新しい協奏曲

増田朋美

新しい協奏曲

冬が近づいてきて、もう寒くなったなと思われる季節であった。そろそろ、厚物が必要になってきたねなんて、杉ちゃんたちは言い合っていたのであった。

お昼ご飯を食べ終えて、杉ちゃんたちが、ちょっと一息ついていると、

「こんにちは、右城先生いらっしゃいますか?」

不意に玄関先で声がしたので、杉ちゃんと水穂さんは顔を見合わせた。

「はい、どなたでしょうか?」

水穂さんがそう言うと、

「あの、桂です。ちょっと、教えてあげてほしい人がいますので、連れてまいりました。」

「よろしくお願いします。」

浩二くんといっしょに、若い男性の声がした。

「とりあえずお入りください。」

水穂さんがそう言うと、浩二くんと若い男性は、一緒に製鉄所に入ってきた。

「右城先生、彼の演奏を見てやってほしいです。名前は、佐藤龍太郎くんです。音楽学校を出たとか、そういうわけではないのですが、近場のアマチュアオーケストラと、協奏曲をやることになったので、一度見てやってください。」

浩二くんがそう説明すると、佐藤さんと言われた男性は、

「よろしくお願いします。」

と、頭を下げた。

「わかりました。曲は何を見れば良いのですか?」

水穂さんは、布団の上に座り直して、佐藤さんに聞いた。

「えーとこれです。」

佐藤さんが取り出した楽譜には、リストと作曲者名が書いてあった。しかもなかなか演奏されない、協奏曲3番と書かれていたから驚きだ。

「へえ、珍しい曲だなあ。リストの協奏曲なんて、物好きなオーケストラがいたもんだ。」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、

「確かに、めったに演奏されるものではありませんね。それに、晩年のリストの作品はキーも何もない状態で書かれたものが多いですからね。」

水穂さんは、珍しそうに言った。

「とりあえず、彼の演奏を聞いてやってください。協奏曲の中でも珍しい曲なので、絶対受けが良いと思うんです。」

浩二くんがそう言うので、まずは佐藤さんの演奏を聞いてみることにした。とりあえず、グロトリアンのピアノの前に座ってもらって、弾いてもらうことにした。佐藤さんは確かに、リストの協奏曲が弾けるくらいだから、演奏技術も素晴らしいのであるが、静かにピアノで歌うのではなく、ただけたたましく演奏しているだけであった。協奏曲3番は、比較的短い曲で、20分程度で終わる曲であるが、その中で、こんなふうにけたたましい演奏をされてはたまらないと言うくらいうるさい音楽になっていた。

「お話はわかりました。確かに、一生懸命努力されて頂いているのはよくわかります。リストなんて難易度の高い曲をよくやったなと思います。ですが、この様にずっと叩きつけられるように弾かれていて、ピアノで静かに聴かせるところもまったくない演奏では、ただ、演奏技術があるだけを見せびらかしているだけだと思います。それでは、聞いている方々も辛いでしょう。」

水穂さんは、正直に感想を言った。

「本当にすごい超絶技巧だなと言うのはわかるんですけど、でも、それだけがピアノを弾くことにはなりません。そうですね、オーケストラの人たちにも話をして、こんなけたたましい協奏曲ではなくて、もっと静かなものをやるようにしてもらってはいかがですか?」

「そうですね。」

と佐藤さんは、なるほどという顔で言った。

「それでは、先生。何を弾けば良いんでしょうね?他に何も思いつかないですよ。」

佐藤さんは、申し訳なさそうに言った。

「そんなに有名なものにこだわらなくても良いと思います。上品で静かなもので。格好つけて弾くものでもないですし。見せるものではありませんから、音楽が伝わればそれで良いんです。」

「そうですか。確かにうるさいだけでは何も変わりませんものね。それなら、僕も考え直してみます。確かにリストの協奏曲は、技巧的ではあるんですけど。それだけがすべてじゃありませんもんね。よかった、今日は、右城先生に聞いていただけて、自分の欠点というか、改善点を知ることができました。」

水穂さんがそう言うと、佐藤さんは、にこやかに笑ってそう言ってくれた。

「最近のクラシックは、派手な演奏ばかりが高評価されがちですが、意外にそうでもない曲を支持する方も居るんですよ。私達は、これだけすごいものがあるんだっていうところを見せるだけではなくて、その裏にある、静かさとか、そういう方を表現できると良いと思います。」

水穂さんは、静かに言った。

「そうだねえ。無理して派手なのやらなくてもいいのになあっていう人、いっぱいいるもんなあ。」

杉ちゃんもそう付け加えた。

「ありがとうございます。先生がそう指摘してくれなかったら、うるさい音楽しかできない演奏者になってたかも。曲は、また考え直してみようと思います。」

佐藤さんは、そう言って、水穂さんに丁寧に頭を下げた。

「そう言われたって、コンダクターにもちゃんと連絡しておきますよ。まだまだだめだけど、ちゃんとやろうって気持ちにもなれました。本当に良かった。ありがとうございました。」

「いいえ、良いんです。良い音楽作ってくださいね。楽しみにしてますよ。」

水穂さんはにこやかに笑って、佐藤さんを送り出したのであった。

それから数日後のことであった。水穂さんにレッスンしてもらって、演奏会を大成功させた佐藤さんを、客席で眺めていた女性、薮内真紀子は、佐藤さんが演奏を終えても拍手一つせず、

「あの野郎、うまくやったわね。ああして、レッスンしてもらって、得意な顔してるけど、全く、いい顔して妬ましいったらありゃしない。あんなアマチュアのオーケストラと、一緒にやってもたいしたことないって、自分の立場をわからせてやるわ。」

と、思わず呟いていた。それでは、と彼女はすぐ行動した。佐藤さんが、水穂さんにレッスンを受けたということは、佐藤さんが演奏会のフライヤーで公開していたため、彼女は磯野水穂さんという人物がどこにいるかをすぐ調べてしまった。特に調べることについては努力する必要なく見つかった。というのは、製鉄所を利用していた女性たちが、水穂さんという人物に感謝する記事を多数投稿していたためである。ネット社会は、こういうふうに、簡単に人が見つかってしまうものである。薮内真紀子は、製鉄所が静岡県の富士というところにあって、水穂さんがそこで間借りして暮らしていることを突き止めた。

そういうわけで、真紀子は、水穂さんに会いに行って、レッスンを受けることに決めた。製鉄所への行き方は、特に地図に記載されているわけではないけれど、すぐ見つけることができた。それほど、製鉄所の事を掲載している記事は多かったのである。ただ、なぜ、製鉄所というのかは、理解できなかったけれど。

真紀子は、車を運転して製鉄所ヘむかった。富士という街は、大きな山は富士山くらいなもので、比較的、アクセスしやすい街だった。製鉄所の位置関係を示すものはまったくなかったが、それでも車に乗れば行けてしまうのである。

ついた製鉄所は、なんだか鉄を作るところとは程遠く、日本旅館のような建物であった。なんだかよくわからないけれど、真紀子は入口の正門前に車を止めて、正門から製鉄所の中へ入った。

「こんにちは。あの、磯野水穂先生いらっしゃいますか。あたし、薮内真紀子と申します。先生にレッスンをお願いしたくてこちらに参りました。一度だけで良いですから、レッスンしていただけませんか?」

「はあ、なるほどねえ。」

応答した、杉ちゃんたちは、いきなりやってきた彼女に、変なやつだなと言う顔をしたが、

「まあレッスンしてくれと言って、押しかけてくるやつがたまにいるんだよな。良いよ。入れ。」

と、言って、彼女を建物の中に入れた。鶯張りの廊下は、歩くときゅきゅきゅと音を立てるので、なんだか変な音がするような気がした。

「おい、こいつがさ、演奏を見てほしいんだって。ちょっと、聞いてやってくれよ。」

杉ちゃんに言われて、水穂さんは正座の姿勢でピアノの前に座った。なんとも言えない、美しい人であった。とにかく、どこかの俳優さんで似たような顔の人物が居るのではないかと思われる、だけでは済まされない美しさ、多分、羽衣伝説の男性版があったらこうなるだろうなという顔つきであった。

「こんにちは。初めまして、私、薮内真紀子と言います。」

真紀子は、改めて水穂さんに頭を下げる。

「はあ、自己紹介などどうでも良いからさ。なんでも弾いてみな。水穂さんも、そんなに体力ある方じゃないぜ。」

杉ちゃんに言われて、真紀子は少し変な顔をしていった。

「そういうことでしたら、演奏させていただきますね。オーケストラの音源がありませんので、ソロの部分だけになってしまいますけど、リストの協奏曲です。」

真紀子は、ピアノの前に座って、リストのピアノ協奏曲2番を弾いた。確かに、演奏技術はちゃんとあり、演奏としてはちゃんとできているのであるが、どこか足りないというか、なにか心に響くものがないというか、そんな気がした。一言で言えば、けたたましいのであった。確かにリストという作曲家である以上、ある程度けたたましくなってしまうのは、仕方ないというか、避けられないのであるが、それを、苦労しているように聞かせないのもまた腕の見せどころと言える。

「そうですね。確かに、すごい技巧的な協奏曲であるから、女性が弾くと本当に苦労しますよね。」

水穂さんは、彼女の演奏を聞いて、そう彼女を評価した。

「だけど、それで男性のやってることを真似しなくてもいいと思うのですよ。敢えて、あなたがそういう技巧的な事をしなくてもね、それはできる人がやれば良いのではありませんか。あなたは、あなたができる協奏曲をやればそれで良いと思うんですよね。例えば、モーツァルトの協奏曲とか、そっちに生きがいを見出していったほうが良いと思いますよ。」

「まあなんですって!」

と、真紀子は怒りをこめていった。

「なんで私が、そんな簡単な曲で満足しなければならないんですか!」

「満足っていうか、簡単な曲なんてこの世にありませんよね。モーツァルトはモーツァルトで難しいところはありますし、リストはリストで難しいことがあると思います。それぞれ難しさが違うわけですから、モーツァルトでも、リストでも、同じくらいの価値はあると思いますよ。」

水穂さんはそういったのであるが、

「そんなこと、あたしみたいな人が、あんな簡単な作品でどうやって名を上げていけば良いのかしら。それに、リストみたいなすごいのをやらないと、あたしを売りに出すものがなくなるし。先生、簡単な曲で良いなんて言わないで、もっと、苦労するような曲を見ていただけませんか。あたし、楽譜だったらちゃんと用意しますし、共演者が必要だったら、それだってなんとかしますから。」

と、真紀子は言うのであった。

「だけど、けたたましい音色を聞かされても、きくがわも辛いだけだと思うんですよ。それなら、簡素であっても、余裕があって、堂々と弾ける曲のほうが良いのではありませんか。それに、あなたの良さまで、誤解されると思いますから、やめたほうが良いです。」

水穂さんは、彼女に向けてそういったのであった。

「あたしの良さって、リストが弾けることが良さではありませんか!」

真紀子はそういうのであるが、

「そうですね。僕からしてみたら、できないはずのリストの曲を無理やりやって、自分はこんなすごいのができるんだという虚栄心を満足させてるだけのように見えます。それだけでは、演奏は成立しませんよ。演奏というのは、見世物とは違うんですから。音楽は、派手な超絶技巧のようなものを、見せびらかすものではありませんよ。」

と、水穂さんは言った。

「そうだねえ。自分はこれだけできると見せびらかすものではないってことか。まあ女は、そういうところに引っかかりやすいが、演奏と、見世物は違うんだってことは、やめてもらわないとね。」

杉ちゃんも首をかしげながら言った。

「そういうことなら、水穂さんの言う通りにしたほうが良い。偉い医者がそう言ってたぜ。女性は男性の生き方を真似しないほうが良いよ。」

「何を言ってるんですか。あたしは、すごいものをやらなければ、演奏者として何もできないんです。それには、どうしてもリストを弾くのが必要なんですよ。それなのに、古臭いこと言って、女性は男性の生き方を真似しないほうが良いなんて、私のことばかにするようなこと言って、何を言うんですか!」

真紀子はあまりにもひどいことを言われたと思って、杉ちゃんたちに向かって、声を荒げていった。

「だけど、事実そうなんだよ。はっきり言っちゃえば、お前さんのリストの協奏曲は、ただうるさいだけで、何も効果ないよ。こないだ来た、頼りなさそうな男もそうだったよ。なんか無理して難曲弾くよりも、ちょうどいいのを演奏して行ったほうが良いんじゃないかって思っちゃったよ。」

「ああ、こないだの男って、佐藤龍太郎さんですよね?」

杉ちゃんがそう言うと真紀子はすぐ言った。

「そうだけど、彼にもおんなじこと言ったんだよね。やっぱりさ、最近の若いやつは、超絶技巧というか、すごいものにこだわり過ぎなんだ。そんな苦労するような演奏を誰も望んでなんかいないよ。それを気付いてさ、もう少し、楽な協奏曲をやったらどうなの?」

杉ちゃんは、でかい声でそういったのであるが、

「あたしは、そういう曲やらないと、だめなんです。他の人にできない、すごいものをやらないと。」

そればかりに真紀子は固執し続けるのであった。

「お前さんさ、なんでそんなにこだわるんだ?そんなすごい技巧的な曲をやろうって言ったのは誰だ?お前さんの意思でそういうのをやろうと思ったのか?」

と杉ちゃんはすぐに言った。

「そうですね。音楽大学を出ているのであれば、自らの意思で曲を決めるほうが、少ないでしょうからねえ。大体、ついている先生の指示で曲を決めるでしょう。」

水穂さんもすぐに言った。

「あたしが、あたしの意思で決めました。音楽大学を出て、ちゃんとやろうって思ったとき、こういうすごいのをやらないとだめだと思ったんです。」

真紀子は即答した。

「そうなんですか。本当にそうでしょうか。自らの意思決定できないときから教育を受けなければならない分野なので、ある程度、先生から仕組まれていると思うのですがね。」

水穂さんがそう言うと、

「じゃあ聞くが、音楽学校のときもリストをやってたのかい?」

杉ちゃんがでかい声で聞いた。

「はい。あたしは、それで他の人と差をつけようと思ってたから。」

と、彼女は言った。

「だけど、音楽学校の中では、そうかも知れないけどね、一般聴衆を相手にするとなると、そういうすごいのを望んでないことが多いの。だから、欲張りはしないでさ。静かで穏やかな曲をやってみな。そのほうが、聞きやすいって言うやついっぱいいるよ。お前さんの支持者も増えると思うよ。」

「そうですね。音楽学校は、確かに感じ悪いですからね。音楽学校というか、学校というのは、閉鎖的な社会ですから、現実世界と隔たってしまうことはありますよ。だから音楽学校出たばかりの人は、そのギャップで、頭を悩ますって聞きますよ。あの佐藤さんだって、同じこと考えていたかもしれません。だからレッスンに来たのかもしれませんね。その時に、ちゃんと折り合いつけられるかっていうのは、ある程度大事なことでもあるんですよ。」

水穂さんは、もう疲れた顔で言った。そして、二三度、咳き込んでしまった。

「あのさあ、もう終わりにしてくれないか。水穂さん、もう疲れちまったみたいだから。」

杉ちゃんはでかい声で言った。

「そうですか。あたしは、一生懸命ピアノやっても、何も伝わらな買ったってことですね。それでは佐藤さんのことを、贔屓しているようにしか見えませんね。」

「いやあ、無欲なやつと、強欲なやつと、その違いだけだよ。」

そういう彼女に、杉ちゃんはすぐに言ったのであった。

「欲張ってもだめさね。もちろん、自分をかっこよく見せたいと思うのだろうけど、音楽はそのためにあるもんじゃないもんな。自分をかっこよく見せる道具じゃないんですからね。まずはじめにだな、欲張った気持ちを捨てることが大事なんじゃないのかな。例えば、昔話に出てくる欲張り爺さんは、出口がわからなくなってモグラになったりとかするだろう。お前さんも、そうなっちまうよ。だから欲張りはするもんじゃない。それは、忘れるな。」

「欲張りって、あたしは、そんな気持ちでピアノを弾いてたわけではありません。」

真紀子は、大きなため息を付いた。それと同時に、トラックが製鉄所の前にとまった。なんだろうと思ったら宅配便の配達員だった。杉ちゃんが受け取ると、宅配便の送り主は、佐藤龍太郎さんであった。中に入った手紙には、こないだはご指導ありがとうございましたと書かれていた。

「こんなもの、送ってこられても困るよなあ。水穂さん、ツナ缶は食べられないだろう?」

杉ちゃんが箱を開けて中身を調べると、

「ええ。そうですね。」

水穂さんは静かに言った。

「ほんなら、お前さん少しもらってくか。ツナというのはなにかに使うこともあるだろう。食べ物はどんな身分でもどんな職業でも通用するもんだからな。ほら、持っていきな。」

杉ちゃんはそう言って、真紀子に缶を渡した。まるで、ねずみ浄土で、主人公が、ネズミにつづらをもらうのと同じような感じであった。でも、それが必要なものではないというのは、原作と違うところだと思った。真紀子は、悔しい思いをしながら、こんなものと思ったけれど、水穂さんがもう疲れ切った顔をしていたので、それでは受け取らなければならないなと思い、それを受け取った。

外は、静かに日が傾き始めていた。もう冬になっているのだから、日が落ちるのが早いのも当然なのだ。なんだか、いろんなものが変わり始めてきて、もっと昔に生まれていたほうが、気持ちが楽なのかもしれなかった。




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