錆のきざし
今日は土曜日なので、授業は午前中で終わり。
お腹が空いて仕方ない。
とめどなく汗が噴き出し、ともすれば脱水症状で倒れてしまいそうだ。
放課後、木造りの下駄箱の前でダビドに会った。
大柄な身体を下駄箱にあずけている。
他の生徒はダビドを遠巻きに見て居心地悪そうにしていた。
なぜまだ校内に残っているんだ?
確かこいつも部活はやってなかったはずなのに。
まさか、授業終了時刻さえも忘れたんじゃなかろうか。
「ダビド。今日は半ドンだよ」
すのこの上で靴をはきながら嫌味を言うと、ダビドはばつのわるそうな顔をしてぼくを見ていた。
どうやらぼくを待ち構えていたらしい。
「……この前、ごめん」
「きみがどう思ってようが、べつに興味ない」
視線を避け、突っぱねる。
こいつのおかげで今日は一日中膝の傷が疼いて、歩くたびにちくちくしていた。
立ち上がって自転車小屋に向かったが、ダビドに肩をつかまれた。
ぼくはいらいらしながら振り返る。
こいつの感情を相手してやることがひどく不合理に思えた。
「離してくれよ」
「怒ってんだろ。事故」
「怒ってないよ。本当に興味がないだけなんだ。事故の原因は不注意だろ? 感情の上で反省したところで何か変化するわけではない。きみが前々からぼくを轢こうと計画していたなら話は別だが、きみはそれほどご立派な思考回路、持っていないだろ」
苛立ちのままに捲し立てると、ダビドは完全に固まってしまった。
数秒視線を彷徨わせ、何かを考え込んでから、やっと切り出してくる。
「……でも、……おまえのお母さんが」
「母さんは、自分の息子が札付きに轢かれたおかげで自尊心が傷つけられて怒ってたんだよ。そういうやつだから。ぼくが唆したわけじゃない」
「札付き?」
「不良って意味だよ。ツッパリ」
「……おれは不良じゃない」
ダビドは語調を荒げた。
白い肌に汗が浮いている。
その反論が妙に真剣で笑えてしまった。
彼は入学式から今日に至るまで、毎月器物損壊だの喧嘩だの何かしらの問題をやらかしているはずだ。
中学校は義務教育だから退学にもできないし、両親は外国人で日本語が通じないから教師もお手上げ気味らしい。
「おれは、自分が悪くないって言わない」
「きみがどう思っていようが、ぼくには関係ない」
「違う。おれ、おまえの直した」
ダビドが、油汚れがついた手で自転車小屋を指さす。
彼は昇降口の前で立ち止まったままなので、指差された通り自転車置き場に向かう。
そこにはぼくの壊れた自転車がある……はずだった。
しかし、先日とは違ってパンクは直され、チェーンがきちんと繋がれ、錆びた部分には油が差されている。
「……は?」
呆気に取られ、立ち止まってしまう。
後ろから歯切れ悪い声がかかった。
「おまえ、これがなかったら、困るだろ?」
振り向いて見れば、彼の太い指先に油汚れがついている。
ダビドは、先日誰かに壊されたぼくの自転車を修理していたのだった。
この指先が彼にとっての謝罪なんだ。
彼にとっての償いとは単なる言葉ではなく、相手のための行動なのかもしれない。
いつもの皮肉が出てこなかった。
他者への関心を断ち切るための刃が、純粋な温かさに触れて刃こぼれしている。
代わりに礼を言うべきかと立ち尽くしている内に、ダビドの方が先に口を開いた。
「谷崎、おまえ、海の近くに住んでんのか」
「だから何なんだ? それも噂になっているのか?」
「いいや。これ、ダメになる……これ……なんていう? 赤いやつ……」
言葉に詰まり、身振りで補うダビド。
太い指がとんとんとかごを指した。
「錆のことかい?」
「そう、それ。錆。おまえの自転車のカゴに、海の風で錆がある」
彼はぼそっと呟いた。
カゴが潮風にあたって錆びている、と言いたかったらしい。
自転車のカゴが潮風にさらされて錆びるように、環境に適応できないものは傷ついて腐食していく。
当たり前の道理だ。
「ワイヤーブラシで擦れ。錆は削る取るといい」
「……そうなんだ。ダビド、きみ手先器用だな」
「おれ、こういうの直すこと詳しい。坂口の店、手伝ってるんだ」
ダビドは太い眉を詰めて自慢げに笑った。
商店街に位置する中古修理店を手伝っているなんて知らなかった。
その細やかな優しさと、繊細な手つきに戸惑う。
「おまえの自転車、крутоで」
「何だって?」
「あ、……かっこいい。もっと見ていいか?」
ダビドが付け加えた。
ぼくは今日初めて笑った。
「構わないよ。きみの好きにしたら」
ダビドは頷き、自転車の前にしゃがみ込んだ。
自転車のメンテナンスを無心で続ける横顔を、じっと眺め続けていた。
ダビドは、まるで生き物を扱うように丁寧な手つきで自転車を直す。
大きな手が、油の滑らかな光沢と細かい部品の隙間を器用にすり抜ける。
意外なほど優しい仕草だった。
「谷崎くーん! 今帰るところ?」
そこに現れたのは、学級委員長の灯椿美保さんだった。
女子の中では長身なのですぐわかる。
彼女はいつも通り、腰まである茶髪を一本の太い三つ編みにして、ひまわりがモチーフのヘアゴムを付けていた。
大人びた顔立ちに利発な微笑みを浮かべて、
「この前、うちのお婆ちゃんが谷崎先生のお世話になったよね。ありがとう」
美保さんが髪を掻き上げながらぽつりと呟いた。
ぼくは父の仕事について詳しく知らない。
ただ、自転車を壊された夜、父とともに解剖した遺体を思い出した。
民宿を営んでいた老婆とは、彼女の祖母だったのか。
指先にメスの感覚が蘇り、血の気が引く。
「……ぼくは……、何も……」
何も関係ないとは言えない。
ぼくは、彼女の祖母をバラバラに切り刻みながら、陶酔すら感じていたのだから。
明るい笑みを直視できず、視線を自転車に戻した。
「谷崎くん、眼鏡変えたよね! 今のほうが似合ってるよ」
「どうも」
めざとい。
同じサーモント・フレームのはずなのに、美保さんはすぐ気がついた。
「あの、谷崎くん。この前の音読、すらすら読んでて……か、……かっこよかった……」
美保さんは、真ん中分けの前髪をしきりにいじりながら、ささやく。
「おべっかをどうも」
「わ、私、冗談言わないよ!」
ぱっちりした瞳が伏せられた。
硝子島の人口は千人未満。
狭い離島だから、『皆同じ、一緒に仲良く、平等』という閉鎖性が強い。
しかし美保さんは民宿の家系でよそ者への敵愾心が少ない。
学級委員長という立場もあるのか、ぼくにもしょっちゅう声をかけてくる。
「……きみ、ダビドと仲が良いんだな」
「違うよ! 私たち、そんなんじゃないよ!」
美保さんはやけに必死に否定してきた。
「言わせていただきますと、家族ぐるみの幼馴染ってやつ! ダビドのご両親が島に来た時、町役場に勤めてる親戚が世話焼いてたんだ。小学校も同じだったし、今もすっかり面倒見てやってるってわけ」
話によると、先日は島の中心部にある商店からの買い物帰りだったそうだ。
事故のあと、美保さんがぼくの傷に応急処置を施した。
その間にダビドは茂みに放り出された靴を救出して、ぼくを家まで運んでくれたらしい。
美保さんは幼馴染の方をちらりと見やり、
「この前の事故、ごめんね! ダビドも本当にわざとじゃないの」
「ぼくも、わざと事故を起こしてるなんて思ってないよ」
「良かった!」
彼女の頬はほんのり紅潮していた。
美保さんが微笑むと、唇から、とうもろこしのように綺麗に揃った歯がわずかに見える。
それからダビドの方を一瞬だけうかがい、声をひそめた。
「ほらダビドって、碧眼でしょ? 瞳の色素が薄くて、ちょっとした光も眩しく見えちゃうから、目を細める癖があるの。事故の時は、谷崎くんが夕日に包まれて眩しくて見えなかったんだって」
そう言われて納得した。
瞳の色素が薄い人種は、光よりも闇の中の方が視界がはっきりするという。
淡い瞳は、強い光を受けると目が痛くなる症状・
けれど、それを轢かれた側のぼくに言われてもどうしようもないよな。
ぼくは軽く肩をすくめて揶揄う。
「じゃあ、あいつにサングラスでも掛けさせておけば良いんじゃないのか?」
「あははっ。似合いそうだね!」
ひとしきり笑ってから、俯く美保さん。
緊張でもしているのか、さっきからしきりに手を組んだり足を組み替えたりせわしない。
「まあ、あいつバカだけど、煙草もお酒もやらないし。喧嘩が好きってわけじゃないみたい」
苦笑混じりに呟き、美保さんはダビドの背中を見やる。
そういえばぼくも、ダビドが自分から他人を殴っているのは見たことがない。
「あいつはね、自分の思いを言葉として伝えられないから、もどかしくて手を上げちゃうの」
「……ダビドのご両親って、外国から来たんだよね。いつ硝子島に来たんだ?」
「十五年? 二十年? くらい前かな」
時期からして民族紛争による避難民だろう。
そこでぼくははっと気づいた。
――ダビドは、母語と日本語のどちらも上手く話せないんじゃないか?
移民二世の子供たちが、親の母語・居住国の言語を中途半端にしか習得できない例は珍しくない。
例えば『車』は理解できても、『車両』がどういう意味なのか理解できず、適切なコミュニケーションや複雑な思考ができない。
すると、しゃがんで自転車を弄っていたダビドが振り向き、レンチで美保さんを指してみせた。
「勝手にしゃべんな! 黙れブス!」
「うっさいのは、あんた。バーカ」
美保さんは悪戯っぽく返し、ちろっと舌を出してみせた。
色恋というよりは姉弟のようだ。
すると、昇降口から女子生徒の声がした。
「美保ちーん。一緒に帰ろ!」
「あっ、めぐみだ。私、もう帰るね」
美保さんは振り向いてひらひらと手を振り、昇降口の方に小走りで向かう。
去り際にぼくに振り向いて、付け加える。
「ダビドはね、喋ると笑われたりからかったりされるから黙ってるだけで、本当は無口じゃないの。日本語もうまいし話せる奴だよ。工夫すれば、仲良くできるよ!」
「……分かったよ。じゃあまた月曜ね」
ぼくは別にダビドと仲良くなりたいわけじゃない。
本当に違う。
けれど……少しだけ興味が湧いたんだ。
こいつはただの不良じゃないかもしれないって。
あの授業で、彼の怒りは本当は何に向かっていたんだろう。
ダビド。
きみも、硝子島が息苦しいのか?
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