[期間限定公開]少女探偵アリスと黒猫のリボン――霧のロンドン事件簿[完結保障]
水星 透
第1話:呼吸する金属
「ロイヤルアルバートホールからの演奏も台無しですね」
「また未解読電信の傍受ですか、お嬢様?」
世紀末前夜、1885年ロンドン。
六月の夜気には、蒸気と数式の吐息、それに煤とライラックの匂いが混じり合っていた。
「誰かが謎を作ったなら私はそれを解きたいの。ALICEもそれを望んでいる」
「チャールズ・ウィートストンのプレイフェア式もダメだった」
貴族の子女なら舞踏会の準備、
甘いピアノの旋律に弦楽器の重低音が絡み合って、その残響がわずかに窓を揺らした。
それもやがて、馬車の車輪が石畳を叩く音が掻き消してゆく。
ガス灯の火だけが、そこに音があった事を伝えているようだった。
「まさかドジスン氏から名を賜ったお嬢様が、ここまで三代ロス卿に似られるとは」
「当代もご想像なさらなかったでしょう」
「その学びを淑女のマナーに少しでも向けてくだされば」
スワロゥは鍵盤を見つめたまま、微笑の影をひとつ残した。
「メンデルスゾーンをおサボりになって、地下で
「アリスお嬢様はサロンの流行よりも、豆の遺伝の方がお好みですか?」
振り向きながら手だけは止めずにアリスと呼ばれた少女はタイプを続ける。
「みんながツマンナイ顔してるだけの社交界なんて」
「それに、豆のスープなんて食べないから。ちゃんと言っといて。ね、スワロゥ」
「レンズを使ったカードの穿孔方法の論文なら大歓迎だけど。手元には届いてないの?」
「この電信暗号解読のヒントになるかもだし」
歳のころは十三から十五ほど、不満げな頬に負けん気と好奇心に満ちた瞳を飾り立てているのはプラチナブロンドの髪。見下ろすのはアリスより二つほど年上、スワロゥと呼ばれた黒髪に涼やかな瞳の家庭教師兼メイドの少女。アリスの髪がスワロゥの漆黒のスカートに触れると、リン。と音が鳴るようだった。
アリスはすぐに目の前の機械に向き直った。
その瞳は恋の情熱を間違って科学に向けてしまったような鋭さで、吐き出されるパンチカードの細いリボンを見つめ続けていた。
少女と同じ名を冠する、呼吸する金属。
ロス家――三代にわたり、計算機構の後援者の家系。その至宝。
差分機と解析機――地下室の半分を揺りかごにした、双子の夢を抱いた機械。
揺らぐ金の髪を思わせる、蒸気管は
それは鉄の
徘徊する
アリスはその生物のような脈動と呼気が好きだった。
白。
タイプ音。
そして白。
またタイプ音。
「ねえ、スワロゥ。換装してもらった
「こんなんじゃいつまで経っても解けない」
「失礼」
スワロゥはアリスの横に座るとキィに触れていくつか
制服の白と黒がアリスのティーガウンとチェッカー模様を作った。
ポーンの応酬、e4・c5からオープニングが始まるように。
アリスはスツールの上に折りたたんだ足をそっと床に下ろす。
スワロゥは何も言わなかった。
ふわり。とサボンの香りだけが余韻を紡いだ。
「おっしゃる通り、打鍵にばらつきがありますね」
「頼んでたパーツ、まだ?結構前よね?」
「ジュネーヴでの研磨に遅れが出ていると、商会から連絡がありました」
「ヨーロッパ中の研究所が差分機の部品を奪い合っておりますから」
「暗号に関しては、
スワロゥは顎に手を置いて考え込んでから言った。
「そうですね……明日は、クラーケンウェルまで足を伸ばしますか?」
「遠くない?うーん、まあいっか。行き詰まってるし、息抜きが必要よね」
「叔父様にたくさん請求書をお送りしてあげましょ。少しは資産を減らしてあげないと」
アリスは打鍵の手を一瞬止めると、電信モールスの盗聴に手早くインデックスを貼り付けていく。パンチカードのリボンが床を跳ねると、空気が撹拌される。
「もちろん貴女もついて来るよね?スワロゥ」
白く柔らかい背もたれのクッションを指で撫でてから、アリスはため息をついた。
それから、また頬を刺した髪を鬱陶しそうにかき上げた。
「ねえ聞いてる?スワロゥ」
スワロゥは節目がちに頷いて
「もちろんご一緒いたします」
「スワロゥはどこまでも」
一筋の乱れもなく結い上げた髪を、貞淑さの象徴の衣服で包み込んだ少女の言葉はどこか悲しげな響きを帯びていた。
「スターリングってみんな貴女みたいなの?ねえ、スワロゥ」
アリスはタイプライタ式の、
「とんでもございません。皆、優しく、思いやりに溢れた人材です」
英語の教師のように正確な発音で告げると付け足した。
「アリスお嬢様は放っておくと、金庫破りをしてしまう」
「それはそれは優れた方ですので」
「あれは新聞が変な書き方をしただけよ!」
「金庫破りは事実です」
「開けただけよ!」
「そうですね」
「お嬢様は危うい――」スワロゥの囁きとため息は蒸気と共に溶けていった。
「それゆえに、機関で最も成績優秀な私が派遣されているわけでございます」
貴族の子女としては短すぎる膝丈のスカートを整えるとアリスは立ち上がり、話を急に切り替えた。
「お腹すいたな。豆のスープ出ないんだよね?で、遺伝って何?」
「母の知り合いの修道僧の……どうでもいい話でございました」
「今夜は鳥のコンフィにガスパチョで、スペイン風に行くとシェフは言っていましたよ」
スワロゥは細いリボンを手繰りながらアリス以上の速度で分類しながら答えた。
「昨今の犯罪は貧民街の少年少女と猫の失踪事件ですか……」
指先の微細な感覚だけでパンチカードを読み終わるとスワロゥはファイルに挟みこんだ。
「それにしても……人探しは少なく、猫探しの依頼ばかりとは」
「百万都市ロンドンが……人より猫が多くなるのも時間の問題ですね」
「分類だけお願い。一応ね」
「念の為聞くけど、他の依頼はないのよね?スワロゥ」
アリスの不満げな顔。
「猫探しが十件」
「それだけでございます」
「猫ちゃん好きだけど、十匹は大変だよ」
「あーあ、私立探偵。流行ってるって言ってたのになあ」
「流行ってますよ。猫探しがこんなにも」
「バカ!そういうことじゃないんだから」
ドアが固く閉じられると複数の鍵をかける金属の擦れる音。
また
ロイヤルアルバートホールではウェリントンの勝利がクライマックスを迎え始めていた。
その大砲のような太鼓の響きの中。
ロス卿の私邸、その地下で、ALICEは動き続ける。夢を見るように。
厳重に施錠されたゆりかごの中で。
中央軸のトゥールビヨンが規則正しく回転し、呼気の弱さとは裏腹にその機能が正しく保たれている事を示していた。
屋敷に張り巡らせた、蒸気管から逃しきれない蒸気の白がガラス窓を曇らせる。
それは細く、短い喘息患者の呼吸音のよう。
一拍吸う。
リボンが吸い込まれる。
一拍吐く。
リボンが排出される。
そしてまた一拍。
その呼吸を、アリスは自分の心臓の鼓動でなぞった。
機械の夢は終わらない。
全6話:次回更新12/17前後予定
[期間限定公開]少女探偵アリスと黒猫のリボン――霧のロンドン事件簿[完結保障] 水星 透 @minase_toru
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