第3話

秋の始まりのことだった。平日のある日に、僕はユキをデートに誘った。車を運転し、湘南の海を観に行った。僕たちの出会いは海だったし、綺麗な海を眺めたくなった。ユキは颯爽とし、美しかった。彼女は社交界のことをあまり話題にしない。僕はアリスのことを想った。ユキだってきっと同じようなことをしているのだろう。その考えは、僕を暗い方向に導いた。

 しばらくすると、湘南の海に着いた。僕たちは海岸線を歩いた。向こうの方に、ファミリーレストランの赤い光があった。

「小説は順調。今年中に、初稿が上がると思う」

「是非、見せて欲しいね」

「分かったわ」

 夜だった。海はうねりを上げ、黒いダイヤモンドのように輝いている。風は強かった。風の音が、僕たちの耳に響いた。

「二十七歳のある日、演技が出来なくなったの」とユキは打ち明けた。僕はその言葉に驚いた。

「理由はよく分からない。とにかく、演技をしようと思っても、身体が上手く動かない。心因性のものと思い、私は心療内科を訪ねた。先生は親身になって、話を聴いて、私に『女優を辞めるように』と言った。その言葉は、私の深奥に刺さった。いろいろなことがストレスだったのよね。私は当時絶頂だったけど、女優を辞める決意をした」

「だけど、君は女優時代を完全に抜け出すことが出来ないでいる」

「社交界ね。私は未だに、社交界に参加し、数人の男性とデートしている。そのことを私は申し訳なく思っているわ」

「僕だって、ろくでもないことをしている」

「何?」

「アリスと二人で会った」

「良いわよ、そのくらい。私は社交界を抜け出せそうにもないし、あなたにもアドバンテージは必要だと思う」

「僕たちの関係は?」

「同居人で、恋人同士。ただ、私は一般の人とは違う」

「元女優の、小説家」

「その通り」

 車のテールランプが光っていた。僕たちは砂浜に降り、ベンチに座った。海の強い香りがした。僕はユキの肩に手を回し、大きく息をついた。ユキは僕の頬にキスをし、にっこり笑った。

「ずっと女優業をやっていくつもりだったわ。しかし、神様は違う道を私に準備した。私はその方向を見て、その道を辿り、未来へ行く。別に、嫌だったら、別れても良いのよ。あなたにはアリスがいることだし、私には社交界の男性たちがいる」

「君と一緒にいたい」

「しばらくはそうしましょう」とユキは言った。

 人けはなく、静かだった。僕はユキの顔を眺めた。ユキは目を細め、じっと海を見た。

「小説家になると、また世間の耳目を引くわ。私はその規模を予測できない。あなたは嫌になるかもしれないわね」

 僕は黙っていた。暗い空には、白い月が浮かび上がり、こうこうと輝きを放っている。僕たちの身体に、影をつくり出していた。

「帰ろう」と僕は言った。ユキはゆっくりと頷いた。僕たちはベンチを立って、車のところに戻り、海辺の町に帰った。

 白い屋敷に帰ると、僕たちは交代でシャワーを浴びた。時刻は夜の十時だった。その日、ベッドルームでユキは服を脱いだ。陶器のように美しい肌と、肉体の曲線。僕は彼女の身体に、夢中になった。

「私は不確かな女性なの」と彼女は言った。僕は彼女の身体に触り、大きく息をついた。

「一緒にいよう」僕は述べた。


「じゃあ、ユキさんは私とあなたの関係を許容したのですか?」とアリスは電話で尋ねた。僕は相槌を打った。

「変わっていますね。普通、怒りますよ。だけど、ユキさんが社交界で男性とデートしているのは、有名な話です。自分のことを棚に上げて、怒れないですよね。今度はどこに行きます? 私のアパートメントに来ますか?」

「遊びに行くよ。君はどこに住んでいるの?」

「渋谷です」と彼女は返事をした。

「街を散歩して、君のアパートメントに行こう」

「ちょうど行きたいレストランがあります。あなたもきっと、気に入ると思いますし、どうでしょうか?」

 良い話だった。僕は二つ返事をした。約束の日は、今週の土曜日になった。

「ところで、君は社交界に出ないの?」

「私は学生ですし、興味がないですね」

「そう」

 僕は電話を切った。そして、風呂に入り、一服した。僕の頭の中に、アリスの肢体があった。その肌は輝いたし、綺麗だった。

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楽園の向こう側 @uni30108

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