第2話 わたし、オートレース部に入ります!

 翌朝。


 鳥の囀りと台所で動き回る音が、深い眠りの底にいるひよりを揺り起こした。


「ひより。そろそろ起きなさい」

「はーい」


 まだ眠たそうに瞼を擦りながら、ゆったりとひよりは体を起こした。

 寝癖のついた頭を洗面所で溶かし、うがいをして朝食へ。


 パンと目玉焼き、ベーコン。カフェオレが並ぶ。今日も朝食は美味しそうだ。


「美味しそー。いただきます」


 ひよりが食べ始めると、母親はコーヒーをもって対面に座り、テーブルへ肘をついた。


「学校はどう? 馴染めそう?」

「うん。なっちゃんもいるし、凛ちゃんって友達もできたよ」

「ごめんね。母さんの実家へ帰ることになって」

「ううん。わたし、この町すきだよ。あ、もうこんな時間!」


 ひよりはバタバタと自室へ戻った。

 学校指定のシャツとリボン、格子柄のスカート、緑色のブレザーを着て、慌ただしく鞄を手に取り玄関へ向かう。


「じゃあ、行ってくるね!」

「あ、ひより!」

「ん?」

「部活はどうするの?」

「オートレース部! じゃあね!」


 ひよりは笑顔を残し、玄関を飛び出した。


「オートレース部ねぇ……」


 そんなひよりを見送ったあと、母親は仏壇へ向かった。


「血は争えないね。お父さん」


 そして、父の遺影に微笑んだ。


 バス停へ向かうと、夏海がベンチで足をぶらぶらさせながら待っていた。


「おはよー!」

「おはよー。今日から本格的に授業たいね」

「えっ……ついに勉強が始まるんだ」

「言うても説明ばっかやけん。すぐ終わるばい」

「よかったぁ」


 話しているうちに、バスがカーブの向こうから姿を見せた。

 二人は乗り込み、いつもより少しざわついた車内に揺られて学校へ向かう。


 菊馬高校前に着いて降りると、ちょうど凛が校門へ向かって歩いていた。


「おはよー凛ちゃん!」

「ひよりちゃん、おはよう。夏海ちゃんも」

「おはよー」


 三人は自然と横一列になり、他の生徒たちと同じようにゆっくり校舎へ向かう。


「そうだ、猫の名前は?」

「んー……まだ決まらんとよ。ひよりんは悩むタイプやけんね」

「うっ……図星」

「黒猫ちゃんだったわよね」

「うん。だから余計に迷ってて」

「普通に“クロ”でよかろもん」

「普通すぎるよ!」

「じゃあ……タンゴとかどう?」

「タンゴ?」

「黒猫のタンゴ、って歌あるでしょ」

「懐かしい……でも可愛いわね、それ」

「黒猫のタンゴ〜♪ タンゴ〜♪」

「僕の恋人は黒い猫〜♪」

「歌うな歌うな。朝から元気ねぇ、二人とも」

「えへへ……じゃあ、タンゴにする!」

「決まりやね」


 名前がつくだけで、子猫の姿が昨日より近く感じる。

 三人は軽い足取りで校舎の階段を上がっていった。


 ホームルームが始まり、次々と先生たちが自己紹介と授業の説明をしていく。

 プリントの束が机に積まれていくたび、ひよりの肩がゆっくり沈んでいった。


「……ふえぇ……」


 午前中が終わる直前には、もう机に突っ伏していた。


「ひよりん、ご飯いくばい」

「……いく……」


 顔だけ上げたひよりのほっぺがプリントの跡で格子柄になっている。


「りんりーん! ご飯行こうばい!」

「り、りんりんって……その……」

「よかよか。友達やけん」


 夏海に呼ばれ、凛は小さく息を整えてから席を立つ。

 頬がほんのり赤い。


「ひよりちゃん、大丈夫?」

「プリントと仲良くしてた……」

「お昼食べれば元気になるばい。学食いこ」


 三人は人の流れに混ざり、学食へ向かった。

 窓から差し込む昼の光に、ひよりの目がやっとまともな明るさを取り戻す。


 学食はオーソドックスな定食が食券機でえらべた。その中で、見慣れないものをひよりが見つける。


「ねえ、タイピーエン? ってなに?」

「ひよりんも、りんりんも知らんとね?」

「知らないわ」

「うん……」

「なら、食べてみるとよか。うまかばい」


 夏海におされ、二人はタイピーエン定食を選ぶ。

 タイピーエンとは、熊本県の郷土料理で、春雨とたっぷりの野菜や肉、エビなどが入った中華風のスープだ。


「美味しそう」

「うまかよー」

「体に良さそうね」


 白米とタイピーエン、漬物に唐揚げが二個ついている定食は、ボリュームもたっぷりだ。


 タイピーエンを口へ運ぶと、旨味の溶け込んだ中華スープが沁みる。


「おいしー!」

「やろ? 地元民はみんなこれば選んどるけん」


 凛が辺りを見渡すと、たしかにタイピーエン定食を選んでいる生徒が多数いた。


「ねえ、食べ終わったら屋上へ行かない?」

「よかねー。食休みたい」

「うん。そーだねー」


 三人は昼食を終え、屋上へ向かった。

 屋上にはチラホラとクラスメイトの姿もあった。


 屋上へ着いた三人は、オートレース練習場を見る。


「すごいお金かけてるよね」


 真新しい建物の外観が遠くに見える。ひよりは感心したように呟いた。


「誘致に成功しとるけん、協会がほとんど出してくれとるばい」

「ほぇー」

「これで女子のプロレーサーが増えて、オートレースが盛り上がるんなら安い買い物なのかもね」

「たくさん入部するかなあ?」

「どぎゃんだろか。いうてもバイクやし、女子限定ばい。やりたがる人はそぎゃんおらん」

「主に都会の方だからね。東京、大阪、福岡……選手を目指す人はそっちに行くわね」

「まあ、うちらが全国制覇すればよか話たい」

「まずはCランク試験ね」

「試験があるの?」

「レースに出れる最低限の資格よ。それをとらなきゃ話にならないわよ」

「ふぇぇ……」

「かるーく突破して、みんなでSランクば目指すばい!」

「ふふっ。意気込みだけはSランクね」

「なんでも気持ちばい! そろそろ教室に戻るたい」


 話し込んでいた三人の耳へ、予鈴が響く。

 教室へ戻ると、やがて授業が始まった。


 午後の授業は進み、午後三時にはすべての説明が終わった。


「さっ、入部届けば持って行こばい」

「うん!」

「上條先生、職員室かしら?」


 三人は鞄を持ち、職員室へ向かった。職員室では慌ただしく教師たちが動き回っている。


 新設校だけあり、まだオペレーションができていないのだろう。


「先生! 上條先生おるね?」


 夏海は入口に一番近い男性教師へ声をかけた。

 体育の授業について説明していた教師だった。


「ん? 上條先生なら、たぶん部室にいるぞ」

「部室ってどこにありますか?」

「体育館の裏手に各部活の部室があるだろ? そこだな」

「わかりました」


 体育教師から情報を得た凛は、二人を見回して頷いた。

 廊下を歩いていると、男女の声が飛び交っている。


 なんの部活にするか?

 どこの出身か?

 このあと遊ばないか?


 コミュニケーションをとる話題は尽きないようで、たくさんの生徒が廊下をうろうろしていた。

 皆が新たな高校生活へ胸を膨らませ、いちはやく充実させたいと動いている。


「なんか、新鮮でよかね」


 夏海はそんな光景をみて、嬉しそうに微笑んだ。


「だいたい小学校、中学校って同じメンツやったけん、面白か」

「凛ちゃんは中学校どうだった?」

「私はあんまり友達はいなかったかなぁ」

「美人がツンケンしとったら誰も近寄らんばい」

「ツンケンなんてしてませんー」

「あはは。高嶺の花ってやつだよ。きっと」


 からかわれた凛は頬を膨らませ、ひよりはすかさずフォローを入れた。

 そんなやりとりをしながら歩いていると、体育館の裏手にある部室へ辿り着く。


「オートレース部の部室はどれかね?」


 夏海はキョロキョロと見渡して、上條の姿を探した。

 すると凛は鼻をひくひくさせ、漂うオイルの匂いに気がついた。


「オイルの匂いがするわ。こっちよ」

「おー。わかるったい?」

「そりゃ、何年も触ってればね」


 中学時代の凛は東京の私有地でバイクの練習に明け暮れていた。

 整備も自分で行い、いちはやく活躍できるようにと準備していたらしい。


 匂いを頼りに部室へ向かうと、ガレージのようなスペースで上條がバイクの整備をしていた。


「上條先生!」

「ん? どうしたの?」


 作業着の袖をまくり、頬には黒いオイルが付いている。

 それでも不思議と、上條からは華やかな雰囲気がこぼれていた。


「あ、あの……私たち、入部したいんです」

「そっか。じゃあ、まず練習場へ行きなさい」

「練習場へ?」

「そこで適性検査をするわ。私はこれを仕上げてから向かう」

「わ、わかりました」

「あ、部員用の自転車があるから、それを使いなさい」

「はい……!」


 三人は顔を見合わせ、部室脇に立てかけてあった自転車に乗った。

 目指すは、山の中腹にある練習場だ。


「ぐ、ぐぬぬっ!」

「ほら、ひよりん。早よ来んねー」

「む、無理言わないでぇ!」


 坂は想像以上の急傾斜だった。

 途中で諦めて路肩に座り込む女子生徒が、すでに何人もいる。


「十人くらいは入部しそうね」

「ばってん、うちら以外はチャリ降りとるよ」

「この傾斜だもの。仕方ないわ」


 夏海と凛の背中は、あっという間に遠ざかっていった。

 ひよりは涙目になりながら、それでも足を止めない。


 カーブを抜けたときには、もう二人の姿は見えなくなっていた。


「ねえ、待たなくていいの?」

「よかよか。ひよりんなら、最後まで来るたい」

「……そうかしら」

「りんりんは、ひよりんのこと分かっとらんね。

 あの子、競争は苦手やけど……負けず嫌いたい」

「そうなんだ……」


 凛は振り返り、はるか後方を見た。

 ひよりが、顔を真っ赤にしてこちらへ向かってくるのが見える。


「……頑張って。ひよりちゃん」


 二人はそれきり振り返らず、先に練習場へ到着した。


 ◇


「ぐぬぬぅーーっ!」


 ひよりは震える脚に鞭を打ち、自転車を押し上げる。

 その横を、バイクを積んだ上條のトラックが並んだ。


「あら、まだこんなところにいたの?」

「す、すみません……でも、最後まで登りますから……」

「そう。無理だけはしないでね」


 上條はそう告げ、車を先へ走らせた。


 練習場へ着くと、夏海と凛が退屈そうに待っていた。

 出発から三十分ほど――二人は想定より早く着いていたらしい。


「お待たせ。バイク下ろすの、手伝ってくれる?」

「はい!」


 三人でトラックの荷台からバイクを下ろし、ガレージへ運ぶ。

 上條は腕時計に目を落とした。


「四時……そろそろかしら」


 ひよりを待たずに始めるのか、と二人は不安そうに顔を見合わせた。


「あの……ひよりん、まだ着いとらんけん……」

「もう少しだけ待てませんか?」


 願うように言う二人へ、上條はふわりと笑った。


「……そろそろよ。迎えに行きましょ」

「ーー!」


 入口まで歩いていくと、汗だくで自転車を漕ぐひよりの姿が見えた。


「ひよりん!」

「ひよりちゃん!」


 駆け寄る二人に、ひよりは自転車を降りてへたり込んだ。


「あはは……時間かかっちゃった」

「よかよか。よう頑張ったばい」

「ほんとに」


 三人の元へ近づいた上條が、軽く手を叩く。


「さ、行くわよ」

「あの……試験なら、少し休ませてからで……」

「私もお願いします」

「試験なら、もう終わったわよ」

「え?」


 上條に続いて歩くと、ガレージに磨かれた三台のバイクが並んでいた。


「試験はね、あの坂を“諦めずに”登ってくること。

 あなたたち以外に七人希望者がいたけど……全員、途中で降りたわ」


「……あんぐらいの坂、頑張れば登れるど?」

「そうでもないのよ。あれ、斜度十五%。女子にはきついわ」


 上條は真剣な表情で続けた。


「時間がかかってもいい。必死でも、不格好でもいい。

 一度決めた道を、自分の力で登ってくる人――私はそういう子を育てたいの」


 そして、ふっと表情をやわらかくした。


「三人とも、合格よ」


 ひよりは弾かれたように二人へ飛びついた。


「やったーー!!」

「ひよりん! 痛かって!」

「ちょっ……もう!」


 三人の喜ぶ声を聞きながら、上條は空を見上げた。


 ――今年の夏は、きっと暑くなるわね……と。

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