Chapter 1-1 泥棒猫と羊飼い
「さーさー、いらっしゃい!」
ペールの村の市場は賑わっていた。
季節外れの暗雲に、どこか不安げに空を見上げる者たち。
それでも、今日も人々は食材を求めて集まる。
キラーン。
買い物客で賑わう中、黒い影がひとつ。
狙いを定めたかのように、店先の鮎へと身を躍らせ——
鮎を咥えると、そのまま駆け出した。
「えっ!?」
「猫?」
「待てごらーーー!!!」
呆気にとられる客たちを置き去りに、
店主が息を切らせて走り出す。
魚泥棒の黒猫を追いかけて——。
鮎を咥えた黒猫は、颯爽と駆け出した。
建物の隙間の小道へ、するりと急旋回。
「ふっ、所詮は田舎の魚屋。おれを捕まえるなんて——五百年早いぜ。」
そんな顔をしているかどうかは分からない。
だが、おそらくそんなドヤ顔をしながら、黒猫は軽やかに駆け続けた。
小道を抜け、大通りへ飛び出すその瞬間——
視界の端で、何かが小さく光った。
一歩先の足元。
そこには小さな陶器の破片。
当然のようにそれを避けようとした——はずだった。
しかし、なぜか足が間に合わない。
バキッ!
「にゃーーーーーー!!!!!」
鮎を口から離し、黒猫は絶叫した。
颯爽と逃げていた英雄は、たったひとつの破片を避けられず、地面をのたうちまわる。
黒猫は思った。
——なんで?
その理由を考えるより早く、激しい痛みが走った。
ふわっ。
のたうつ黒猫を、誰かが抱き上げた。
「君、怪我してるね。破片踏んじゃったんだ。猫のくせにドジだね、ふふっ。」
黒猫を抱き上げたのは、一人の少年だった。
やさしく微笑むその顔は、曇った空の下ではありえないほどに柔らかい光を帯びていた。
「にゃー! ぎゃー!! にゃーーー!!!」
「大丈夫。家で治療してあげるから、安心して。
あとね、鮎は生で食べるより塩焼きの方が美味しいよ?」
暴れる黒猫をなだめながら、少年は穏やかに笑った。
その笑顔は、暗い雲に覆われた空とは対照的に——
あまりにも温かく、慈愛に満ちていた。
黒猫をなだめた少年は、傍らに置いてあった買い物袋と──黒猫、そして猫が咥えていた鮎をまとめて抱え上げ、ゆっくりと歩き出した。
黒猫は、人の言葉が分かるかのように大人しく抱えられている。
「君は賢いんだね。でも、なんであんな破片を踏んじゃったのかな?」
少年は優しく微笑いながら、黒猫に話しかけた。
しばらく歩いて、少年の家に到着する。
「ただいま〜」
「おかえり。って、なんだその猫は?」
座っていた老人が黒猫を見て声を上げた。
「市場で見つけたんだ。壺の破片を踏んで怪我してたみたいで。ちょっと可哀想だったから手当してあげようと思って。それに、ちゃんと躾けたらペスカの代わりになるかなって」
少年は相変わらずの優しい笑みを湛えて言う。
「そんな破片も避けられないバカ猫が、ペスカの代わりになるか?」
老人は呆れ混じりに続ける。
「猫は賢いが、そんなドジ猫じゃあなぁ。」
「にゃーーー!! ぎゃーーー!!」
まるで老人の言葉が分かったかのように、黒猫が音量を上げて泣き叫ぶ。
「ははは、おじいちゃん、この子怒ってるよ。人の言葉が分かるみたいだし、賢いよこの子」
少年は笑いながら荷物を下ろし、黒猫の足を見て手当を始めた。
「ガニュは優しいな。 その猫は……まあ、ちゃんと治るまでは置いてやりなさい。ペスカの代わりになるかは分からんが、ならないなら山にでも捨てればいい」
老人は少し呆れたようにそう言うと、ガニュの買ってきた物を片付け始めた。
「さっ、終わり。」
黒猫の足に包帯を巻き終えると、ガニュと呼ばれた少年はそう言って黒猫を抱き上げた。
「しっかし君、ドジだよね〜。あの市場の魚屋さんから鮎を盗めるくらいなのに、あんな破片で怪我しちゃうなんて。
まぁ、おじいちゃんには“盗んだ魚”ってことは内緒にして、塩焼きにしてあげるね。」
にこやかにそう言うと、黒猫を抱き上げたままキッチンへと向かう少年。
「ニャーニャーーー!!」
「ドジって言われて怒っちゃった? ごめんごめん。君、やっぱり賢いよね。ペスカの代わりになってくれたら嬉しいな。」
少年は優しい笑みを浮かべながら、黒猫にそう語りかけた。
二人と一匹の夕食を作り終えると、少年は祖父を呼びに行った。
老人は足が不自由なのか、杖をつきながら食卓につく。
「ガニュ、その鮎はそのバカ猫の分か? まったく、お前は猫にもお人好しだな〜。」
呆れたように言う祖父に、
「シャーーーー!!!」
黒猫はまるで言葉が分かるかのように、牙をむいて威嚇した。
「おじいちゃん、この子、言葉分かるから。そういうこと言っちゃダメだよ。」
「ははは、言葉がわかるほど賢い猫が、道の破片で怪我なんかせんよ。
ペスカの代わりになるかは分からんが……まあ、難しいかもな、ははは!」
「こらこら、君もそんなに怒ってないで。冷めないうちに食べなよ。」
祖父の笑いに、黒猫はさらに怒ったように威嚇するが、
少年に宥められ、しぶしぶ鮎を食べ始めた。
「ちょっと待っててね。」
少年はそう言うと、黒猫をそっと抱き上げ、椅子の上に座らせた。
テキパキと夕食の後片付けをする少年の後ろ姿は、どこか楽しげに見えた。
「よしっと。お待たせ。」
片付けを終えた少年は、またあの優しい微笑みを浮かべ、黒猫を抱き上げて自室へと戻った。
ベッドの上で、少年は黒猫に語りかける。
「ペスカっていうのはね、ずっと僕と一緒に羊の番をしてくれてた犬なんだ。
一月前、はぐれた羊を追いかけて崖から落ちちゃって……死んじゃったんだ。
すごく賢くて、真面目な子だったんだよ。」
少し悲しげな表情で、少年は黒猫に語りかけた。
「もし君が、ペスカの代わりに——番犬、じゃなくて番猫? になってくれたら嬉しいな。」
そう語りかける少年に、黒猫はやはり言葉が分かるかのように、
「みゃん」
と鳴いて、そっぽを向いた。
「そっか。君は自由でいたいんだね……。
おじいちゃんが足を怪我してなければ、僕も村の外を見てみたいんだけどな。」
「ミャーン。」
少年の言葉に、黒猫は小さく振り返って鳴いた。
まるで本当に会話をしているかのようだった。
「あれ? 君、尻尾も怪我してない? なんか、尻尾の先が切れてない? 大丈夫?」
「みゃ!」
驚いたように鳴く黒猫に、少年は少し首をかしげる。
「うーん……もう治ってるのかな? まあ、もう遅いし、そろそろ寝ようか。」
優しい笑みを浮かべた少年は、黒猫を抱き上げ、そのまま布団に入った。
少年に抱かれた黒猫は、窓の外の星空を見つめていた。
雲の切れ間にのぞく星が、どこか遠い記憶のように滲んで見えた。
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