おーとぶ!
タカべ
第1話 青春、始まります!
「んー……今日も大自然だなあ」
住み慣れた都会を離れ、自然あふれる田舎町に越してきたのは最近だ。
春野ひよりは玄関を出ると、大きく背伸びをした。
山間のせいか、外はほんの少し肌寒い。
澄んだ空気は肺の奥まで冷やしてしまいそうで、ひよりは足早に歩き出した。
「バス停は……っと」
自宅を出て私道を進み、交差点を曲がった先にバス停はあった。
時刻表が貼り付けられた昔ながらの看板と、風雨にさらされ草臥れたベンチがある。
バスは一時間に一本。それも、最終時刻は夜の七時。
「乗り遅れたら大変だなぁ」
なにかしらの部活に入ろうと考えていたひよりは、乗り遅れたら二キロの道のりを歩かなければならないと、かすかに不安を抱いた。
外灯もない。それどころか、ガードレールすらない道路。
暗がりを歩くには心許ない。
「しっかり覚えとこ……」
「あれっ……もしかして、ひよりん?」
「なっちゃん?」
「やっぱ、ひよりんばい! 久しぶりねぇ」
「なっちゃんだーっ! やっと会えたっ」
二人は両手を合わせ、久しぶりの再会を喜んだ。
石川夏海は、ひよりの自宅から三件先にある場所に住んでいたが、今日まで顔を合わせることはなかった。
「どっか行ってたの?」
「あー、卒業旅行してたとよ。友達と長崎に行っとったばい」
「長崎かぁ。私、行ったことないなぁ」
「ちゃんぽんが美味かばい。ばってん、一番は中華街がよかったと」
「そうなんだ〜」
そんな話をしていると、小さなバスが遠くからやってきた。
マイクロバスより一回り大きい青いバスには、誰も乗っていない。
「貸切だねー」
「いつもこんなもんばい。みんな車ばもっとるけん」
「そっかー。電車もないもんね」
「電車に乗りたかなら、植木駅まで行かんとしゃが乗れん」
「くまもんに会いたいのにー」
「あいつは熊本にあんまりおらんばい」
「くまもんなのに?」
「裏切りもんばい」
「あははっ」
バスは二人を乗せて町を走った。右手側の大きな川は、透き通って川底の石まで見える。
夏になったら泳ぎたいな、とひよりは考えていた。
そんな彼女をしりめに、夏海は鞄からラップに包まれた食べ物を取り出した。
「それ、おにぎり?」
「ちがうばい。ダゴ」
「ダゴ?」
「いきなりダゴ。食うね?」
「いいの?」
「いっぱいあるけん」
そう言われて鞄をのぞきこむと、ぎっしり詰め込まれていた。
ひとつ受け取ったひよりは、ラップを剥いで口へ運ぶ。
小麦の香り、塩の味、そして中に潜んでいたさつまいも。
それらが口の中でまざり、素朴な味が広がった。
「おいしー」
「うまかど? あんこも入れたりするばってん、うちは芋だけでよか」
「あんこも食べてみたいなー」
「ばーちゃんに言うとくけん、今度食べにくっとよか」
「うん!」
二人が食べ終えたころ、バスは二つの地区を超えて高校の近くへ到着した。
『次は〜菊馬高校前〜菊馬高校前でございます』
バス停へ降りたひよりは、商店街らしき場所を興味深そうに眺めた。
「お店、何個かあるんだねー」
「浅山ストアと、舘野スポーツ、美容室ぐらいしかなかけん」
「そっかー。カフェとかは?」
「そぎゃんもんはなか。大山食堂ならギャーいった先にあるばい」
「ぎゃー?」
「ぎゃーいって、ぎゃーいって、ぎゃーたい」
「なにそれ。あははっ」
ひよりが笑うと、夏海はため息をついた。そんなことでは、熊本で道を聞いても目的地へ辿り着けないと。
「ぎゃーがぼちぼち進んで、ぎゃっ、がすぐ、ぎゃーんはけっこう遠い」
「それ、伝わるの?」
「熊本ではね」
「私、自信ないなぁ」
「そのうち慣れるばい。お、見えたとよ」
商店街から細道を抜けていくと、真新しい校舎が視界に飛び込んできた。
都会と比べれば小さいが、このあたりではひときわ大きい。
「本当に高校ができたんだねぇ」
「もともと中学校だったばい。それば改装しただけ」
「え、じゃあもともとの中学校は?」
「小中一貫の学校が山の上にあるばい」
「そんなに子どもいないの?」
「おらんおらん。住むところはあっても働き場所もなか田舎ばい」
「だから町おこしなのかぁ」
「新しい町長がやりてやけんね」
二人は校舎を見上げながら、これから始まる高校生活を想像していた。
「ねえ、あなたたち」
すると、背後から声をかけられた。振り返った先には、春風に長い黒髪を揺らし、悠然と佇む生徒の姿があった。
「あなたは?」
「私は黒崎凛。新入生よ」
「わたしは春野ひより」
「うちは石川夏海。で、どぎゃんした?」
簡単な自己紹介をしたあと、夏海は凛へ問いかけた。
凛は少し困ったように、学校から三十メートルほど離れた用水路へ来てほしいと伝える。
二人がついていくと、子猫が用水路に落ちていた。
一メートルほどの深さで悲しそうに鳴く子猫を見つけ、どうしようかと悩んでいたようだ。
「ありゃー。落っこちとるね」
「そうなの。助けてあげたいんだけど、水も流れているし、入学式があるじゃない?」
「ばってん、誰か呼ぶにしても……」
「えいっ!」
「ひよりん!?」
夏海と凛が悩みをよそに、ひよりは迷わず用水路へ飛び降りた。
くるぶしの高さを流れる水が、ひよりの真新しいローファーと靴下を濡らす。
「なっちゃん!」
「うしっ!」
ひよりは子猫を掴み、夏海へと手渡した。
夏海は制服の袖とシャツを濡らしたが、気にするそぶりはなく鞄からタオルを取り出した。
「よーしよし。今拭いてやるけんね」
「あなたたち……」
凛は二人の行動に感動していた。同時に、制服が汚れるなんて小さなことを気にしていた自分を恥じた。
「ねえ……上がれないー!」
用水路から這いあがろうとするひよりへ、凛は迷わず手を差し出した。
「あ、ありがとーっ!」
「ううん。いいの」
「ごめん! シャツが……」
「気にしないで。あなたの方がよっぽど酷いわ」
汚れていたひよりの手が、シャツに色をつけた。
しかし、凛は微笑んでハンカチを取り出し、ひよりの制服についた泥を拭いていく。
「やばっ! 時間がやばか!」
「入学式!!」
「いそぎましょ!」
三人は子猫を抱えたまま、急いで体育館へ向かった。
幸い、入学式が始まる時間には間に合い、事前に知らされていたクラスの列へ急ぐ。
濡れているひよりの足が体育館に跡を残す。
さすがにこれでは入学式を受けづらいな、と考えていたやさき、女性教師が慌てて駆け寄った。
「ずぶ濡れじゃない! そして猫!」
「あ……」
「猫は預かっておくから、裸足で座っておきなさい」
女性教師は猫を抱え、体育館の外へ歩いていった。
ひよりは靴下を脱ぎ、夏海のタオルで足を拭いた。
やがて入学式が始まり、校長の長い話が続く。
足先が冷えるのか、ひよりはモジモジしていた。
「では、C組は私に着いてきてください」
さきほどの女教師が自分たちの列の前に立ち、全員の起立を促す。
生徒たちは教師に連れられて、これから一年間を過ごす教室へ着いた。
「さて、私は上條由紀。これから一年、あなたたちの担任を務めます」
ウェーブのかかった藍色の髪を揺らし、入口に近い生徒へ視線を移した上條は、自己紹介を順番に行うように指示をした。
「あ、相田雅美です……出身は……」
次は夏海の番だった。
「石川夏海ばい。菊馬うまれ、菊馬育ち。よろしく!」
そして、あいうえお順に自己紹介がすすみ、凛の番が訪れた。
「黒崎凛です。出身は東京。オートレース部へ入るためにこの高校を受けました」
「久しぶりねぇ、黒崎さん。ご無沙汰しています」
上條は凛と面識があるようだった。
ひよりはそんな二人をみながら、オートレース部ってなんだろう? と考えていた。
そして、ひよりの番が訪れる。
「春野ひよりです。仲良くしてください」
クラスメイト四十人の自己紹介がおわり、にわかに騒がしくなる教室。
そんな生徒たちを見渡し、上條はひとつ手を叩いて注目を集める。
「はい。静かにー。じゃあ、今日の流れだけど、このあとは校内をまわって施設の紹介をします。それが終わったら解散です。では、行きましょう」
ぱらぱらと立ち上がり、生徒たちは上條に続いた。
ひよりが立ち上がるころ、夏海と凛が近づいてくる。
「凛ちゃんも、なっちゃんも同じクラスだねぇ」
「こぎゃん偶然も珍しかね」
「そうね。これからよろしくね」
三人は笑顔を交わし、すでに廊下を歩き出していたクラスメイトの後に続いた。
図書室、美術室、音楽室など、これから授業に関係のある教室をまわっていく。
最後に案内されたのは屋上だった。
「みなさん、アレが見えますか?」
学校の目の前の道を視線で追うと、山の中腹にある施設へ辿り着く。
「野球場かなんかですか?」
男子生徒が問いかけると、上條は静かに首を振った。
「アマチュア女子オートレース場よ」
「マジかよ……」
「噂は本当だったのか……」
「すごい……」
クラスメイトたちの驚きをよそに、ひよりは困惑していた。
夏海と凛を見ると、二人の瞳はキラキラと輝いていた。
「あればい。あれがうちの人生ばかえるけん」
「なっちゃん、オートレース部にはいるの?」
「もちろんばい! そのためにここば受けたけん!」
「凛ちゃんも?」
「そうよ。私はこの町を全国へ……いえ、世界へ連れていくためにここへ来たのよ」
「世界……」
二人との温度差を感じ、凛は言葉を呑み込んだ。
オートレース部、世界、女子高生。
その三つが合わさったものが、いま世界中で人気のあるコンテンツだと、ひよりは知らなかった。
クラスへ戻りこの日は解散となった。
説明会を終えていた保護者たちは、先に帰ると伝えて帰っていく。
ひより、夏海、凛の三人は、どこかでお茶でもしようと考えた。
しかし、それらしいものは見当たらない。
「ちょっと歩くばってん、川の向こうに駄菓子屋があるばい。そこなら中で駄菓子ば食いながら話せるけん」
「そんな店があるんだぁ」
「駄菓子屋……行ったことないわ」
「じゃあ、そこにするけん、早よいこばい!」
「あ、待ってよー」
「せっかちね」
夏海は鞄を肩にかけ、二人を置いて駆け出した。
その背中にため息をつき顔を見合わせたひよりと凛は、仕方なくペースをあわせた。
名もなき橋をわたり、住宅街を進んでいくと、今にも崩れそうな古民家へ辿り着いた。
「おばちゃん! よか?」
一見、ただの古民家だった。
看板もなく、地元民以外は知らないだろう。
立て付けの悪い引き戸をあけると、呼び鈴が鳴る。
しかし、誰も姿を現さない。
「誰もいないのかな?」
「おるばい。たぶん、裏でなんかしよる」
「セキュリティー大丈夫なの? これで」
「知らん。万引きやらするやつは目立つけんね。だいたい決まったやつたい」
「それはやられっぱなしなの?」
「そぎゃんこつするやつは……まあ、よか。言ってもしょんなか」
三人が話し込んでいると、奥から初老の女性が現れた。
「あら、夏海ちゃん。久しぶりねえ」
「この前チャリで来たたい」
「あー、冬ごろやったかね?」
「そうそう。お年玉ばもろたあと」
「マナカちゃん、元気しとっと?」
「んー、まあ、元気にゃしとる」
店主と夏海の話は終わりそうになく、凛とひよりは店内を見て回った。
古民家の土間に商品棚がおかれ、その上に多種多様な駄菓子が並んでいる。
「これ、10円だって」
「すごい色ね。こっちは30円よ」
「面白いねー駄菓子屋って」
「ひよりちゃんは何にするの?」
「私はこれとこれかなぁ」
「んー、じゃあ私はこれかな」
「それもいいねー」
都会育ちの二人は、駄菓子屋が物珍しくはしゃぐ。
やがて話を終えた夏海が近寄る。
「決まったね?」
「うん!」
「私も」
夏海は買うものが決まっているのか、迷わず商品を手に取る。
会計をすませ、店内にある年季の入ったテーブルへ。
黄色いコンテナを逆さにして座布団を置かれた椅子に座り、三人は駄菓子とジュースで乾杯した。
「かんぱーい!」
缶ジュースをあけ、三人は駄菓子を摘んで乾杯した。
チョコレートの駄菓子を口へ流し込みながら、夏海は凛に問いかける。
「そういえば、なんでここに来たと? 東京にもあるど?」
凛は口の中に残っていたグミを呑み込む。
「……上條さ……先生に出会ったからよ」
「上條先生がどうしたの?」
「あの人は、女子のプロオートレーサーだったの」
「プロ!? すごい!」
「そぎゃん人が、なんでこぎゃん田舎で教師ばしよると?」
「事故でね。大怪我をして、昔みたいに指先が動かないのよ」
「レース中の事故?」
「ううん。私が中学一年生のころ、居眠り運転の車が信号無視をしてね。庇ってくれたのが上條先生なの」
過去を思い出し、凛の右手に力が入る。
サイダーの缶が指の形にへこんだ。
「そんなことがあったんだね」
ひよりはいたたまれなくなり、視線をテーブルへ落とした。
「ふーん。色々あるとねー。ばってん、生きとって良かったたい」
「……そうね。でも、私があの人の夢を奪ってしまったから」
「償いでこっちにきたと?」
「うん」
「かーっ! 律儀な女たい」
まるで酒をあおるように、夏海は手にしていたコーラを一気に飲み干した。
そして、凛の右手を力強く掴む。
「なら、うちらで夢ば見さすけん」
「そうね。頑張りましょう」
二人は固い握手をかわしたあと、ひよりへ視線を移した。
「えーと……その前に、オートレースってなに?」
「そっからつたい……」
あはは、と苦笑したひよりへ、夏海はスマホを取り出して動画を見せた。
それはプロのオートレースだった。
唸るエンジン、競り合い、抜き去る姿。
観客の声、そして映し出される配当。
「え、ギャンブルなの?」
「そうばい。公営ギャンブルのひとつ。それがオートレースたい」
「ただ、なかなか人気がでないの」
「そこで協会が色んな県や市町村と話し合って、アマチュアオートレースを立ち上げたと」
次の動画は、アマチュア女子オートレースの映像だった。
プロより一回り小さなバイクに乗り、女子たちが颯爽と走っている。
観客はいるが、若い男性や女性の姿が多かった。
「アマチュア女子オートレースはね、オートレース人気に火をつけるための競技なの」
「そ。誰も金ばかけとらん」
「ランクで乗るバイクの排気量もかわるから、競技として人気なのよ」
凛はSNSをひらき、アマチュア女子オートレースの話題を開いてみせた。
今どきの女子高生たちが、真剣な顔で整備をしている様子、レースに勝って喜んでいる姿などが表示される。
「競技かぁ……やっぱり、怪我とかするのかな?」
「そりゃ、ね。転んだりもするし」
「怪我せん競技なんかなかよ」
「……わたしにもできるかなぁ?」
ひよりがぽつりと呟いた。夏海と凛は顔を見合わせ、にやりと笑う。
「できるばい! うちも初心者たい」
「私も教えるし、上條先生も教えてくれるわ」
「そっかぁ。やってみようかな?」
「そうばい。チャレンジあるのみたい」
「ひよりちゃんも一緒なら、もっと楽しくなりそうね」
ひよりはこんな風に友達と部活をしたことがなかった。運動神経に自信はなく、争いごとは嫌いだ。
けれど、二人ともっと一緒になにかしたいと思っていた。
三人が盛り上がっていると、凛のスマホが鳴った。
「上條先生?」
凛はひよりと夏海へ静かにしろと人差し指をたて、電話にでる。
すると開口一番、上條の怒号が鼓膜を揺らした。
「子猫どーするのよ! あんたら!」
「あっ……」
「今どこにいるの!?」
「川向こうの駄菓子屋です……」
「すぐ行くわ! 待ってなさい!」
電話がきれたあと、凛は子猫のことを二人へ伝える。
すっかり忘れていた、と大袈裟なリアクションをしたひよりと夏海は、どちらが飼うか話し合った。
「うちはもう猫がおるけん。馴染めるかわからんたい」
「わたしはお母さんに聞いてみないと……」
「よかよか。ダメならうちに連れていくけん。試しに連れて帰ったらよか」
「そうだね。猫さん、可愛いもんね!」
「いいなぁ。私も寮じゃなかったら飼うんだけど」
「寮てどこね?」
「商店街の近くよ」
「あー、あの辺ね。中学校の寮があったとこたい」
「寮生活かー。楽しいのかなぁ?」
「ほとんどひとり暮らしみたいなものよ。寮母さんはいるけど」
「今度あそびにいくね!」
「ええ。何もないけど」
ほどなくして、スポーツカーが店の前に到着した。
それから降りてきた上條は、怒りをあらわにして三人を呼んだ。
「あんたたち! 出てきなさい!」
「はい……」
恐々としながら店を出た三人は、上條が抱えている段ボールを覗き込む。
その中には子猫がすやすやと眠っていた。
「可愛いねぇ」
「うん」
「うちも、もう一匹……」
「可愛いねぇーじゃないわよ。あんたたち、責任ってもんを考えなさいよ」
「すみませんでした……」
ひよりが頭を下げ、次いで夏海と凛も謝罪した。
「で? 誰か飼うの? それとも里親を探す?」
上條はため息をついたあと、子猫をどうするのかと訊ねた。
ひよりは夏海と凛を見回したあと、段ボールをそっと受け取る。
「わたしが飼います」
「そっか。学校へはどうやってきたの? バス?」
「はい。お母さんに送ってもらう予定だったんですけど、どうしても仕事で行けないからって」
「うちはばーちゃんしかおらんけん、バスできたばい」
「私は寮なので、歩きです」
上條は少し考えたあと、車のドアを開けた。
「乗りなさい。今日は送っていくわ。子猫を抱えてバスに乗れないでしょ」
「いいんですか?」
「入学祝いってとこね。サービスよ」
「ありがとうございます!」
三人は上條の車へ乗り込んだが、車内は思ったより狭かった。
「黒崎さんから送るわね」
「はい」
上條はハンドルを握り、エンジンをかける。スポーツカー特有の低い音が、お腹の奥まで響いてきた。
助手席にはひより、後部座席に凛と夏海を乗せ、上條は田舎道を走る。
凛が住んでいる寮には、ものの数分で到着した。
「ありがとうございました」
「また明日ね」
凛を降ろし、上條はひより達の住む地区へ向かう。
「川長地区よね?」
「はい。この道ばぎゃーん行ってください」
「オッケー」
「先生、ぎゃーんってわかるんですね」
「一年ちょっと経つからね。最初は何言ってんだろ? って思ってたわ」
「あははっ」
「そぎゃんおかしかですか?」
「おかしいっていうより、不思議かな」
夏海が笑いながら言ったそのとき、膝の上の段ボールがもぞっと揺れた。
ひよりはそっとフタを開け、中を覗く。
「……起きた? ねぇ、動いたよ」
「ほんとだ。可愛い〜」
「でも揺らさんごとせんといかんよ」
上條もちらりとミラー越しに見て、口元を緩める。
「その子、病院は行ったの?」
「まだです。拾ってすぐで……」
「じゃあ帰ったら、お母さんと相談して決めなさい。野良は体調わからないから」
「はい」
徐々に家並みが少なくなり、田んぼが左右に広がりはじめる。夕方の光が水面に反射し、車内にも揺れるような明るさが差し込んだ。
「ひよりちゃんの家、この先を左?」
「あ、はい。そこです。もうすぐ見えます」
家が見えた瞬間、ひよりの膝で段ボールがまた小さく揺れた。
なぜかわからないけど、その動きだけで胸の奥がじんわり温かくなる。
「……帰ってきた、って感じするね」
「なんか、もう家族って顔しとるもん」
夏海が笑い、ひよりもつられて笑った。
車はゆっくりと停まり、エンジン音が消える。
ひよりは段ボールをしっかり抱え直し、深く息を吸った。
「先生……ほんとにありがとうございました」
「いいのよ。無事に連れて帰れたなら、それで」
上條が車に乗り込もうとしたとき、ひよりが小さく声をかけた。
「あの……オートレースって、わたしにもできますか?」
上條はドアに手をかけたまま振り返り、ほんの一瞬だけ考える。そして、柔らかく口元をゆるめた。
「できる・できないじゃないのよ。やりたいか、やりたくないか。それだけ」
「やりたいかどうか……」
ひよりは無意識に夏海へ視線を向ける。
「理由なんてなんでもいいわ。やらなきゃ、向いてるかどうかだってわからないでしょ?」
そう言って、上條は軽く手を振り、車へ乗り込んだ。ドアが閉まる音が、ひよりの胸に静かに落ちる。
「なっちゃん……」
「なんね?」
「わたしも、やってみる。オートレース」
「そら、よかばい。一緒に楽しんでいこ」
夏海は嬉しそうに目を細める。
「じゃ、また明日」
「うん。またね」
二人はそれぞれの家へ歩き出した。夜風が制服の裾を揺らし、さっき聞いたエンジン音だけが耳に残っていた。
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