第3話 だから私は、26で白無垢を着た…

──『2005年11月23日』 会津若松市・老舗料亭「鶴我」別邸


顔合わせの座敷は、息が白くなるほど冷えていた。

保科ハナエは、まるで時間が止まったように正座していた。


麻衣は膝を揃え、紅音は少し遅れて入室。

「よろしくお願いします」

紅音の声は小さく、どこか他人行儀だった。


保科は二人を交互に見て、会津塗の朱盃を音もなく置いた。


「挙式は来年一月十五日。先負の午後。宗像家の神社で、雪の中の白無垢が一番映える」


保科は紅音を見据える。

「その後、転勤でいわきへ行くそうだな」

紅音は俯きながら、

「はい……結婚後は二人でいわきに住みます」


「会津を離れるのは宗像家の娘として初めてだ」

保科は麻衣に視線を移した。

「だが、二十六で白無垢を着る以上、これ以上の猶予は与えられん」


障子の向こうに保科の背中が消えるまで、麻衣は息を吐くこともできなかった。廊下で待っていた彩は、ただ姉の手をそっと握っただけで、何も言わなかった。


雪見障子の向こうに、雪が降り積もる庭。


(私は、これで「残り物」じゃなくなった)と、麻衣は自分に言い聞かせた。『しかし、選ばれた喜びとは裏腹に、胸の奥には、その猶予を与えられたという事実に、小さな棘が刺さったままだった。』


──『2006年1月15日』 午後 宗像神社


その冬一番の寒波が予報されていた日だった。朝から雪雲が低く垂れ込め、会津の空は鉛色に覆われていた。雪は、まるで麻衣を白無垢で包み込むように降りしきっていた。


白無垢の麻衣は綿帽子をかぶり、会津の嫁っ子として、降りしきる雪の上に正座した。


「会津の娘は、雪の中の白無垢が一番美しい」

保科ハナエの声が、頭の中で響く。

親族の視線が背中に突き刺さる。

「二十六でようやく嫁に行けた」

「行き遅れが雪で隠れる」

そんな悪意に満ちた囁きが、雪に紛れて麻衣の耳に届いた気がした。


紅音は黒紋付。麻衣の手を取るその指先は、今も震えていた。誓いの言葉、三三九度の盃。すべてが雪に吸い込まれていくようだった。


──披露宴会場 老舗旅館「東山温泉 向瀧」


紅い色の色打ち掛けに着替えた麻衣を囲み、親族の囁きが始まる。

「これからは宗像の家を背負うんだからね。会津に帰ってくる場所はもうないんだよ」

「会津を忘れるんじゃないよ」

「子どもは早くね、二十六だもの、もう時間がないよ」

「行き遅れが雪で隠れてよかったね」


一つ一つ、笑顔で言われるその言葉が、麻衣の心に鉛のように重くのしかかった。麻衣は、笑顔で頷くしかなかった。


白無垢の重さ、そして親族の視線の重さが、麻衣の肩にのしかかる。保科ハナエは上座で、満足げに盃を傾けていた。彩は隅で、姉の袖をそっと掴み、涙をこらえていた。


(私は、これで「残り物」じゃなくなった)と、麻衣は盃を手にしながら自分に言い聞かせた。しかし、胸の奥に刺さった小さな棘は、消えることはなかった。それは、猶予と施しで選ばれたという、拭いきれない敗北感だった。


──夜 旅館の部屋


部屋の明かりは点けなかった。窓から差し込むのは、降りしきる雪明かりと満月の青白い光だけだった。


麻衣は色打ち掛けを脱ぎ、白無地の浴衣に着替えて、布団の端に座っていた。長い青髪が肩に流れ落ちている。


紅音が後ろに回り、震える手で浴衣の帯を解き始めた。『「……麻衣さん」彼の声は掠れていた。』麻衣は小さく頷いた。


胸の奥で、二十六年間抱えていた「誰かに選ばれたい」という願いが、今夜、ようやく叶うはずだった。浴衣が落ちる音が、雪の降る音に重なる。


紅音の手が首筋を通り、ネックレスに触れた瞬間、麻衣は息を呑んだ。

これが「選ばれた証」…。

だが、紅音の指は震え、抱き寄せる腕はぎこちない。

麻衣は、その儀式的な行為に、静かに痛みに唇を噛んだ。


終わったとき、紅音は麻衣の背中に顔を埋めたまま、

「……ごめん」

と、ほとんど泣きそうな声で言った。

麻衣は、感情のない声で

「……大丈夫」

と答えた。


月明かりと雪明かりが、二人の影を長く、冷たく伸ばしていた。


二十六歳でやっと選ばれた日。その願いは、雪と月明かりだけの部屋で、静かに処女を失うことで叶えられた。


そして、誰をも満足させることはできなかった。

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会津の娘は26で白無垢を着る。だから私は… ゆうこ @yuko_art_museum

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