Chapter 1-2 羊飼いと番猫と
「よし、じゃあ行ってくるね。」
にこやかに祖父にそう告げると、少年は羊たちの放牧へと向かった。
少年の名はガニュメデス。
柔らかな金髪を風になびかせ、放牧地へと歩いていく。
羊たちの前には、クロと名付けられた黒猫が先導役を務めていた。
久しぶりの晴天となったこの日は、黒猫が拾われてからちょうど一週間が経っていた。
黒猫の足は驚異的なスピードで回復を見せ、すでに元通り歩けるようになっていた。
(クロはすごいな〜。初めてなのに、羊たちがみんな言うこと聞いてるよ。本当にペスカの代わりができそうだな、ははっ。)
そんなことを考えながら、ガニュメデスは先導する黒猫を見つめていた。
昨日までの雨で少し濡れた草原を、爽やかな風が駆け抜ける。
ガニュメデスはいつもの石の上に腰を下ろし、ぼんやりと羊たちを見つめた。
そして、傍らの草を一枚ちぎると、おもむろに口に当てた。
美しい草笛の音色が、風に乗って草原いっぱいに響いた。
その姿は、まるで絵画から抜け出したようだった。
金の髪が陽光を受けて輝き、頬をなでる風に微笑むその横顔は、
どこか神秘的なまでに美しかった。
草笛の音が風に溶けていく。
優しく、柔らかく、どこか懐かしい旋律だった。
黒猫はその音に耳を傾けながら、丸い背中を少しだけ伸ばした。
遠くの丘の上では、白い羊たちがのんびりと草を食んでいる。
彼らの間を抜ける風は心地よく、空気はどこまでも澄んでいた。
(平和だな……)
そんな顔をして、黒猫は目を細める。
大きく広がる青空の向こう――
ほんのわずかに黒い雲が混じっていることに、
ただ黒猫だけが気づいたように、少しだけ身を震わせた。
「クロ、今日は本当にいい子たちだね。昨日までは雨でみんな落ち着かなかったのに。」
ガニュメデスがそう声をかけると、黒猫はちらりと振り返って「みゃ」と短く鳴いた。
まるで“任せろ”と言っているようだった。
その姿にガニュメデスはふっと笑みをこぼす。
「君、本当に番猫になっちゃったね。」
吹き抜ける風が、二人の髪と毛を揺らす。
穏やかな陽射しの下、時間がゆっくりと流れていった。
「クロー! お昼食べよ!」
石の上に腰掛けて空を見つめていたガニュは、そう声をかけた。
「クロの好きな鮎の塩焼き、持ってきたよ。」
絵画から抜け出たような少年は、無邪気に笑う。
その時――ぽつり、と頬に何かが落ちた。
「……雨?」
ガニュメデスが空を見上げる。
さっきまで雲ひとつなかった空に、灰色の影が静かに広がっていく。
黒猫の耳がピクリと動いた。
羊たちがざわつき始め、数頭が落ち着かないように歩き回る。
風の匂いが変わった。
湿った草の香りに混じって、どこか“冷たい金属のような”においが漂う。
「……クロ?」
ガニュメデスの呼びかけに、黒猫は草原の先をじっと見つめたまま動かない。
その瞳の奥には、何かを“視ている”ような静けさがあった。
次の瞬間、稲妻が遠くの空を走った。
雷鳴はまだ聞こえない。
だが、風がわずかに逆流した。
黒猫の尻尾がふわりと膨らみ、低く唸るように声を上げる。
「みゃ゛……」
ガニュメデスは息を呑んだ。
見たことのない黒猫の表情だった。
黒猫は走り出し、羊たちの前で尻尾を振り鳴く。
「にゃーー! にゃにゃーーー!!」
羊たちは規則正しく、小屋へ向かって歩き出した。
「クロ……すごい……」
完全に羊たちを統制する黒猫の姿に、ガニュメデスはただ感嘆の息を漏らした。
「羊が1匹、羊が2匹、羊が——って、ちがーう! 一匹いない!? あっ、クロ!」
少年が叫ぶより早く、黒猫はすでに駆け出していた。
一匹の羊が、小屋とは反対側の川の方へ向かって歩いている。
「えっ……これ、ペスカの時と……」
嫌な記憶が、少年の脳裏をよぎった。
だが、優秀な番猫は群れから離れる羊の前へと回り込むと、
再び尻尾を揺らしながら鳴き叫んだ。
「みゃー! みゃみゃー! しゃーーー!!」
その声に応えるように、離れていた羊がぴたりと足を止める。
そして、まるで何かに導かれるように群れへと戻り、
他の羊たちと共に小屋の中へ入っていった。
まるで、見えない糸に操られているかのようだった。
「よかった……クロまでペスカみたいになるかと思って、心配しちゃったよ。」
全ての羊が小屋に入ったのを確認すると、少年は黒猫を抱き上げ、安堵の息を吐いた。
「みゃあ、みゃあ」
そう鳴く黒猫は、まるで——
“任せろって言ったろ?”
そう言いたげな顔をしていた。
だが、その瞳は静かに、草原の向こう——
まだ見ぬ川の方をじっと見つめていた。
翌朝、空はどんよりと灰色に沈んでいた。
昨日の雨は夜通し降り続き、まだ止む気配がない。
羊小屋の屋根を叩く雨音が、いつもより重く響いていた。
「クロ?」
窓の外を見つめる黒猫に、少年はそう声をかけた。
「みゃ?」
昨日あれほど活躍した黒猫は、いつもと変わらない表情で短く答える。
「今日も雨か〜。昨日、久しぶりに晴れたと思ったのになぁ。」
金髪の少年は、少し残念そうに黒猫を見つめた。
「にゃんにゃん」
不満げな少年に、黒猫は気まぐれに鳴いて返す。
その表情からは、何も読み取れない。
「とりあえず朝ごはん食べようか。食べたら小屋の掃除だね。
雨が降ると掃除がしにくいんだよなぁ……はぁ。」
少年は小さくため息をつきながらキッチンへ向かい、朝食の準備を始めた。
⸻
「さっ、掃除、掃除! って……クロ?」
朝食を片付け終えた少年は、黒猫の姿がいつの間にか消えていることに気づいた。
「あいつ、まさか掃除が嫌でどこか行っちゃったのか?
せっかく今日は市場で鮎を買おうと思ってたのに。」
そう呟きながら肩をすくめる少年。
「まあいっか。昨日は大活躍だったし、ご褒美あげないとね。」
その声に祖父が口を挟む。
「まったくお前は甘いな。たった一日働いただけのバカ猫に、ご褒美なんぞ十年早いわ!」
「でも昨日はすごかったんだよ?
初めてなのに、みんなクロの言うこと聞いてたんだよ?
本当にすごいと思う。ちゃんと躾けたら、ペスカの代わりになるって!」
「まったくガニュは本当に甘いな……。まあ、好きにしたらいい。」
呆れたように言うと、老人は杖をついて自室へと戻っていった。
⸻
「はぁ……クロ、どこ行ったんだろ。せっかく昨日すごかったのに、またおじいちゃんに嫌われちゃうよ……」
少年はそう呟きながら、羊小屋の掃除へと向かった。
⸻
そしてその頃、当の黒猫――クロは。
放牧地の奥、森との境にある川へと来ていた。
降り注ぐ雨の中、
その表情からは何も読み取れない。
ただ、周囲の空気がピリピリと張り詰めている。
「……ウンディーネーーーー!!!!」
黒猫は、雨音をかき消すように吠えるように叫んだ。
次の更新予定
ハイ・ファミリア Sora-Kurono @Soar-Kurono
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