、子どもの数が少ないから、ツッパリ漫画やテレビの向こうの本土のように悪ぶったところで相手にされないからだ。だから粗暴に振る舞う彼は完全に異質。
ざわめく教室内には、ダビドの怒りの残り香がじんわりと漂っている。
ふと窓の外を見ると、投げ捨てられた机が校庭にぽつんと転がり、錆びた鉄の脚が地面に擦れているのが見えた。
引き出しの中から、くしゃくしゃに丸められたプリントがはみ出している。
そこでぼくはようやく、自分が無意識に息を止めていることに気づいた。
眼鏡を押し上げて、いつも通りの呼吸のペースを取り戻す。
感情を殺せ。
島には中学校が一つだけ、クラスも一つだけだ。窓の外は海に囲まれていて、逃げ場などない。
ここ
古来より、
そこにいること自体が罰となる島。
それなら、硝子島で生まれ育ったぼくたちは、生まれながらに罰されているんだろうか?
・
放課後、校庭の隅の自転車置き場へ向かったはいいが、自転車が全く動かなかった。
しゃがみ込んで車体を確認し、やっと異変に気づく。
「……やられた」
舌打ちを一つ。
ぼくの自転車のタイヤが誰かにパンクさせられていた。黒光りするゴムに指を這わせれば、手のひらに薄く油の匂いと粉が付く。
冷たい怒りが静かに蓄積されて、潮風に内面がじわじわと腐食されていく。全員、死ねばいいのに。
ふと、授業中の賑やかな笑い声が頭の中で響いた。
笑い声の主を黙らせたい。
殺してやりたい。
彼らが静かな死体になってくれれば、窒息しそうなほどに蒸した教室の空気も愛せるかもしれない。動かぬ屍となったともがらを抱きしめて、無限の静寂を礼賛してやれるだろう。唇を寄せ、愛おしいとささやいて。
そこまで考えて、目を伏せ、思考を断ち切った。
感情を殺せ。自転車など些細な問題だ。
学校を出て長い道路を下ると、すぐに『
寂れた港からは、本土へ繋がるフェリーと、近くの島々を行き来するための内航船がそれぞれ発着している。
しかし辺境の漁村の観光需要などたかが知れていて、訪れるのは社員旅行か物好きな釣り人くらいだ。
日本海に沈む夕日が海に反射してきらきらと光っていた。
視界の眩しさに目を細め、足を止めた瞬間――。
「危ない!」
女の叫び声が聞こえた。振り返った時には遅かった。
強い衝撃が体全体に走り、視界が百八十度回転する。それから嵐の後のような静けさが訪れて、徐々に音が遠のいていく。轢かれた。
ぼんやりと歪む視界に、亜麻色の長い三つ編みとセーラー服の少女が映った。
彼女が右手を差し出してくる。
「たにざきくん! たてる?」
耳から入ってくる音声が、言葉としてうまく認識できない。差し伸べられた手を取ろうとして、わずかに躊躇ってしまう。
そして、ぼくの意識は途切れた。
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