長距離を走る犬

増田朋美

長距離を走る犬

今年一番の冷え込みだそうで、このくらい寒くて当たり前だとみんな口を揃えていっていた。暖かいのが続いて、なんだかおかしいなと思われる季節であるが、もしかしたら、11月でも暖かいのが当たり前になってしまうのかもしれない。そんな中、杉ちゃんと水穂さんは、イングリッシュ・グレイハウンドのたまを連れて、バラ公園に散歩に出かけた。

「あれ、あそこに居るの、諸星正美さんではないか?」

杉ちゃんがそう言うと、ベンチに座っていた女性も、杉ちゃんたちに気がついて、同じ様に大きな犬を引っ張ってやってきた。

「こんにちは。だいぶ寒くなりましたね。今日は、たまちゃんお散歩ですか?」

正美さんはにこやかに言った。

「ええ、足が悪いたまですが、たまには散歩に出したほうが良いと思いましてね。」

水穂さんがそう言うと、

「それでは元気なんですね。それは嬉しいことです。私は、仕事というわけではありませんが、親戚から犬を預かるようになりました。この子は、叔父から預かりまして、名前はグレイハウンドのレイくんです。」

正美さんは、そう隣りにいる大きな犬を説明した。

「そうなんですね。大きな犬を預かりましたね。その子は体の一部が白くなっているから。」

「ええ。もう、15歳のおじいちゃんなんですけどね。叔父の話だと、ドッグレースのサークルでも大活躍していたようです。あ、海外で行われているような、犬にマラソンさせて、賞金を得るというものではありませんよ。あくまでも走らせるのを楽しむサークルです。」

水穂さんがそう言うと、正美さんは説明した。

「レースねえ。まあ競馬みたいなもんだよね。犬に長距離マラソンさせて、一位になった犬にお金をかけるという。」

「だからそういうギャンブル的なものではありませんよ、杉ちゃん。レイくんは、10年近くマラソンをしていたそうですが、やたら走らされて辛いのではなく、本人は楽しんで走っていたと思います。」

正美さんは、杉ちゃんの話にそう反論した。

「確かにグレイハウンドは、車並みのスピードで走るという、犬の世界ではマラソンランナーですからね。チーターと同じくらいのスピードを出した子もいるとか。」

「ええ、そうなんですが、レイくんは、今はマラソンさせるのではなく第二の人生を満喫しています。」

正美さんはそう言ってレイくんの体を撫でた。レイくんは全身艶のある灰色で、体の所々に白髪があるが、やはりレース犬として活躍していたのがよく分かる、どこか威厳のある顔をしていた。

「そうですか。それではたまにも良い友達ができるでしょうか?」

水穂さんがそういうと、

「ええぜひ仲良くしてくださいよ。たまちゃんには大先輩ですね。」

正美さんはにこやかに言った。水穂さんがたまとレイくんを公演で遊ばせたらどうかというと、正美さんはそうですねと言った。3人は、公園の自由広場へ行った。正美さんが持っていた犬用フリスビーを投げると、たまもレイくんも追いかけていった。

「やっぱり流石ですね。走りたい気持ちがあるんでしょう。足が悪くても年をとっても、グレイハウンドは超距離マラソン犬であることは変わりありません。」

水穂さんは、正美さんが何度も投げているフリスビーを追いかけている二匹を、優しい目で見た。

「そうだねえ、かわいいなあ。」

杉ちゃんもそういった。

「そうですよね。この子達を可愛いと思ってくれる人がいてくれると良いんだけどね。大きな犬はなかなか人気がなくて、ペットショップでも売れ残って引き取りやに出したり、殺処分されてしまうことも多いそうよ。」

正美さんがしんみりと言った。

「逆に、小さな犬は人気がありすぎて、繁殖家でも需要が追いつかなくて、欠陥とか病気のあるワンちゃんばかりが生まれてくるとも聞くわ。どうして、かわいがってくれる人がいないのかな。」

「でも、レイくんは優秀なワンちゃんであることは間違いありませんね。」

水穂さんは考え込むように言った。

「本当は、かわいがってもらうのが、理想のペットなんでしょうけど、今のペットは飼う側に条件が多すぎて、なかなかそうなれないですからね。というより、多少悪いところがあっても、家族として迎えようと言う姿勢がなかなか飼う側にないですからね。」

「ほんとほんと。悪質なペットショップも多いからな。」

水穂さんの言うことに杉ちゃんも言った。その間にもたまとレイくんは、仲良く楽しくじゃれあって遊んでいる。

「あたしも、たまには社会に役に立っているのかもしれません。だって、あたしがこうして散歩を手伝えば、犬も猫もその家で飼えるし、引取屋にも渡さなくて良いことになるんだし。」

正美さんはそんな事を言い始めた。

「引取屋?ああ、ペットショップの売れ残った犬を格安で買い取る商売ね。確かに何らかの事情で飼えなくなったとか、売れ残りの犬が劣悪に扱われることも多いようだね。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうなのよ。だから、犬を飼うのも手伝い人がいれば、その子もずっとその家で暮らしていけるのよ。」

正美さんはそういった。

「なるほど、なんだか子育てと同じような感じですね。」

水穂さんがそう言うと、

「そうよ。人間と犬はだいたい一緒だとおもってるから、お金がかかったって、人間がきちんと飼育してあげなくちゃだめだと思う。一人でなんでもしなくたっていいのよ。人間も犬も、みんなで協力して育てていかなくちゃだめだと思うのよね。」

正美さんは演説するように言った。

「そうですね。命を粗末にしないために、子供の頃からペットを飼うとか、必要ですものね。また、精神疾患を持つ人の治療にもなりますよね。」

水穂さんが正美さんの話に応じた。

「そうでしょ。だから、あたしも今は、レイくんを子供みたいにかわいがって、自分にできることを精一杯してあげようと思うの。それが後々の、なにかにつながっていくと思うわ。」

「正美さんすごくかっこいい。」

正美さんの話に、杉ちゃんが思わずいう。

「犬だって、人間とおんなじ命があるんだもんな。それを飼えなくなったからと言って、簡単に引取屋のような商売に出しちまうのは確かに良くないな。それなら、他人が介入すればいいというのは、名案だよ。」

「ありがとう。」

正美さんは、にこやかに言った。確かに、普段何もしていない諸星正美さんが、こうして社会のためになにか活動をしようと思ってくれたのは、ありがたいことだった。

それから、水穂さんは、体調が良い日であれば、たまを連れてバラ公園に散歩に出かけた。バラ公園に行くと、いつも正美さんが、レイくんを連れて公園の中を歩いているのに出くわすのだ。たまはたまで新しい友だちができてとても嬉しいのか、公園に行けばレイくんといっしょに、じゃれて遊んだり、正美さんのフリスビーを一緒に追いかけて遊んだりもする。それは、たまにとっても、水穂さんにとっても嬉しい傾向であった。製鉄所の利用者たちは、水穂さんが、たまの散歩に出かけてくれて、少しはご飯を食べてくれることを期待しているだけではなく、水穂さんがもう少し明るくなってくれることを願った。杉ちゃんの方は、人間だけではなくて、犬にまで面倒見が良いのかと呆れていた。

その日も、水穂さんはたまを連れて、バラ公園に散歩に出かけた。その日は少し曇っていて、寒い日であった。そうなると、もう冬が近づいてくるなと思われる日である。静岡では雪が降ることはほとんどないが、雨はよく降ることがあった。

「正美さん。」

水穂さんはベンチに座っている諸星正美さんに言った。

「ああ、こんにちは。」

正美さんも、水穂さんに気がついて、頭を下げた。たまの方は、レイくんに近づいて、また遊ぼうという表情でじゃれついた。

「今日は、なにかありました?なんだか落ち込んでいるみたいですけど。」

水穂さんは正美さんの顔を見ていった。

「ええ。まあ、いつものことなんですけどね。あたしが悩むとしたら祖父のことですよ。水穂さんも、祖父がうちの中で強引な態度を取ってることは知ってますよね。それのせいで、あたしたちはいつも、振り回されてます。最近は、硫化水素が発生するとか言って、換気扇を止めてしまうので、あたしも困ります。」

正美さんは、そう愚痴を漏らした。

「そうですか。お祖父様が、毎日強引な態度を取っているので、それでお困りなんですね。」

水穂さんがそう言うと、

「ええ。衣食住厳しく制限されます。なんでも質素倹約ばかり。可愛い格好して自分を飾り立てることも行けない。和食以外のものは健康に悪いと言って食べないし、家に飾り物をおいたり、カーテンを買い替えることだって贅沢はするなと怒られるし。家電製品を買うのだって、お金が勿体ないと言って、やすいものしか買わせてくれないんですよ。あたしたちが、そんなことはないって反論すれば、バカにして聞いてくれないし。」

正美さんは、辛い胸の内を話し始めた。

「それに、常に家の中で家族のことをしていないと落ち着かないらしくて、デイサービスにも行きたがらないんです。わたしたちが行ってほしいといえば、なんで俺が出ていくんだとか行って怒鳴りっぱなし。」

「そうですか。それでは誰か止めてくれる人は、いらっしゃらないのですか?」

水穂さんは正美さんに聞いた。

「いませんねえ。あたしが反論しても働いてないからって言うことで聞かないでしょうし、父は、そういうことに反論できる体力も気力もないんだって最近わかり始めてます。母は実の娘だから私以上にバカにしちゃうから、誰も私達の中では止める人はいないかなあ。」

正美さんは、そう現実を語った。

「じゃあ、どういう人であれば、お祖父様を止めることができると思いますか?」

水穂さんは正美さんに聞いてみる。

「うーんそうですね。ある程度年が行っていて、東大卒とか、そういう優秀な経歴がある人でなおかつ、著名な地位にある人ではないと言うことは聞かないと思います。健康番組のゲストが喋っていることは、しっかり守っていましたから。そういう権威がある人ではないと難しいと思いますよ。でも、権威ある人って、自分のことばかりで、人のことは相談に乗ってくれたりしないでしょ。だから、もうにっちもさっちもいかなくて、ほんと困っています。」

正美さんは、そう答えた。

「きっと精神科医とか、そういう人でなければだめですよ。まず初めに、ケアマネさんの言うことも聞かないですから。ケアマネさんだって若い女性であれば、徹底的に馬鹿にして、言うことは聞きませんから。そういう、変な年寄が居るんですね。ほんと、もう勘弁です。」

「そうですか。きっと僕みたいな人間の話なんか聞かないんでしょうね。そういうひとは。でもある意味可哀想なひとでもありますよ。自分しか信じられないんだもの。他人で、信用できるっていう人が、ほとんどいないわけですから。」

水穂さんはそう静かに言った。

「あたしがやっている犬を預かるビジネスだって、続くかどうかわからないですよ。もし祖父がやめろと言ったら、止められる人は今の家にはいませんから。本当は犬が噛みついてくれるとありがたいんですけど。それはできませんしね。」

正美さんは苦笑いして言う。

「今までやってきたことも、みんな結局そうなってました。祖父がやめさせろとか、もっとマシな仕事をさせろとか、そういう事を、父や母に言うものですから。」

「そうですか。でも、正美さんは、犬や猫も地域で飼わなければならないことを知っています。それをうまく主張していけば、変わってくるかもしれません。お祖父様に説明するのは大変だと思うけど、なんとかそこら辺を伝えていけたらいいですね。」

水穂さんは、そう彼女に言った。

「でも、祖父の理想の仕事はきっと、人のためになる仕事、医療とか、福祉とか、そういうことだったり、食べ物を作ることとか、そういうことしかないと思うんですね。犬をどうのなんて、理想のりの字にもならないでしょう。」

正美さんがそう言うと、

「いや、どうですかね。これだけのペットブームですし、犬や猫を飼うということは、子供を育てる以上に浸透しているものですよ。だから、それを手伝わなければならない場面だって自ずと出てくるでしょう。だから、それを手伝う仕事っていうのは、非常に良いことだと思うんですよ。それなら人のために十分役立っていると思いますけど。」

水穂さんはそう彼女を励ました。それと同時に、空が暗くなって、ポツリポツリと雨が降ってきた。雨というより、霧雨であった。

「ああ降ってきましたね。じゃあ、今日はもう帰りますね。ありがとうございました。」

正美さんはそう言って、レイくんを犬笛で呼び出した。二匹は、近いところまで戻ってきた。

それと同時に、湿気でやられてしまったのだろうか、水穂さんが咳き込みだした。正美さんが大丈夫ですかと声をかけても止まらない。しまいには、朱肉のような赤い液体が水穂さんの手を汚した。すると、レイくんが何を血迷ったのか、グレイハウンド特有の超スピードで、バラ公園から飛び出していってしまった。全く老犬ということを感じさせず、車とも引けをとらないスピードでレイくんは走っていった。正美さんは追いかけても追いつくはずもなかった。

一方、製鉄所では、杉ちゃんたちが、あらあまた降ってきたと言いながら、庭を掃く作業を取りやめたりしていたが、そこへ、灰色の大きなグレイハウンドが、鉄砲玉の様に突っ込んできた。まさしく、マラソン選手がゴールするときのような走り方だった。

「あれ、この犬は、どうしたんでしょう。まさか野良犬じゃありませんよね?」

製鉄所の管理人であるジョチさんこと曾我正輝さんがそう言うと、グレイハウンドは、なにか言いたそうに大きな声で吠えた。

「なんだかこっちへ来いと言っているように見える。」

杉ちゃんがそう言うと、グレイハウンドは更に大きな声で吠えた。ジョチさんが水穂さんになにかあったなといった。車を運転できる利用者が、すぐに車のエンジンを掛けて、杉ちゃんとジョチさんを乗せた。グレイハウンドは、また全速力で走り出した。車が余裕でついていけるほど、グレイハウンドは足が速かったし、スタミナがあって長距離走に向いている犬であることは疑いなかった。杉ちゃんたちは、グレイハウンドに先導されて、バラ公園の中へ入った。グレイハウンドに案内されて自由広場に行くと、ベンチで水穂さんが咳き込みながら座っていて、諸星正美さんがどうしたらいいかわからずに困っているのが見えた。杉ちゃんたちは、利用者に助けてもらいながら車を降り、水穂さん立てますかと声をかけた。ジョチさんは水筒に入れてあった、飲み物を水穂さんに飲ませた。それは間違いなく鎮血の薬で、水穂さんの発作は、やっとこれで止まってくれた。

力持ちの女性利用者が、水穂さんを車の座席に乗せた。杉ちゃんたちは、改めて車に乗った。ジョチさんは諸星正美さんに感謝し、お礼のお金を渡そうとしたが、

「いいえお金は要りません。もし、そういう事をしたら、どこで取ってきたって、家族に叱られますから。」

と、諸星正美さんは言った。

「ご家族に叱られるのであれば、ちゃんと人助けをしたんだといえば良いのではありませんか?」

ジョチさんがそう言うが、

「いえ、祖父に説明すると、またややこしいことになるし、また喧嘩みたいに大声でやり取りしなければならなくなるので、遠慮させてください。」

と、正美さんは言った。

「そうなんですか。本当にお宅も大変ですね。お祖父様、そんなに頑固になってしまわれたんですか。それは、正美さんも辛いでしょう。」

ジョチさんはそういったのであるが、

「ええ。でもそうしなければあたしたちも暮らしていけないし、誰も祖父に逆らえる人はいないことは知ってますから。」

正美さんは、そこはしっかりと言った。

「そうですか。今はそうかも知れないけど、絶望的にならないでくださいね。どこかで、なにか変わってくることもあるかもしれませんよ。」

と、ジョチさんはそういった。そして、お仕事をして疲れてしまっただろうなという顔をして、親友というか大先輩を見つめているたまのリードを引いて車に乗せた。大先輩のグレイハウンドは、あれだけ走ってきたのに、平気な顔でそこに立っていた。本当にマラソンランナーも顔負けと思われるくらいひょうひょうとしている。たまは、そんな先輩ができて、なにか学習したのだろうか。犬も人間と同じようなものだから、きっと学習する能力はあるのではないかと思われた。

「じゃあ正美さん。今日はありがとうございました。そこにいる、グレイハウンドさんにも、お礼をさせてください。」

ジョチさんは、そう言って正美さんに頭を下げて、グレイハウンドのレイくんの頭を撫でてやり、たまを連れて車に乗った。正美さんは、車が動き出すのを眺めていた。一方のグレイハウンドのレイくんの方は、こんな仕事をしても、プロなんだから、何も動じないという顔をしてそこに立っていたのであった。なんだか、そういうところが、昔の上流階級に愛されてきた特徴なのだろうか?なかなか、長距離を走らせるために改良された犬はそうはいないけれど、不思議なことに、人間が人のためになにかしてしまうと、どうしてもしてやったという感情が発生してしまう。だけど、レイくんにはそのような感情は無さそうだった。そういう汚い感情が発生しない、犬というのは、本当にすごいなあと諸星正美さんは思った。もしかしたら、それはレイくんの15年間生きている、老犬としての誇りなのかもしれなかった。大きな事を成し遂げたら、それ以上何もしないで静かにしている。これが人間にできることであったら、もうちょっと若い人が生きやすくなるだろう。

「帰ろうか。」

正美さんはレイくんのリードを取って、自宅へ向かって歩き始めた。なんだか霧雨にれてしまっているのも忘れてしまうくらい、レイくんの歩く姿というか、プロ意識は威厳あるものであった。


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