ジェミニ

羽鐘

   1


 雪が、横殴りに顔に張り付いてくる。長靴の中の指は、冷たさを通り越して霜に焼かれている。

 指にかけられた吐息は、凍てつく大地の前では、あまりに無力だった。


 少年、そう呼ぶにはまだ早い年端のいかない子は、懸命にそりを曳いていた。

 灯油の入ったポリタンクが、その子の足が前に進もうとするのを妨げている。

 家まではもう、僅かしかない。

 信号を越えればすぐそこにある。

 そのはずなのに、視界を奪う吹雪が、子の心を萎ませる。

 何度も転んでは起き上がり、手袋の中で握りこぶしを作り、子は、なんとか家までたどり着いた。

 細く、小さな身体に、精一杯の力を込め、ポリタンクを玄関まで運び、ようやく子は生きた心地になった。


「ただいま、お母さん」

 子は、あえて空元気を出した。

 居間から出てきた母は、顔中に不機嫌を張り付かせ、手を差し出した。

 労いではなく、釣り銭の要求。

 子は、ポケットをまさぐり、ガソリンスタンドの店員が入れてくれた小銭を、その手に乗せた。

「札は? あんた、落としたね!」

 子の頬に痛みが走り、乾いた音が頭の中で弾けた。

「お、お兄さんが入れてくれたのしかないよ」

 子の声が寒さ以上に震える。

 子の記憶では、札を二枚渡し、お釣りは小銭だけで、落とさぬようにとポケットの中に入れてもらったものが全てだった。

「五千円渡してる! 落としてるから探してこい!」

 母にそう言われ、子は、文字どおり家から叩き出された。


 子は、ありもしない札のお釣りを探した。

 身体は熱を求め震え、涙は寒風が吹き飛ばした。

 あるかもしれないと、街路樹の根元、看板の下、よその家の玄関前、気になるところで立ち止まり、身を低くした。

 ガソリンスタンドに戻り確認したが、やはり子が渡したのは二千円だった。

 その事実を、母に言う勇気はなかった。

 事実であれ、子の勘違いであれ、殴られる未来しか見えなかった。

 未来を変えるには、千円札を拾う奇跡にすがるしかなかった。

 身体は熱を失い、子の意識は遠くなりつつあったが、それでも子は探すのをやめられなかった。

 何度も探した看板の下を覗いたとき、毛糸の帽子越しに鈍い痛みが走った。

 振り返ると、一つ年上の兄が立っていた。

「もういい、帰るぞばか」

 そう言って、兄は再び子を叩いた。

 子は、母の怒りに怯えたが、目の前の兄にも逆らえなかった。

 耐えきれない寒さから解放されるはずなのに、足が深い雪に飲まれたように重かった。


 家につくと、また叩かれたが、それで終わって子は安堵した。


 子にとって冬は、拭い去れない痛みを覚える、嫌な季節だった。



   2


 少年になり、本と空想が好きになった。

 理由のわからぬ転校を繰り返したせいで、友達は少なかった。

 冬は嫌いなままだった。

 それでも、物語の中に居場所を見つけていた少年は、明るく育った。

 中学生になると、同じ趣味の友達が増えた。好きな本の話が、少年の癒しになった。


 少年はクラスの中では小さく華奢だったが、兄に言われ、柔道部に入った。

 練習は厳しく、投げられては痣を作ったが、少年はほんの少しだけでも強くなった気がした。

 冬は少年の心を変わらず冷やしていたが、少しだけ自信を持ち始めたある日、少年はチョコレートを四つもらった。

 バレンタインという風習を初めて知った少年は、いたく喜んだ。

 少年にチョコをくれた少女のうち、二人は容姿をいじられることの多く、そのことで少年をからかう声もあったが、自分に好意を寄せてくれることが嬉しくて、気にならなかった。

 冬が終わろとする頃、少年は初めて暖かい冬の存在に気付いた。


 春の訪れが見え隠れし始め、少年はバレンタインのお返しを考え始めた。

 その日の部活、柔道着に着替えようとした少年を、先輩がふざけて廊下まで引きずり出した。

 強くなった気がした少年は、屈強な先輩の力に抵抗できなかった。

 下着姿で廊下を引きずられ、同級生や担任の女性教師に見られた。

 ただの悪ふざけのはずだった。

 少年が、少しずつお小遣いを貯めて買ったお返しは、少女たちにはひきつった顔で受け取られた。

 そして、波が引くように少年の元から人が離れていき、少年は心を閉ざし、本と空想の世界に逃げるようになった。

 冬は再び凍てつきにしかならず、春はただ遠退いていった。



   3


 無為な青春が過ぎ去り、少年から青年へと成長し、仄暗い世界にいた。

 冬は依然、青年の熱を奪う存在でしかなかった。

 困難な就職活動をくぐり抜け、かろうじてしがみついた職場は、青年にとって良い環境とは言えなかった。

 一度仕事に出ると、なかなか帰宅できず、連絡もろくに取れない状況になっていた。

 そのせいもあり、青年には変わらず友人が少なく、孤独は、本とゲーム、それに空想で埋めていた。


 ある時の冬、友人の紹介で青年に初めて恋人ができた。

 初めてのキスは、青年の心を熱く焼いた。

 心に灯った炎は、恋人に会えない時間を、孤独の冷気から身を焦がす苦しみに変えた。

 すきま風が吹かぬように青年が距離を埋めようとするが、それは恋人を縛る鎖になった。

 青年の炎は、縁をつなぐ糸をいとも簡単に焼き払った。

 別の女性と結ばれた縁も、青年は孤独の穴に宿る燻りで焦がした。

 青年は、離れることにも近づくことにも、恐怖を覚えるようになった。

 心の穴は埋まらず、風が止むことはない。

 穴を塞ごうにも、青年の脆い自信では、それも敵わなかった。


 翌年、冬の足音が近づいてくる頃、一人の女性が青年に触れ、唇を塞ぎ、再び火を灯した。

 勢いよく燃える炎は、もう消えることはないと思えた。

 彼女は常に熱を伝え続けた。

 青年もそれに応えた。

 青年は、永遠の愛を誓うための準備を始めた。

 彼女は微笑み、身を委ねていた。

 ただし、彼女が心に宿す炎は、他の男の心まで燃やした。

 青年が触れられない時間に、彼女の炎は、他の男との間で新たな命を生み出した。

 青年は、絶望のなか、それでも彼女を求めようとした。

 春の訪れの前、彼女は青年の前から姿を消した。生まれるはずの命は、儚く散り、その責は青年に向けられた。


 青年は、知った。

 自分には愛情を通じ合うことなどできないことを。



   4


 青年は、老いを覚える男になった。

 幾年月を越え凍りついて久しい男の心は、永久凍土のように白く、そして深い闇の色をしていた。

 あるきっかけで、男は、子を持てぬ身体であることを知った。

 もう、泣くことはないはずだったのに、色を映さない男のひとみから雫が落ちた。

 男の家族は、既に離散していた。

 兄は病でこの世を去り、母もいない。

 男は、初めて、記憶の中にある痛みを消化した。

 解放ではなく、深い孤独として。


 男はいつしか、文を紡ぐようになった。

 どんなに望んでも、男の血が残らないのなら、せめて心だけを次の世代に残そうと考えた。

 読まれることのない物語が綴られ、聴かれることのない歌詞が、男の残滓だった。

 男は、評価を渇望し、感情の渦に飲まれていた。

 知ってほしい。

 見つけてほしい。

 声が、届いてほしい。

 そして同時に、男は、自分の中の期待感を拒絶し、激情の波に拐われていた。

 触れないでほしい。

 近づかないでほしい。

 もう、傷つけないでほしい。

 相反する感情が、男を荒波の中の小舟のように揺らした。

 その度に心は、叫び、血を流し、絶望の海に沈んだ。


 雪が街を白く染めるころ、男は疲弊し、命すら諦めようとしたとき、ふと、誰かの声が聞こえてきた。

『気にするなよ』

 確かに、そう聞こえた。

「誰だ?」

『お前の中にいる、お前だよ』

「俺の中の、俺?」

『そう、ようやく届いた』

 男は、静かに目を閉じ、心の中へと耳を澄ませた。

「どういうこと?」

『お前さ、もう気がついてるだろう。お前の言葉は、届かせるためにあるわけじゃない。吐き出すためのものさ』

「吐き出す……?」

『そう。お前は今、心の中にあった言葉を吐き出した。それはお前が抱えていた言葉だ。吐き出せたことが第一歩。評価は気にするなよ』

 無機質な響きの中に、微かな温もりを感じた。

「しかし……気になる……」

 男の声が、嗄れる。

『今のお前は、素直に評価を受け入れられない。まずは、お前がお前を認めるんだ』

「俺は、何をしてもダメなやつだ。そのことは、俺が一番知っている」

 反論するたび、血の味がする。

『違う。それは、お前が求めた反応じゃないから、それだけさ。お前は行動してきた。それを誇れ』

「しかし、何もない、俺には」

 男は枯れたはずの涙を流した。

『あるさ。お前には傷がある。それはお前が行動してきた証。今のお前に一番必要なのは、そのことに気付くこと。行動できたことが、お前の価値なんだ』

 声は、確固たる意思を言葉に込めていた。


 男は自問した。

 確かに行動をした。しかし、結果として誰かを傷つけ、自分を傷つけただけにしか思えない。

 しかし声は、それを誇れと言い、価値だと言った。

 矛盾しているとしか、思えなかった。

『それでいい、考えろ。お前は傷を数えているけど、同じだけ、笑顔も見たはずだ。傷の痛みでそれを否定するな』

「結果が痛みになるなら、何もせずいるのが正解じゃないのか?」

 声は、詭弁に聞こえた。

『確かに、誰かを傷つけただろう。嫌われもしただろう。でも、それだけだ。お前まで自分を傷つけ、嫌う必要はない』

「じゃあ、俺のこの衝動はどうしたらいいんだ? 渇望し、拒絶してしまう、俺の気持ちは?」

 男は、心の中に叫んだ。


『その衝動は、今までお前が得られなかった愛情から生まれている。今、それを誰かにぶつけても同じことの繰り返しになる。だから、考えろ。何故、衝動が生まれたか。そして自分の心と向き合え。そうすれば落ち着けるし、自然なお前として他者は見てくれるさ』

 男は、心に蔓延る凍土を、僅かだけ溶けていることに気付いた。

「でも、それでも、何も得られなかったら?」

 男の声は、恐怖で震えた。

『得られなかっただけで、お前は行動した。それこそが一番価値のあることなのさ。気楽にいこうぜ、兄弟』

 仄かな笑いを含んだ声は、そこで消えた。

 混乱のまま立ち尽くす男は、それでも、仄かに微笑んだ。


 その後の人生で男が、何を得たのか、誰も知らない。

 ただ一つ言えるのは、男は、内にいるもう一人の男に、救われたのだ。


 男は、相も変わらず冬を嫌っていた。

 しかし、もう男の心を凍らせることはなかった。


〈了〉

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ジェミニ 羽鐘 @STEEL_npl

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