第10話 8分間の奇跡

 ――ピィィィィ!


 インターバル終了のブザーが、ザワついた体育館に鳴り響く。

 

 Bチームの選手たちが、第1クォーターとはまるで違う、鋭い光を目に宿してコートへと戻っていく。その中心にいるのは、言うまでもなく川島良樹だ。


 

「……みんな、聞いてくれ」

 インターバルの間、良樹はただひとつだけ仲間たちに要求した。

 

「次のクォーター、俺が兄貴にマンツーマンでつく。でもみんなは、俺へのヘルプは一切考えなくていい。自分のマークだけを、絶対に離さないでくれ。それだけでいいから」

「はぁ? オマエ、自分が何言ってるかわかってんのかよ」

「ど素人のオマエが竜樹さんのマンツーマンとか、無理に決まってるだろ」

「そうだよ。むちゃくちゃだ!」


 仲間たちが非難の声をあげるほど、それはあまりにも無謀な提案だった。素人の良樹が、あの絶対的なエースを一人で止められるわけがない。誰もが普通はそう思う。

 だが、良樹の瞳は冗談を言っている色ではなかった。そこには獲物を見つけた狩人のような、静かで獰猛な光が宿っていた。


「大丈夫。他の人を止めろって言われたら無理だけど、相手が兄貴なら止められる。信じられないのはわかるけど、ここは俺を信じてくれないか?」


 良樹の言葉の迫力に、仲間たちは気圧されてしまった。

 

「……わかった。信じてやるよ、川島。もともとこの試合はオマエのテストだしな」

 

 Bチームのキャプテンが放ったその一言で、チームの意思は固まった。


「その代わりヘマをしたら、一年後ウチの部の敷居は跨がせねーからな」

「ヘマなんかしないさ」


 良樹のその不思議な自信に満ち溢れた顔を見てキャプテンは、もしかしてコイツはホントにやれちまうのかも、と一瞬思った。

 


 そして、第2クォーターが始まった。

 ボールはAチーム。ポイントガードから、当然のように竜樹へとパスが渡る。

 

「さあ、圧勝させてもらうぜ、良樹!」

 

 竜樹が余裕の笑みでドリブルを始める。その目の前に、良樹が仁王立ちで塞がった。

 

「兄貴。ここからは一本も通さねえよ」

「ほざけ、素人が!」

 

 ダムッ! と、竜樹のドリブルのテンポが変わる。

 高速のクロスオーバー。右へ、左へ。ボールがまるで生き物のように跳ね、良樹を翻弄する。

 常人ならばとてもその緩急についていけず、一瞬で置き去りにされるだろう。

 

 だが、この場にいる全員が信じられない光景を目にした。

 良樹が、なんと竜樹にピッタリと喰らいついているのだ。

 

(――見えてる。見えてるぞ)

 

 良樹の目はボールを追ってはいなかった。

 彼の視線は竜樹の身体の中心、その重心の動きだけを捉えていた。ドリブルのリズム、肩の僅かな揺れ、シュートを撃つ瞬間の予備動作。第1クォーターで浴びるように見せつけられた兄のプレーの全てが、完璧なデータとして蓄積されている。

 

 キュッ! とシューズが鳴り、竜樹が右へ仕掛ける。良樹も完璧に反応し、その進路を塞ぐ。

 

「チッ……やるじゃんか!」

「言ったろ。もう一本も通さないって」

「舐めんなよ!」

「だてに兄貴と10何年も一緒に暮らしてねえんだって!」


 竜樹は弟を抜き去ろうとドライブを仕掛けるが、良樹は驚異的な横のステップで完璧に食らいついてくる。二度、三度と試みるが、良樹は崩れる気配を見せない。


「ウソだろ……あの一年、竜樹さんに付いていってるぞ!」

「信じらんねぇ……」


 体育館内のザワめきは、どよめきへと変わっていた。

 監督が、両腕を組んでコートを凝視する。

 その隣りで凛も静かにコートを見つめている。

 観客席の志保は、両手で口を押えながら、祈るような気持ちで良樹に視線を向けている。

 

 苛立ちを覚えた竜樹は、一度ボールをガードに預け、自らはパスを受けるために動き出す。

 しかし、そこでAチームの選手たちは、ある光景を目にした。

 良樹はボールマンを完全に無視して竜樹の前に立ちふさがり、パスコースに片手を伸ばして、徹底的にパスを入れさせない『ディナイディフェンス』の体勢をとっていたのだ。


(良樹のヤツ……どこでそんなワザ覚えたんだよ。しかもサマになってやがる)


 エースである自分にボールが入らない。竜樹の苛立ちがますます募る。

 焦ったのは竜樹だけではない。ボールを持つAチームのポイントガードにも焦りが生まれる。このままではショットクロックという反則を取られてしまうからだ。

 ボスケットボールには、攻撃側のチームはボールを保持してから24秒以内にシュートを打たなければならない、というルールがあるのだ。

 

 しかしポイントガードの彼は、あらかじめチームで決められていた次の選択肢に、素早く頭を切り替えた。竜樹が徹底的にマークされることで生まれる、逆サイドのシューターをフリーにするという連携パターンだ。

 竜樹が徹底的にマークされることなど常に想定の範囲内。当然そうなった時の打開策を彼らは持っている。


「俺を抑えれば勝てるとか思うなよ?」

「でも、抑えなきゃ勝てないだろ?」


 二人は火花を散らしながらも、どこか楽しそうだった。


 ポイントガードは、逆サイドでフリーになろうと動くシューターへ向かって、矢のようなチェストパスを放った。

 普通なら竜樹をディナイしている良樹には絶対に反応できない、完璧なタイミングのパスだった。


 「通った!」


 誰もがパスが通ったと思ったその瞬間、体育館が凍りついた。

 パスが出されたその先に、いつの間にか良樹が回り込んでいたのだ。

 

「なっ――!?」

 

 監督がコート脇で驚愕の声を上げる。


 良樹は竜樹をディナイしていた。だが、その視線は竜樹だけを見ていたのではない。彼はパスを出すガードの視線、そしてAチーム全体の動きと、第1クォーターでインプットした攻撃パターンを同時に把握していた。

 竜樹が苛立ち味方へのパスを選択せざるを得なくなった状況、そしてガードがシューターにパスを出すであろうコース、その全てを予測して、竜樹をディナイするフリをしながら実はパスコースへと身体を寄せていたのだ。

 

 言葉で言うのは簡単だが、それは常人には不可能な、あまりにもリスクの高いギャンブルだ。だが、彼にとっては確信に満ちたトラップだった。

 良樹はAチームの攻撃パターンそのものを読み切り、パスを受けたシューターが次に動くであろう未来のスペースへと、パスが出されるより一瞬早く走り込んでいたのだ。


「う、嘘だろ……!?」

「なんで、アイツがそこにいるんだよ!」

「アイツ、竜樹にピッタリ付いてたじゃないか!」

 

 Aチームの選手たちから、信じられないといった声が上がる。

 観客席の美咲が、呆然と呟いた。

 

「……未来でも、見えてんの? アイツ」

 

 だが、ショーはまだ始まったばかりだった。

 ボールを奪った良樹は一気にカウンターを仕掛ける。

 

 ダンダンダンッ!

 

 尋常ではないスピードのドリブルで、コートを切り裂いていく。

 Aチームの選手たちが慌てて戻るが、まるで追いつけない。

 

「止めろォ!」

 

 二人のディフェンダーが、挟み込むようにして良樹の前に立ちはだかる。

 良樹は、その顔を見てニヤリと笑った。

 

(食いついた!)

 

 トップスピードから、キュキュッ! と急停止。その急激な動きに、一瞬ディフェンダーたちの足がもつれる。

 良樹の視線は、真っ直ぐにゴールリングを捉えていた。誰もが彼はシュートを撃つと思った。

 しかし、良樹の右手首はボールを押し出すのではなく、しなやかにスナップする。

 ボールは、彼の背後を通過した。

 

「なっ……!?」

 

 ビハインドバックパス。

 そのボールの先には、良樹を追いかけて必死に走ってきたBチームのキャプテンが、完全にノーマークで走り込んでいた。

 

「もらっ……たァ!」

 

 完璧なアシスト。キャプテンは、そのボールを受けて楽々とレイアップシュートを決めた。

 

 ――バスッ!

 

 綺麗な音を立てて、ボールがリングを通過した。

 

 第2クォーター開始から1分にも満たない。Bチームが、この試合で初めての得点を挙げた瞬間だった。


「キャァァ! よしくん、スゴイ! スゴイ!」

「ホントにやっちゃったよ、アイツ!」


 志保と美咲が抱き合って喜ぶ。

 観客席は、信じられない光景を目の当たりにして、誰もが興奮していた。


 興奮しているのはBチームの仲間たちも同じだ。彼らは良樹を取り囲み、口々に彼を称賛した。

 

「すげえ……! 川島、今のパスどこ見てたんだよ!」

「いやあ、なんか背後に気配がしたからさぁ。誰か来てるんだろうなって思ってさ」

「じゃあ、ノールックかよ!」

「部活でやってなかったなんて、絶対ウソだろ!」

「オマエ、マジで天才なんじゃねえのか?」


 ディフェンスでは未来を予測し、オフェンスではコート全体を支配する。

 さっきまで何もできなかったはずの素人が、突如としてコート上の司令塔へと変貌していた。

 

「……最高よ。最高だわ」

 

 コートの脇で、凛が恍惚の表情で呟いていた。

 

「面白い……面白すぎるわ、川島良樹! アナタは一体、どれだけの才能を隠し持っているっていうの!?」

 

 彼女のプロデュース計画が、今この瞬間に根底から覆され、そして、より壮大なものへと再構築されていく。

 

 その後も、良樹の独壇場は続いた。

 竜樹の動きをことごとく読み切り、スティールを連発。奪ったボールでカウンターを仕掛け、味方の能力を最大限に引き出す絶妙なアシストを量産していく。

 あげく3ポイントシュートまで決めてしまった。

 あれだけ一方的に押されていた展開が、一進一退となり、終盤にはむしろ押し気味となった。あれほどあった点差が、少しずつ、しかし着実に縮まっていく。

 

 Aチームに、明らかな焦りの色が見え始めた。

 

「クソッ! なんだアイツは! ポイントガードまでできるのかよ!」

「竜樹さん! どうにかしてください!」

 

 Aチームのエース、川島竜樹は、ただ唇を噛み締めていた。

 苛立ち、驚愕、そして……心の奥底から湧き上がってくる、弟の底知れない才能への歓喜。

 

 ――ピィィィィ!

 

 第2クォーター終了のホイッスルが鳴り響く。

 スコアは、第1クォーターでつけられていた点差を半分以上縮めていた。

 そう、この第2クォーターだけで言えば、Bチームの方が優勢だったのだ。


 体育館中が、たった一人の一年生が巻き起こした嵐に、言葉を失っている。

 コートの中央で、ゼエゼエと肩で息をする良樹。

 その目の前に、兄である竜樹がゆっくりと歩み寄ってきた。

 そして、ニヤリと、獰猛な笑みを浮かべて言った。

 

「……面白いじゃねえか、良樹。第3クォーターでは、本気で潰してやるよ」

 

 相手が誰であろうと、それが弟だろうと負けるわけにはいかない。王様が、ようやく本気になった。


「望むところだっ、て言いたいところなんだけどさ……ちょっと無理みたい」

「ん? どうかしたのか?」


 竜樹がその言葉を言い終わるか終わらないかのうちに、突然良樹が「イテテテ」と叫びながらコート上にしゃがみこんだ。


「どうした良樹! ケガか! どこを痛めた!」

「いや、ケガじゃなくて……なんか、あちこちの筋肉が攣って……イテー」

「ったく、そんなになるまで無理しやがって」

「だって、無理しなきゃ兄貴には勝てねーじゃん」

「負けず嫌いなヤツだな。保健室まで肩貸してやるよ。立てるか?」


 志保と美咲が心配そうな顔で二人のもとに駆けつけた。


「よしくん! 大丈夫? ケガしちゃったの?」

「あっちもこっちも筋肉が攣ってるんだってさ。俺相手に無茶するからだっての」

「良樹くん、どうしたの? 大丈夫かしら?」


 監督とともに凛も良樹のもとへ駆けつけて声をかけた。いつのまにか選手たちも周りで輪を作っている。


「なんだかあちこちの筋肉が攣ってるらしいんで、俺が保健室まで連れていきます」

「あっ、私も一緒に行きます」

 

 竜樹と志保は、よろよろと立ち上がった良樹に肩を貸して、そのまま保健室へと向かっていった。そのあとを美咲もついていく。

 その良樹の後ろ姿に向けて、一人、また一人と拍手が起こり、やがてその場にいる全ての者から惜しみない拍手が巻き起こった。それは、たった一人で劣勢をひっくり返したヒーローに対する、称賛以外のなにものでもない。


「ふぅ、大きなケガじゃないようでよかったわ」


 凛が安堵の表情でそう言った。

 なんとも中途半端な形で終わってしまったが、良樹が第2クォーターで見せた8分間の奇跡は、その場にいた全ての者たちに、強烈なインパクトを残すものだった。

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