最終話 残火の向こうに

朝のオフィス。


松村さんのデスクには、いくつかの資料が積まれている。


転勤が決まったらしいという噂が、社内に静かに流れていた。


「本当、なんですか?」


彼は一瞬だけ目を伏せて、穏やかに頷いた。


「しばらく向こうの支社で。……タイミング的に、いい機会だから」


それ以上、何も聞けなかった。


胸の奥がざわめいても、言葉にできることなんてもうない。


最後の灯りが消えていくように、静かに、静かに距離が開いていく。


時間が経つにつれて、少しずつ実感が湧いてきたものの、まだにわかに信じられない。彼が離れてしまうという現実が。


***


数日後の夜、彼からの連絡。


「少し、話せる?」


駅近くのカフェ。


窓際の席で向かい合っても、会話がぎこちない。


「……離婚、することになった」


「そう、なんですね」


声が震えそうになるのを、どうにか抑えた。


「だから、全部--終わらせようと思ってる」


“全部”の中に、自分が含まれているのは分かっていた。


「……うん、そうなる気がしてました」


自分でも驚くほど穏やかな声が出た。


もう泣かないと決めていたから。


沈黙のあと、彼が微かに笑う。


「ありがとう、深澤。俺を、嫌いにならずにいてくれて」


その言葉だけが、胸の奥に残った。


別れの言葉よりもずっと、重くて、優しかった。


「深澤」


「はい…?」


彼は、私に手を伸ばした。


「今まで、ありがとう」


私は、彼と握手をした。


「こちらこそ、ありがとうございました」


(本当に、大好きでした)


去っていく彼の背中を心の中で見送り、私も彼に背を向けて、駅に向かって歩く。


別れたあと、静まり返った夜道をひとり歩く。


街の明かりが滲んで見えるのは、涙のせいだろうか。


彼の温もりはもう届かない。


それでも、不思議と涙の奥に後悔はなかった。


(ちゃんと、好きになれた。ちゃんと、終われた)


ふと空を見上げると、月が雲の切れ間から顔を出していた。


その光は、どこか懐かしくて、少しだけ暖かい。


もう、夜は終わる。


そして、また新しい朝が来る。


***


一年後、俺は転勤を終えて戻ってきた。


懐かしい顔ぶれの中に、深澤の姿もあった。


「久しぶり」


「お久しぶりです」


「元気そうだな」


「松村さんも」


あの頃、肩より少し下くらいの長さだった深澤の髪が、胸下まで伸びてゆるく巻かれている。


「…幸せそうでよかった」


「…ありがとうございます」


深澤は照れくさそうに、前髪に触れる。


(その癖、好きだったな)


「じゃあ、これからもよろしく。仕事仲間として」


「はい、よろしくお願いします」


深澤は、そっと微笑んで俺から離れ、忙しそうに同僚の方へ歩いて行った。


彼女の左手の薬指の輝きを見て、胸の奥が少し痛んだ。


けれどその痛みは、どこか優しくて――


彼女が幸せだと、ちゃんと分かった。


【終】


---


【あとがき】


誰かを愛することは、

同じだけ、誰かを手放すことでもある。

それを知ってなお、彼も彼女も、それぞれの道を選んだ。

この物語に、正解はない。

けれど――たしかに、彼らは「愛していた」。

それだけは、消えることのない真実だ。


最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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最後の灯りが消える頃 深海 遥 @aono_log

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