暗闇のふたり

座椅子

暗闇のふたり

 ビルの高層階にあるバーの窓の外には、夜景が広がり、光の粒がゆっくりと瞬いていた。やわらかな照明と落ち着いた色のインテリアが、都会の喧騒から切り離された空間をそっと包み込む。


 窓際のソファ席は半ば個室のように仕切られていて、他の客の姿は見えない。小さく流れるジャズに紛れて、どこからか、グラスの触れ合う乾いた音が響いた。


 隣に座る彼女の細い指が、カクテルグラスを持ち上る。ゆっくりと口元へと運び、ふっくらとした唇をそっとつけて、一口含む。

 味わうように目を閉じると、白い喉がこくりと震える。それからゆっくりと目を開けて、小さなため息を落とした。


「……おいしい」


 頬にはほのかな紅が差し、長い睫毛に縁取られた瞳が潤む。グラス越しに見つめられると、胸の奥に静かな熱がじわりと灯る。

 彼女は微笑み、わずかに首を傾けた。


「こんなの、初めて飲んだ」


 その言葉は、心にまっすぐ落ちて、静かな炎になる。

 自分の顔が最も整って見えるように微調整しながら、やわらかく微笑んだ。


「それが好きなら、他のもかなり楽しめると思う。試してみる?」


 彼女はぱっと花が咲くように笑った。


「うん!」


 目尻がきゅっと下がると、あどけなさがいっそう際立つ。

 すぐにその笑みが、少し甘えるように形を変える。


「お酒詳しいのって……なんか、かっこいいよね」


 心をとろりと溶かすような甘い声が、鼓膜をぞくりと震わせる。

 この声をもっと聞いていたい。けれど、聞き続ければ理性の縁がすぐに崩れそうだ。


「お褒めに預かり光栄です、お嬢様」


 少しわざとらしく、芝居がかった口調で言うと、彼女がころころと笑った。透き通るような笑い声が、場の静けさに溶けて広がる。


「なあに、それ」


 一つの歪みもない、完璧な笑顔。見つめるだけで、身体の奥にゆっくり熱が満ちていく。


 どうしようもないほど、好みの顔立ちだった。

 角度ひとつで印象が変わるのに、どの瞬間も美しい。その均整の取れた輪郭を見るたび、胸の奥が静かにざわめく。


 今夜こそ、なんとしても彼女を落としたい。

 そのために大人びた余裕を保ちながら、酔いに溶けた情熱が少しだけ混ざるように、呼吸や仕草を整える。

 

 彼女へ視線だけを流し、わずかに挑発するように笑った。


「うちに、珍しい酒があるんだけど……」


 彼女の瞳がわずかに見開かれ、まつ毛がふるりと震える。


「ちょっと強いのとか、飲める?」


 彼女は目を伏せ、恥じらうように指先でグラスの縁をなぞる。


「私、けっこう酔っちゃうかもだけど……」


 その言葉を聞いて、喉がひくりと動いた。

 落ち着いた微笑みを崩さないまま、先を促すように彼女の反応を待つ。


 彼女は頬を染めて、ちらりと見上げてきた。

 不安と期待と、少し媚びるような気配が混じった表情。長いまつ毛が瞳に影を落とす。


「……でも、飲んでみたい」


 胸の奥の不安が溶けて、それと同時に静かな高揚がじわじわと満ちていく。

 それでも、表情だけは崩さない。


「うん、わかった」


 彼女は胸に手を当てる。

 その幼さの混じる仕草が、ひどく可愛らしかった。


 彼女の魅力が、AIによる微調整でつくられていることは理解している。


 表情や仕草──指先の角度、瞳孔の開き、息づかいのリズムに至るまで、AIで思考を拡張して、こちらの嗜好を計算している。全てが、相手に最適化された人格の演出。


 けれど、それでも構わない。

 “彼女”がどれだけ作りこまれたものだとしても、いま自分の望む通りに振る舞ってくれること、そしてこちらを見上げるその顔が美しいことに、変わりはない。


 ならば、それだけが確かで、信じられるものだ。


 カクテルを飲み干して立ち上がる。

 バーの自動会計をリモートで済ませながら、手を差し出した。


「おいで」


 彼女は一瞬だけためらうように手を見つめ、それからそっと伸ばした。


「……うん」


 触れた指先がかすかに震えた。

 やわらかく、しっとりとした温もりが伝わる。


 その感触だけで、抱き寄せたい、もっと触れたいという衝動が強まった。酔いが回って、情動の輪郭がいつもより少し荒くなっている自分を自覚する。


 しかし、情動に任せて踏み込みすぎれば、彼女がここでためらう可能性がある。

 今は急がず、流れを崩さない。そういう余裕をまとった、大人の男でいなければ。


 静かに意識を向けると、皮膚の下でマイクロチップが作動する。神経系が静かに整えられて、衝動を深いところに封じ込める。


 彼女の手を握るだけに留め、ゆっくりと立たせる。


「じゃあ、行こうか」


 彼女の手を引いてソファを離れ、そのまま店の出口へと向かった。

 バーテンダーが静かに微笑む。


「良い夜を」

 

 彼女は頬をさらに赤く染めて、目をそっと伏せた。


 バーを出ると、ガラス張りの通路には、冷えた夜気が満ちていた。手のひらの中の温もりが、寒さをほんの少しだけ忘れさせてくれる。


 エレベーターの前に並んで立つ。

 足元のライトが淡く灯り、床に二人の影が細く伸びた。


 彼女が呼吸するたびに、静かな間が生まれては消えていく。

 気まずくはない、甘い沈黙。胸の奥がそわそわと落ち着かないのに、そのざわめきすら心地いい。


「寒くない?」


 そっと問いかけると、彼女は肩をすくめるように微笑んだ。


「うん」


 返事をしながら、耳につけた小さなピアス型デバイスに触れる。

 白い首筋がわずかにしなり、淡い照明がその曲線をなぞる。細い鎖の先で揺らめく宝石が、彼女の横顔をいっそう繊細に見せていた。


 ふいに、彼女がちらりと見上げてきた。

 その一瞬の目線が、誘うように甘くて、けれどどこか少女のようで、胸が高鳴る。


「……やっぱり、寒いかも」


 その小さな呟きとともに、彼女がそっと腕を組んできた。胸のやわらかさと温もりが伝わり、思わず呼吸が浅くなる。


 心臓がばくばくと暴れ出す。

 血の巡りが一気に浮かび上がり、頬へ熱が押し寄せた。


 急いでチップを作動させて、神経の興奮を沈静化させるよう指示を送る。

 すぐに心拍が静かに整えられ、熱は深いところへと沈んでいった。


「そう。じゃあ、早く暖かいところ行こう」


 彼女は軽く頷き、少しだけ身を寄せてくる。

 温かい吐息が腕に当たり、抑えたはずの熱が再び胸の奥で脈打つ。


 ちょうどその時、エレベーターが到着した。

 開いたドアの中には誰もいない。

 間接照明に照らされた、静かな空間が広がっていた。


 二人で乗り込む。

 ドアが閉まり、エレベーターがゆっくりと降り始めた。


 外に広がる夜景が、窓越しにきらめいて流れていく。


「綺麗……」


 彼女がうっとりと呟き、肩にもたれかかってきた。

 小さな頭の温もりがそっと触れ、髪からふわりと淡い甘い香りが漂う。


 横目で彼女をそっと見る。

 彼女はすぐに気づいて、はにかむように微笑んだ。


 それから視線を伏せ、少し間を置いて、こちらを見上げてくる。


「……ねえ」


 甘く揺れた声。細められた目。艶めいた唇。

 誘っているように──キスを求めているように見える。


 けれど、ここで読み間違えるわけにはいかない。

 期待して踏み出して、拒まれるなんて、そんなみっともないことは絶対に避けたい。


 彼女のこれまでの言動、視線、距離感、身体接触の頻度──AIでそれらを即座に解析し、フィードバックを受ける。


 〈親密信号:受信〉

 〈拒絶リスク:低〉


 心の中でそっと安堵する。

 もちろん、確定ではない。AIが人間の曖昧さを完全には拾えないと、重々承知している。


 それでも──この確率なら、賭けるに値する。

 そう自分に言い聞かせ、わずかに残る不安を静かに沈めた。


 華奢な肩にそっと腕を回し、抱き寄せる。

 彼女は、ゆっくりと目を閉じた。


 そっとふたりの唇が近づく──その時、エレベーターが下から突き上げられたように大きく揺れた。


 一瞬、重力の感覚が失われ、脳がふわりと浮く。

 筋肉が反射的にこわばり、全身が固まった。

 

 次の瞬間、照明がふっと落ち、非常灯だけがぼんやりと周囲を照らした。


「やだっ……!」


 彼女が必死にしがみついてきた。

 腕や背に指先が食い込み、その震えが直接伝わってくる。


 やがて揺れが収まり、エレベーターは完全に静止した。

 心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。


 何が起きたのか把握しようと、インターネットにアクセスを試みる。

 しかし、視界の端に表示されるはずのインターフェースが、どこにも現れない。


 同時に、不安を鎮めるために神経系へ指令を送ろうとするが、皮膚の下にあるチップは沈黙したままだ。


 思わず息を止めた。

 自分の心臓の鼓動だけが、身体の中でひどく鮮明に響く。


 窓の外に広がる夜景からは、ひとつ、またひとつと明かりが消えて、街が闇に沈んでいく。


 停電だ。

 すなわち、建物からのワイヤレス給電も停止した。


 つまり──今の自分は、完全にスタンドアローン。


 一気に血の気が引き、指先が冷たくなる。

 生まれてこのかた、都市全域の停電など経験したことがない。何をすべきなのか、瞬時に判断がつかない。


「やだ! 落ちる! 死んじゃう!」


 彼女が突然叫び出し、床に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。呼吸は荒く、喉に引っかかるように乱れていた。


 咄嗟に、少しでも安心させようとして、そっと肩へ手を置いた。


「触らないでっ!」


 手をぴしゃりと振り払われた。


「……は?」


 思わず声が漏れた。

 理解が追いつかず、息の仕方を一瞬忘れる。


 差し伸べた手を、拒絶された。

 こちらだって不安でいっぱいなのに、それでも恐怖に震える彼女を落ち着かせようとしただけなのに。


 腹の底で何かがぐらりと煮え立つ。

 怒りが湧いた。激しい、どうしようもない怒り。


 だが、それを表に出すわけにはいかない。

 怒鳴れば、余裕のない男だと軽蔑される。みっともないと思われる。


 深呼吸して、必死に感情を押し込めようとする。

 けれど、怒りは皮膚の下で燻り続け、まったく収まる気配を見せない。


 いつもなら、神経系を制御して、一瞬で冷静になれるのに。感情がじりじりと燃え広がり、思考が侵食されていく。

 生まれて初めて味わう、衝動が自分の意志の外側に芽を出す感覚。このままでは自分の輪郭が崩れてしまいそうで、恐ろしい。


「もうやだ、怖い、なんなのこれ……」


 彼女はうずくまり、泣き始めた。

 しゃくりあげる声が胸に鋭く刺さる。


 慰めたほうがいいのかもしれない。

 けれど、触れればまた拒絶されるのではないかという予感が、手を伸ばす勇気を奪う。


 普段ならAIを使って、相手の内心を推測し、最適な対応を割り出せるのに。

 なのに、今は自分の判断だけで動くしかない。


 それが、ひどく怖い。


 そもそも彼女のために、ここまで神経をすり減らす必要があるのか──そんな不満すら頭をかすめる。こちらだって、今は余裕などない。


 深く息を吸って、拳を握りしめた。

 思い通りに制御できない、みっともない自分が、この暗闇の中でむき出しになっている。その事実に、さらに苛立ちが上乗せされていく。


 どうしたらいいかわからない。

 ただでさえ悪い状況なのに、思考と感情が絡まり合い、出口が見えない。


 途方に暮れて、ゆっくりと彼女から距離を取り、非常灯のそばに腰を下ろした。


 薄暗いエレベーターの中に、彼女のしゃくりあげる泣き声だけが響いた。そのたびに、空気がわずかに震える。


 デバイスは全て沈黙したまま。

 ネット接続も、AIの補助もない。

 暇を潰せるような娯楽も、一切ない。


 今ここにいるのは、自分と彼女だけだった。


 気まずい空気の中、泣き声を聞き続ける。

 薄い非常灯に照らされながら、ただ並んで座っていると、時間の感覚だけがゆっくり伸びていく。


 そのうち、不思議と不安や苛立ちが薄れていき、その奥から別の感情が顔をのぞかせる。

 なぜか、彼女がひどく不憫に思えてきた。


 ポケットに手を入れ、布の感触に触れる。

 取り出したのは、折りたたんだハンカチだった。


 彼女は涙を拭うこともせず、ただ頬を伝うに任せていた。肩が小刻みに揺れ、呼吸が震えるたびに頬が濡れていく。

 少しでも落ち着けるなら、この布切れでも役に立つかもしれない。


 でも、こういう時にどんな言葉をかけるべきか、まったくわからない。

 そもそも、渡すべきなのだろうか。使っていないとはいえ、他人のハンカチを差し出されること自体を不快に思う可能性だってある。


 いつもなら、AIが最適な選択肢を示してくれる。

 けれど──今は、自分の判断だけがすべてだ。


 ためらいを押し込めるように、肺の奥まで空気を吸い込んだ。息をゆっくり吐き出すと、わずかに手の震えが収まる。

 意を決して、そっとハンカチを差し出した。


「……これ、使って」


 出てきた声は、思っていたよりずっと硬かった。

 優しく渡したかったのに、ぶっきらぼうで、子供っぽくて、余裕の欠片もない。


 余計な親切をしたせいで、みっともない姿を晒してしまった。すぐに、後悔の波が押し寄せる。


 彼女はしゃくりあげたまま顔を上げ、じっとハンカチを見つめた。

 それから、何も言わずに受け取る。


 お礼の一言くらいあってもいいだろう。

 そう思った瞬間、胸の奥に苛立ちが広がる。


 しかし、口には出さない。いや、出せない。

 器の小さい男だと思われたら嫌だ。その一点が、喉元に引っかかって声を封じた。

 それに、この状況で一体どんな言葉が正しいのか、わからなかった。


 彼女は震える指でハンカチを目元に押し当てる。

 しばらくすると、泣き声は少しずつ静まっていった。


 エレベーター内には、二人の呼吸と、身じろぎのかすかな音だけが残る。


「暗いところが……怖いの」


 震える声で、彼女がぽつりと呟いた。


 沈黙が落ちる。

 返事をしなければいけないのだろうか。

 けれど、どう返すべきか、言葉がまったく浮かばない。


「……そうなんだ」


 ようやく口に出した言葉は、思った以上に薄っぺらかった。

 もっと気の利いた返しがあったはずなのに、咄嗟に頼りない言葉を返してしまった。自分の情けなさに、苛立ちが募る。


 けれど彼女は、ふっと小さく笑った。


「ずっと昔の人みたいで、おかしいでしょ?」


 そう言って、鼻を啜りながら、膝を抱え込むように座り直した。

 薄い非常灯の光が、揺れる影を足元に落とす。


 再び、静かな沈黙が訪れる。


 非常灯が彼女の横顔を照らし、うっすらと浮かび上がらせた。その輪郭を、ただ、ぼんやりと見つめる。


 気づけば、ふと口が動いていた。


「……父方の祖母の家はすごい田舎にあって。子供の頃は、Wi-Fiすらなかった」


 彼女が小さく身じろぎする。

 戸惑うように、わずかに息を吸い込む音がした。


 自分でも、なぜこの話を始めたのか理解できない。

 しかし言葉は止まらず、喉の奥からこぼれ落ちていく。


「祖母の家は古くて、とても広くて……それで、毎年、正月には親戚がみんな集まるんだ」


 彼女は相槌もなく、ただじっとこちらを見ている。

 興味があるのか、ないのか、それすら判断できない曖昧な反応。


 それが妙に腹立たしく、同時に焦りが胸をかすめる。このまま話を続けたら、変に思われるかもしれない。


 けれど、始めてしまったからには、もう戻れない。

 半ば開き直って、話を続ける。


「あれはいつだったかな。5歳? もう小学生だった気がするし、6歳? とにかく小さい時に、夜中にふと起きちゃったんだよね」


 言葉が乱れているのが、自分でもわかる。

 AIの補助がないだけで、こんなにも話すのが下手になるのか。まるで、幼い頃に戻ってしまったような、久しいもどかしさだった。


「お手洗いに行きたくなって。でも、親を起こすのは恥ずかしかったから、一人で行くことにしたんだ」


 話しているうちに、脳裏にあの日の光景が浮かんだ。


 急勾配の階段。踏むたびに、古い木の乾いた音がぎしりと響く。子供の小さな身体では心許なくて、一段ずつ慎重に体重を移した。裸足に触れた木は冷たく、冬の空気が板を通して染み込んでくるようだった。

 その感触を、今でも昨日のことのように思い出せる。


「階段を降りて……あ、寝てたのは二階だったんだけど。一階に降りたら、目の前に暗くて長い廊下が伸びてて」


 すぐ隣で、彼女が息を呑む。


「ネットもなかったし、AIにも頼れなくて……その時、初めて暗闇が怖いと思った」


 ふたりの間に静かな沈黙が落ちた。


「……それで?」


 急かすような声。

 何が言いたいのか理解できず、思考が止まる。


「何が?」


 問い返した瞬間、彼女の声がわずかに荒くなった。


「その後、どうなったの?」

「……いや、普通にお手洗いに行ったけど」


 途端に、彼女が鼻を鳴らした。


「なあんだ。つまんないの」


 子供のような、気遣いのかけらもない反応。

 せっかく思い出を引っぱり出して話したのに、その言い方はあんまりだ。


 ほんの少しの優しさも返せない、わがままな女。

 腹の底に、じりじりとした苛立ちが沈殿していく。


 彼女には、すでに、みっともないところを散々晒した。どうせ、彼女だってとっくに幻滅しているはずだ。

 ならば、この際どう思われても構わないから、文句の一つでも言ってやりたい。


「……あのさあ」


 その時だった。


「ありがとう」


 短い一言が静かに胸へ落ちた。

 虚を突かれて、二の句を継げず固まる。


 彼女はこちらを見ないまま、涙の余韻を含むくぐもった声で言う。


「ハンカチも。お話も。……私が安心するようにって、してくれたんでしょう」


 思わず視線が彼女の横顔に吸い寄せられる。


 果たして自分が本当にそう意図して行動したのか、自分でも判断がつかない。

 AIの補助なしでは、相手の思考はおろか、自分の感情すら曖昧で、うまく形にできない。


 けれど──彼女は、そう受け止めた。

 全ての輪郭が揺らぐ今、それだけが確かで、信じられるものだった。


 彼女が小さくため息をつく。


「いつ、復旧するのかな」


 ネットにも繋がらず、外の状況を知る手段がまったくない。停電なんてほとんど経験がなく、どれくらいで復旧するかなど見当もつかない。

 それに、彼女の前で良く見せようと必死に取り繕う気力も、もう残っていなかった。


「さあね」

「なあに、それ」


 そっけない返事が気に障ったのか、彼女の声にほんの小さな棘が混じり、呼吸がわずかに荒くなる。


「……ねえ、こっち来てよ」


 どこか命令めいた言い方に腹を立てながらも、言われた通り隣へ移動する。


 薄明かりの中、彼女が手探りでこちらの手を見つけて、そっと握ってくる。その指はひどく冷たかった。


「指、冷たい」

「うん、冷たいの」


 意味のないやりとり。

 それでも、その無意味さが温もりになって、心にじんわりと広がる。


 その理由ははっきりしない。

 それでも、今の自分にはそれで十分だった。


 指先を握り返すと、胸の中のざわめきが少しだけ落ち着く。彼女の手の冷たさと、自分の熱が混ざり合い、身体の輪郭がわずかに薄れていく。


 その時だった。


 遠くのビルに、ぱっと光が灯る。

 波紋のように明かりが広がり、街全体がゆっくりと息を吹き返していく。


「あ……」


 彼女の声が漏れる。


 次の瞬間、エレベーターの照明が点いた。

 振り向いた彼女の顔が、はっきりと見える。


 涙で濡れた瞳は赤く腫れ、心細さを隠すように、弱々しく睨みつけてくる。震える唇は、涙でリップが剥がれていた。

 怯えているのに、必死で平気なふりをしている子供のような表情。


 そして、その崩れた顔が──今日見たどの表情よりも、ひどく愛おしく思えた。

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暗闇のふたり 座椅子 @zaisu_desu

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