後編

 放課後。

 帰りのホームルームが終わっても、教室はいつもよりざわざわしていた。


 そんな中、めぐるは俺の席の前まで歩いてきて、少しだけ迷ったあと、小さく息を吸った。


「先輩……一緒に帰って、くれますか?」


「ああ、もちろん」


 俺たちは一緒に廊下へ出た。

 夕方の光が差し込む階段の踊り場は、ちょうど人が途切れていて静かだった。

 窓の外には、オレンジ色に染まった校庭が見える。


 しばらく、どちらも何も言わなかった。


 沈黙を切ったのは、めぐるのほうだった。


「えへへ……さっきの、夢じゃないですよね」


「夢なら、俺も同じの見てる」


 そう答えると、めぐるは小さく笑った。


「先輩、さっき『好き』って、先輩に言ったじゃないですか」


「ああ」


「もう一回……言っていいですか。あんな流れでの告白になっちゃったので、改めて言っておきたいなって、思うんです」

「お、おう」


 顔を上げためぐるの目は、さっきよりずっと澄んでいた。


「私、水谷先輩のことが好きです。ずっと、大好きでした。これからも、できるだけ長く、大好きでいたいです」


 その言い方が、やけに真面目で、やけにまっすぐで。

 冗談みたいなところが一つもないから、胸にすとんと落ちた。


「……じゃあ」


 緊張で指先が冷たくなっているのを自覚しながら、俺は手を伸ばした。


「俺と、付き合ってください」


 めぐるは、その手をぎゅっと握り返した。


「はいっ、よろしくお願いします、先輩!」


 手のひら同士が触れ合っているだけなのに、やけに心臓がうるさい。

 めぐるの手は小さくて、あったかくて。

 もう二度と、離したくないと思った。


◆◆◆


 校門を出る頃には、空はすっかり夕焼け色になっていた。


 並んで歩きながら、どこかぎこちない沈黙が続く。

 前と同じように一緒に帰っているだけなのに、何もかも違うような気がした。


「あの」


 口を開いたのは、めぐるだった。


「手、つないでてもいいですか」


 その声が、やけに小さい。

 めぐるの頬が赤く染まって見えるのは、夕焼けのせいか、それとも。


「さっきつないでただろ」


「階段は、なんか特別な感じだったので……。帰り道は、帰り道のやつで、ちゃんとお願いしたくて」


 よく分からない理屈だけど、妙にめぐるらしくて、思わず笑ってしまう。


「じゃあ」


「……お願いします」


 差し出した手を、めぐるがそっと握る。

 さっきよりも、指の力が少しだけ強かった。


 住宅街の細い道を、二人で歩く。

 自転車が横を通り過ぎていくたびに、めぐるの肩が俺の腕に当たる。


 そのたびにお互い少しだけよけて、でもまたすぐに近づいて。

 その繰り返しが、くすぐったかった。


「先輩」


「ん」


「さっきから、にやけてますよ」


「……そっちこそ」


「にやけてませーん」


「手の力、さっきからちょっとずつ強くなってる」


「だって……落ち着かなくて」


 めぐるは、恥ずかしそうにうつむいた。


「離したくないんです。なんか、今離したら、もったいない気がして」


「大丈夫。俺も離さないよ」


 当たり前のように言ってから、自分で少し驚く。


 前だったら、こんな照れ臭いことを口に出す勇気はなかった。

 でも今は、めぐるの手のぬくもりが、その背中をそっと押してくれる。

 もっと、そのぬくもりが欲しくて。

 どうしようもないくらい、求めたくて。


「あの、さ。めぐる」


「は、はい」


「ありがとな」


「……何がですか?」


「今日、ちゃんと聞きに来てくれて」


 めぐるは少し考えてから、ふわっと笑った。


「それなら私も、先輩にありがとうって言いたいです」


「えっ?」


「あの日、書類拾ってくれて、今日まで、いろいろ話聞いてくれて。先輩がいたから、私今、すっごく楽しい日々を送れてます!」


 歩きながらの会話なのに、その一言だけは、足を止めて聞きたくなるくらい重かった。


 けれど、止まらない。

 前に進みながら、少しずつ距離を詰める。


「これからも、一緒にいてくれますか」


 それは、聞き慣れた後輩の甘え声じゃなかった。

 少しだけ震えた、恋人のお願いだった。


「ああ、ずっと一緒だ」


 俺も、真正面から答える。


「めぐるのこと好きすぎてめんどくさくなっても、たまには思い出してくれればいいから」


「めんどくさくなんてなりませんよー! 相変わらず先輩は心配性ですね」


 食い気味に返された。


「大丈夫です。先輩がめんどくさいときは、『めんどくさいです』ってちゃんと言いますから!」


「それはそれでこわいな」


「でも、言ってもいい相手ってことですからね。先輩だって、いいんです。それが心を許すってことだと思いますから」


 そう言って笑うめぐるの横顔が、夕日に照らされて少し赤く染まっていた。


◆◆◆


 家の前の角まで来ると、足が自然と遅くなった。


「じゃあ、ここで」


「うん」


 いつもなら「また明日」で終わっていた場所。

 今日は、空気が違う。


 めぐるは、つないだままの手を見つめて、少しだけ口を結んだ。


「……あの」


「めぐる?」


「最後に、いっこ、いいですか」


「ん、どうした?」


 問いかけると、めぐるは俺の袖をきゅっとつまんだ。


「ヤじゃなかったら、ですけど……」


 そこまで言って、言葉を飲み込む。

 代わりに、一歩だけ近づいてきた。


 息が触れそうなくらいの距離。

 夕方の薄い光の中で、めぐるの繊細なまつ毛がほんの少し震えているのが見えた。


「……目、閉じてもらってもいいですか」


 かすれるような声だった。


 心臓が、一段高く鳴る。


「理由聞いても?」


「いじわる……」


「ごめん……分かった」


 深く息を吸って、俺はそっと目を閉じた。


 すぐに、制服の胸元をつまむ感触が近づく。

 次の瞬間──


 触れたか触れないか分からないくらいの、軽い何かが、唇に落ちた。


 ほんの一瞬。

 風の音と、自分たちの鼓動の音しか聞こえない時間。


 気がついたときには、そのぬくもりは離れていて、代わりに目の前で小さく「あ……」と息をのむ声がした。


 おそるおそる目を開けると、めぐるが耳まで真っ赤にして立っていた。


「め……めぐ、る……今のは……キ」


「ひ、秘密です!」


 遮るように言って、照れ隠しにうつむく。


「でも……一応言っておきます」


 それでも、ちゃんと顔を上げてくれた。


「私がしたくて、しました。好きだから、し、しました。先輩がヤじゃなかったなら、それでいいです」


 嫌どころか、嬉しすぎて何も考えられない。

 いっぱいいっぱいを通り越して、頭の中が真っ白だ。


 さっきまで当たり前だった家の角が、別の場所みたいに見える。


「めぐるは……ずるいな」


「え?」


「そんなことされたら、明日からここ通るとき、思い出すだろ」


 そう言うと、めぐるはきゅっと口元を押さえて、それからふにゃっと笑った。


「えへへ、思い出してください。毎日。私も、思い出しますから。二人で一緒に、思い出しましょう」


 それは「またしようね」とか「次はもっと」という言葉より、ずっと静かで、ずっと甘い約束に聞こえた。


「先輩」


 めぐるは、手を離さないまま、もう一度だけ言う。


「大好き、です!」


 夕暮れの住宅街で、小さな声で、俺だけに向けられた満点の「好き」。


「お……俺も」


 短く返すと、めぐるはほっとしたように笑った。


「また明日」


「ああ」


 今度こそ手を離すと、指先に少しだけさびしさが残る。

 でも、それは嫌な感じじゃなかった。


 めぐるが小さく手を振って、自分の家の方へ走っていく背中を見届けてから、俺も歩き出した。


◆◆◆


 夜になって、スマホが震える。


『今日、すごくドキドキしました。夢じゃないですよね? また明日、いっしょに行ってくれますか』


 さっきの、軽い感触が、指先と一緒にもう一度よみがえる。


 唇にそっと触れてみて、自分でもおかしくなって、思わず笑った。


『明日も、その次も。起こしてくれると助かる』


 送ると、すぐに返事が来た。


『じゃあ、がんばって起こしに行きます。おやすみなさい、先輩』


 画面を見つめながら、ゆっくりと目を閉じる。


 星野めぐるが、俺を好きでいてくれたこと。

 俺もずっと、星野めぐるを見ていたこと。


 それを口に出しただけで、世界の輪郭がやさしくなった気がした。


 明日からも、きっといろいろある。

 すれ違うことだって、またあるかもしれない。


 それでも。


 今、俺の手のひらと、唇は、今日もらったぬくもりをはっきり覚えている。


 そのぬくもりを信じて、俺は目を閉じた。


 この気持ちが。甘く長く、続いていきますようにと願いながら。

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可愛い後輩に彼氏がいると勘違いして距離を置いたら、実はずっと俺が好きだったらしくて、この後めちゃくちゃイチャイチャした ジャムシロップ @qawsed0410

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