ギヴンクロスの少女たち
市枝蒔次
ギヴンクロスの少女たち
私が初めてアプリコットのジャムを口にしたのは、ギヴンクロス
孤児院の辺りにアプリコットの木は生えていない。後から知ったことだけれど、アプリコットは国花とされ、議事堂やごく一部の公共機関にしか植えることを許されていないのだという。だからその木を見るのも、新鮮な実から作ったジャムの匂いも初めてだった。
司書が置いて回る瓶に入っていたジャムは、雨が降った夕方の空の色をしていた。時間をかけて作られている、貴重なものだということはすぐにわかった。それを、贅沢にも食堂の各テーブルに一瓶置いている。毒でも入っているのかと疑うほどの待遇だ。他の子たちが食べ始めている中、本当に食べてもいいんですかと私が聞くと、給仕をしていた司書がかすかに微笑む。磨かれたジャムスプーンに、あかぎれした私の指が映り込んでいた。
「貴女は賢いわ」
私に微笑みかけた司書が、気づけば側に立っていた。そしておもむろに私の手を取る。ミルクのように滑らかなその手に、ざらついた私の手はびくりと震えた。皿の汚れが取れていないと鞭で叩かれる手だ。
「あたし、賢くなんかありません、司書様。ろくに敎育も受けてない……田舎の孤児なんて」
「そんなことは関係ないの」
荒れた手に目をひそめるようなそぶりも見せず、彼女は私の手にそっとスプーンを握らせた。私はおもむろにジャムをすくい、パンの上に乗せる。ふわりとアプリコットの香りが立って、白いパン皿にとろりと溢れた。
「大丈夫よ、たくさん食べて良いの。貴女たちはここに招待されたのだから」
おそるおそる含むと、甘くてほんのりと苦い味が広がり、気がつけばいっぱいに頬張っていた。彼女はそれを見て、とろけるように優しく笑む。思わず手を止めてしまうほど、美しい笑みだった。
「美味しいのね、良かった」
私は言葉に詰まって、代わりにパンに口の中へ押し込む。それを見た彼女は口に手を当てて笑うと、ふと覗き込むようにして私を見つめた。
「もし叶うなら、わたくし、貴女に真名を授けてみたいわ」
ありがとうございます、とやっと絞り出すように答えると、目の前の彼女から上質な石鹸の匂いがした。それを掴む間もなく、彼女は笑顔で目礼すると濃灰色のワンピースを翻して去ってしまう。蓋を開けたままの橙色のジャムが、甘やかな香りを立ち上らせていた。茶色のやわらかいパンがテーブルの上に並び、薄緑色をした豆の温かいポタージュが湯気を立てていた。
「皆さん、食事は美味しいですか?」
食器の重なる音が響く食堂で、司書の一人が大きな声で語りかけている。
「我々ギヴンクロス真名司書館は、名も無き貴方たちに真名を授けます。名を持つ者は皆国の民、国の民に祝福あらんことを!」
国旗と司書館の紋章が飾られた食堂を出ると、そこには壁一面の本棚があった。
孤児院には本なんてないから、私たちにとっては食事の方が魅力的だ。それでも装飾を施した巨大な飴色の本棚は荘厳で、見惚れてしまうほど美しかった。
「我々は、この国で最も大切な本を所蔵しています。それが『大辞典』――命名の典拠にする本です。これを守り、人々に名を与えるのが、我々『ギヴンクロス真名司書館』なのです」
厳しそうな顔をした司書が話を終えると、「質問は」と鋭く言葉を投げる。私はふっと思いつきで手を挙げた。
「孤児院にはたくさんの人がいますけど、指を差したり、肩を叩いたりして呼べば、別にどうってことはありません。名前を持つと、何かいいことがあるんですか?」
すると、その司書は軽く目を細めた。
「よい質問ですね。名前を持つことで、自分の権利を主張することができますし、国の一員として国の保障を受けられるようになります。何より、『自分』という存在が明確になるのです。名前は命そのものといっていいほど、大切なものなのですよ」
正直なところ、その答えはよくわからなかった。それが本当に良いことなのか、私にはあまり納得できなかったからだ。それでも、「『自分』という存在が明確になる」という言葉だけは、不思議とすんなり胸に染み入ってくるように感じられた。
「それでは、皆さんを『命名の小部屋』に案内します。各扉に一人ずつ入ること」
私の質問が終わると、本棚の間に点々と設けられた小さな扉が一斉に開いた。その奥は薄い闇に包まれていて、皆は思わずじりじりと下がる。そうしているうちに、いつの間にか私が一番前に立っていた。どの扉を選んでもいいと司書は告げた。
餓死しなかったこと、ひどい肺炎にかかったけれど回復したこと、今までの幸運の数々を思い返す。あれらで運を使い切ってしまっただろうか。
そんなわけはないと自分に言い聞かせながら、正面のドアを選んで歩みを進めた直後、彼女のやわらかく通る声が、鐘の音のように私の耳を震わせた。
「どうぞお入りになって、名も無き少女よ」
司書たちから与えられた、糊の効いた服が肌に擦れる。私は思わず背筋を伸ばし、闇の中で立ち止まった。少し先に灯りが見える。それに導かれるようにして進むと、あの司書が凛とした佇まいで立っていた。
「ようこそ。きっと来ると思っていたわ」
ランプが彼女の輪郭を照らし出す。私のことを賢いと言った彼女の方こそ知性そのものだと思えるほど、その姿には品があり麗しい。そんな彼女の居る小部屋もまた本棚が取り囲み、中心には年季の入った机があった。
「貴女を見た時、思い起こした花があるの」
ふっとやわらかに笑んだ彼女は、机上に置かれていた
「ギヴンクロス真名司書館は、『大辞典』を元に名を決めるの。名の由来や意味を参照し、最もふさわしいと考えた名を授ける」
私は心臓が高鳴るのを感じながら、彼女の言葉を受けていた。皆にも与えていたジャムとは違う。他でもない私のために、彼女は名を授けてくれる。
「『大辞典』を何度も読む中で、いつか誰かに授けるべきだと思うようになった名があったの。貴女によく似合う花の名よ」
花なんて贈られたことがなかった。ジャムを取り分けてもらうことも、こうして微笑みを受けることも。もらい過ぎだと思ったけれど、それを拒むことなんてできなかった。目の前の彼女は布を差し出し、私は夢の続きを見ている心地でそれを受け取った。
「ギヴンクロスの名に於いて、汝に名を授ける」
決まりの口上らしき言葉を発すると、彼女は踵を揃えて私を見据える。その姿は、国の保護を受ける機関の一員であることを思い出させるほど、堂々としていた。自然と私の背筋も伸びる。それを見てか、彼女はどこか困ったように眉を緩めて、そしてゆっくりと微笑んだ。
受け取った布の中心には、金糸で一際大きく縫い付けられた一単語。
「汝の名は『メイリス』。ある庭に咲いていたメイリスの精が少女を外へ連れ出し、知性の泉の水を飲ませたという民間伝承を持つ、美しい桃色の花です」
メイリス、と口の中で呟く。
孤児院の辺りにアプリコットの木は生えていなかった。メイリスの花もおそらく咲いていなかった。初めて知った味が、花が、彼女を通して私に与えられている。
甘くてほろ苦いジャム。知性の泉に少女を連れ出した精。彼女が思い起こした花。温かく滑らかな手。
「ありがとう……ございます」
「良かった」
彼女の口調が緩む。それにつられるように、私は彼女の前に跪く。
「緊張していたのね。もう大丈夫よ、メイリス。これからはその名を持って生きて。ほら、この布が証明になるから……」
その言葉を聞き終える前に、私は彼女の手に頬を寄せていた。
いくら体を清めたとはいえ、許可もなく触れるなんて、今から考えれば酷い行いだ。それでも、あの時の私はそうせずにはいられなかった。彼女からは、上質な石鹸の匂いとアプリコットの香りがした。
「メイリス」
「……お赦しください」
最低限のものしかない孤児院では、決してあり得ない香り。いつも曇りがちで冷たい地域では感じられない、温かな手のひら。つっと鼻の奥が痛む。
「美味しい食事を、素敵な名前をいただいて、これ以上ない幸せです。私にはもったいない」
物心ついた時から孤児院に居た。家族も知らない。満足に文字を読むこともできない。毎日家事をして、ひとかけらの黴びたバターをパンに塗っていた。薄い紅茶をすすって、ざらついたスープを食べていた。冬の特に堪える地域だから、屋根があるところで暮らせるだけで十分だった。今まではそう思っていた。それなのに……。
「私は、知らなかったことを知ってしまったのです。もう引き返せない。あなたから『メイリス』という名前をいただいてからは……」
彼女は、私の髪をゆっくりと梳いた。私は体を震わせたけれど、その温もりから逃れることはできなかった。
「司書長に質問していたのも聞こえたわ。貴女は賢い人よ。狭い場所で自分を抑えていたら駄目」
ふわりと香りが頬に落ちて、私ははっとした。一滴の雫。美しく、甘く、かすかにほろ苦い雫だった。
「それは……あたしを買いかぶりすぎです。あたしは孤児だから」
思わず雫を拭った私の指は傷だらけで、彼女のそれとは、似てもつかない。
「孤児だからということはないの」
私が言い募っても、彼女はただゆるゆると首を振る。その仕草を見ていると、ふと私は彼女の名前すら知らないことに気づいた。
「貴女
彼女は静かに私の手を取った。そして、私がそうしたように、おもむろにその頬を寄せた。雫がさらに一粒、私の手を伝って落ちた。
「あなたは……。あなたの名前は」
「与える者に名があってはならないのよ、メイリス」
息を飲む。
食堂や本棚の空間にいた司書たちは、誰も名乗らなかった。皆司書館の司書としてその場にいた。「自分」という存在を消し、「ギヴンクロス真名司書館」という存在に一体化するように。
……そこまで考えたけれど、言葉にはできなかった。ただあの時、目の前には彼女がいて、私には彼女から授かった名があった。
「アトリー議員、件の報告書です」
秘書が差し出した報告書の紙を、目礼とともに受け取る。報告書は硬い言葉で書かれているけれど、今の私は昔よりずっと楽に読めるようになっていた。
資料をめくっていると、視界の端で秘書が花瓶の花を替えている。桃色の花。私はふっと苦笑いして報告書の題を見た。
『旧ギヴンクロス真名司書館の戦争関与と今後の方針に関する報告書』
私がメイリス・アトリーという名で女性初の庶民院議員になった三年後に、ギヴンクロス真名司書館は命名の権利を失った。戦後、間接的ではあるものの、戦争関与が問題視されたからだった。
命名された者は確かに国民として権利を行使できるけれど、同時にそれは徴兵の義務を課されるということでもある。報告によると、政府が孤児などの命名を秘密裏の軍拡の一環として行ったという資料が発見されたという。
また、富裕層の子女を極秘で雇い、機密文書管理の名目で安全を保障するとともに、工場での強制労働から逃れさせていたという話もあった。結局、戦争で攻撃を受けたこともあり、ギヴンクロスは大半の機能を剥奪した小規模の国立図書館として存続するという形に収まったけれど。
資料から目を離し、椅子にもたれる。秘書が淹れてくれた温かい紅茶をすすると、部屋が湯気にかすんで見えた。
彼女が今どうしているのかはわからない。元の家に戻ったのか、それとももうこの世にはいないのか。本当は持っていたであろう名を私は知らないから、伝手を辿りようもない。あの時、私に「メイリス」の名を与えてくれた彼女しか、私は知らない。そして、たとえ司書館が歪んだ目的で成り立っていたのだとしても、あの時少女だった彼女と少女だった私が出会ったことは、疑いようがない。
「『汝の名はメイリス』……」
紅茶を置いて、今も大切に胸ポケットへしまった布に触れる。その滑らかさを味わってから、私はふと窓辺に立った。議事堂の外には、アプリコットの木が植えられている。戦後すぐに植えられた木も、もう随分大きくなった。ジャムにするには量が少ない上に、砂糖はまだ贅沢品だけれど。ただ時が来たら、私を知恵の泉へ連れて行ってくれた花の精の元へ、一瓶を贈りたいと思うのだ。
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