第12話 嵐の海と幽霊船

 船が大きく揺れた。

 胃の中身が逆流する感覚に、私は手すりにしがみついた。

 嵐の海。最悪だ。


 (……うぷ。ここ、覚えてる)


 三百年前、新婚旅行で海を渡った時も、こんな嵐だった。

 あの時、カイゼルは酷い船酔いでダウンしていた。

「俺は陸の生き物だ……」と青い顔で呻く彼を、私が介抱したのだ。

 でも、今にして思えば、あれは演技だったのかもしれない。

 私が不安がらないように、わざと弱みを見せて、気を紛らわせてくれたのかも。


「……お嬢さん、大丈夫かね?」


 背後から声をかけられた。

 振り返ると、ボロボロのコートを着た男が立っていた。

 透けている。幽霊だ。

 幽霊船長ドレイク。この海域に出ると噂の、彷徨える魂。


「……死人が心配してくれるなんて、世も末ね」

「ハハッ! 違いない。だが、俺も昔は恋人を待って、この海で死んだ身だ。辛さはわかる」


 ドレイクは遠くを見つめた。


「彼女は「必ず戻る」と言って、旅に出た。俺はずっと待っていた。……嵐の日も、凪の日も。死んでからもなお、こうして待ち続けている」


 彼の瞳には、深い孤独が宿っていた。

 三百年、いや、もっと長い時間を、たった一人で。


「……辛くなかったの?」

「辛いさ。でも、待つのをやめたら、彼女が帰ってきた時に困るだろう? 俺がいなきゃ、彼女は寂しがり屋だから」


 胸が締め付けられた。

 待つ側の孤独。

 カイゼルも、そうだったのだろうか。

 私が封印されている間、彼は三百年もの間、ずっと待っていたのだろうか。

「必ず迎えに行く」という約束を守るために。


「……馬鹿ね。男って、どうしてそう不器用なの」

「全くだ。……でも、それが愛ってもんだろう?」


 ドレイクは笑った。

 その笑顔は、透き通っていて、今にも消えてしまいそうだった。



「ぬおおおお! 酔う! 酔うぞおおおお!」


 ザパーン!

 海面が割れ、龍神が飛び出した。

 顔色が悪い。緑色の鱗が、さらに青ざめている。


「海は嫌いじゃ! 揺れるな! 止まれ! ……オロロロロ」


「龍神! ?」

「な、なんだこの化け物は!」


 ドレイクが驚く。

 龍神は船のマストにしがみつき、盛大にリバースした(海へ)。


「おい幽霊! さっさと成仏せい! お主の女はとっくに生まれ変わって、隣の村でパン屋をやっておるわ!」

「な、なんだって! ?」

「孫が5人おるぞ。幸せな人生じゃったようじゃな」


 龍神のデリカシーのない暴露。

 でも、ドレイクの顔から、憑き物が落ちたように見えた。


「……そうか。幸せだったのか」


 彼は安堵の息を吐いた。


「なら、俺が待つ必要はないな。……ありがとう、トカゲの神様」


 ドレイクの体が光に包まれる。

 彼は最後に私を見て、ウィンクした。


「お嬢さん。……待たせている男がいるなら、早く行ってやんな。待つ時間は、永遠のように長いからな」


 彼は光の粒子となって消えた。

 嵐が止む。

 雲の切れ間から、月が顔を出した。



 甲板に出ると、カイゼルがいた。

 彼は少し顔色が悪い。やっぱり船酔いしているのかもしれない。


「……幽霊は成仏したか」

「ええ。……恋人が幸せになったって聞いて、安心して消えたわ」


 私は彼に近づいた。

 月明かりの下、彼の横顔は彫刻のように美しく、そして冷たかった。

 でも、その瞳の奥には、ドレイクと同じ「待つ者の色」があった。


「ねえ、カイゼル。……待つのって、辛い?」

「……さあな。慣れれば、どうということはない」


 彼は強がった。

 でも、その手が手すりを強く握りしめているのを、私は見逃さなかった。

 三百年。

 気が遠くなるような時間。

 彼はその間、何を思って過ごしていたのだろう。


「……ごめんね」


 私は小さく呟いた。

 何に対しての謝罪なのか、自分でもわからなかった。

 ただ、彼を待たせてしまったことへの、漠然とした罪悪感だけが残った。


「行くぞ。……もうすぐ港だ」


 彼は背を向けた。

 その背中は、嵐を乗り越えた船のように、頼もしく、そして傷だらけだった。

 彼が三百年間、何を待っていたのか。

 その答えを知るのが怖いけれど、私はもう目を逸らさないと決めた。

 嵐の向こうに、微かに陸地の灯りが見えた。

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「国のために死んでくれ」と私を捨てた王子が、300年間ずっと私の目覚めを待っていたらしい 蒼山りと @aoyama_rito

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