第49話 まっすぐな瞳

障子の向こうにある闇は、まるで夜が夜のまま固まってしまったようだ。眠れぬまま浅い思考と深い悔恨とが幾度も胸の中で波を立て、寄せては返し。まぶたを閉じても、開けても、瞼の裏に映るのは護泰様の横顔ばかり。



別れが定まったわけではない。

けれど、共に歩む未来が約束されたわけでもない。


そのどちらにも足が掛かったまま、夜の深さと同じだけ心は沈んだ。



薄明が障子の紙を淡く染め替えたころ、花乃が静かに問いかける。


「姫様……少しは、お眠りになれましたか」



私はただうっすらと首を左右に振った。



もう一人の控えの者が、襖越しに名を告げる。



「綾乃様。成城時正様より、お話があるとのことです」



その名を聞き、胸がきゅうと小さく軋んだ。

時正殿とどのように対峙すれば良いのか、分かりかねていた。



私は身支度を整え、まだ夜の冷気を引きずる廊下を進む。

すれ違う者は誰もが会釈をしたが、その表情には、言葉にしない何かが宿っているように思えた。


誘われた先の間には、護衛も従者の姿もなく、時正様ただ一人だった。


私が部屋の中へと歩みを進めると、彼は立ち上がり丁寧に頭を下げた。その仕草は、初めて出会ったあの日と変わらない、規律正しいものだった。



「朝早くからお呼び立てしてしまい、申し訳ありません」


柔らかい声だった。


しかし、張り詰めた気配が薄く漂っていた。




私は膝を折り、静かに座した後に深く礼をする。


「いいえ。私の方こそ、昨日は突然退席し大変なご無礼を致しました。申し訳ありませんでした。」



時正様は手を膝上で組み、言葉を探すかのようにひとつ息を吸った。



「昨夜、護泰殿と話を致しました」



胸の奥が、ぎゅっと握り潰されたような感覚があった。


それは、私と護泰様の未来を決定する話だったのだろうか。私は息を殺し、言葉の続きを待った。



「結論から申し上げます」



言葉と沈黙の境界をゆっくり越えるように、彼は視線を逸らすことなく私に告げた。




「この縁談、破棄致します」




空気が音もなく凪ぎ、廊下の影がゆらりと揺れた。


その言葉が頭の中で反芻される。



縁談を破棄する



戸惑いを隠せぬまま、しかし問いを重ねることができず、ただ小さく視線を落とした。


時正様は、静かな声で、しかし確かな口調で続けた。


「私は今まで、功も失敗も、誉れも屈辱も、己の心に従い取った行動の結果であれば胸を張って受け入れてきたつもりです」



背筋を伸ばしまっすぐに私を見つめるその瞳は、とても意志の強いものだった。



「しかし、誰かの心を無視してまで得た結果を、私は胸を張って受け入れることは出来ません」



私は手を膝の上で握る。小さく震える指先を、袖が隠した。



「貴女の心がどちらにあるのか。昨日、私にも理解ができました」


その言葉は決して私を責めることはなく、ただ事実を受け止めた者だけが口にできる静けさを伴っていた。変わらぬ穏やかな表情の奥に、どんな感情を隠しているのか。私は時正殿の胸の内を知らぬふりをすることは出来なかった。



「これは、成城から申し出た破談とします。真田の名に傷が残る形は避けられましょう」


「……なぜ」


声は思ったより弱く、掠れていた。



「なぜ……そこまで」



時正様はただ一度だけ、

ふっと微笑むように口元を緩めた。


「それが、ひとりの男としての矜持です」



音もなくぽたり、と雫が落ちた。


袖でそっと拭っても、次の雫がふくらみ、こぼれ落ちる。



「貴女が泣くのは、昨日で最後にしたいと思っていたのに」


「……っ」


その言葉が、胸のどこかを決壊させた。


私は深く頭を下げ、感謝も謝罪も、適切な言葉を選べないまま、ただ涙の下に想いを沈めた。



時正様は立ち上がり、控えていた一歩を踏み出した。


「どうか幸せに」



短く、しかし確かに届けられたその言葉は、ひとつの祈りのように私の心に響いた。

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