第2話 だから私は、彼の手を握った…

 ──2005年10月23日(日曜日) 会津若松市内


 彩に半ば強引に背中を押され、

「婚前に一度くらいデートしなきゃダメでしょ!」

 と強引に決められた、二人にとって、人生初のデート。


 麻衣は緊張と期待に胸を膨らませ、紅音との待ち合わせの場所に向かう。

 先に待っていた紅音が麻衣を呼び、紅音の車に乗り込む。

 紅音の車は少し古い白のコロナプレミオ。

 助手席の麻衣は、シートベルトを締めながら小さく肩をすくめ車は走り出す。


 しばしの沈黙の後、

「デートならもっと気の利いた音楽でも流すべきだよな…」

 紅音が照れ臭そうに笑う。流れていたのはFM会津の昼ワイド。

「二十六歳、行き遅れって言われてるんですけど……」

 という投稿が読まれた瞬間、麻衣は思わず深く俯いた。

 慌てて周波数を変えるも、気まずさだけが二人を包む…。


 車は鶴ヶ城の外堀を回り、七日町の石畳を抜けて猪苗代湖畔を経由、磐梯山ゴールドライン方面へ向かう。

 五色沼湖沼群の紅葉が燃えるように綺麗だったが、二人の間には、やはり硬い沈黙だけがあった。


 昼を過ぎ、街に戻って食事にしようということになった。

 並んで歩きたい、手を繋ぎたい。胸にはそんな淡い期待が渦巻いているのに、

 不器用な二人は、ただ黙って七日町の石畳を歩くだけだった。

 紅音にとって、麻衣のその顔は緊張よりもつまらなさそうと感じていた。

 時折見せる麻衣の笑顔も、紅音にとっては焦りにしかならなかった。


 七日町の宝石店の前を通りかかったとき。紅音が急に立ち止まり、ショーケースを指差した。

「あの……麻衣さん、少し寄って行きませんか?」

 何かをしなければという焦りが、紅音の顔にはありありと滲んでいた。麻衣は小さく頷いた。


 店内には色とりどりのアクセサリーが並び、店員は優しく迎えてくれる。

 紅音は明らかに緊張している様子で、場違いな雰囲気に耐えているようだった。


 しばらくして、紅音は、

「すみません、先に外で待っててもらえますか?」

 と麻衣を促した。無言で頷き外に出る。後ろを振り返ると何やら紅音が店員と話をしている。

 麻衣は店の前で秋の高い空を見上げ、冷たい風に吹かれながら待つ。

 麻衣の胸の奥では、紅音が自分を誘って店に入った、あの数分のやり取りが幾度となく反芻されていた。もしかしたら、私宛ではないかもしれない。あの人は、ただの買い物に私を付き合わせただけかもしれない)

 そして数分後、紅音は小さな紙袋を手に現れ一言、


「……何も言わないで」


 麻衣は、なぜ待たされたのか。なぜこの場で紙袋を持ってきたのか。

 少し疑問に思ったが頷くしかできなかった。

 宝石店を背に、再び七日町の石畳を再び歩き出す。

 麻衣は歩調を崩さず、何気ない素振りで左腕のコートの袖口を軽く払い、

 次に左手の薬指に視線を一瞬だけ落とした。指輪はしていない。

 麻衣にとって紙袋の中身は、もしかして…そんな期待も込められていた。

 紅音はその動作に気づいた様子はなかったが、

 麻衣はそれだけで少しだけ息を吐くことができた。


 予約していた七日町の小さな洋食屋へ。テーブルを挟んで向かい合っても、会話は途切れがち…。

 コースを終え、食後のコーヒーが運ばれてきた。

 テーブルに置かれたコーヒーカップは、

 ソーサーからわずかにズレていた。

 麻衣はそっと、カップを正しい位置へ押し戻した。

 しかし、その小さな動き一つも二人の間の緊張をかえって強くしていた。

 紅音は意を決したように、テーブルの下で震える手を抑えながら口を開く


「麻衣さん……俺、本当に不器用でごめん。今日、つまらなかっただろ?この縁談、断ってくれて構わない。でも……今日のお礼に、これだけは受け取ってほしい」


 差し出されたのは、シンプルなオープンハートのネックレス。K18イエローゴールド。

 派手さはなく、しかし麻衣を確かに「大人の女性」として見据えた贈り物。


 麻衣はそれを見つめた瞬間、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 異性から、初めて「自分だけを思って」選ばれた贈り物。

 会津の「残り物」として諦めていた自分を、ちゃんと「女」として見てくれた証。

 堪えきれず、涙がぽろりと零れた。


 紅音は慌てて「え、嫌だった?ごめん、返せば──」

 焦り口調で言う。

 麻衣は首を振り、震える涙声で懇願した。


「……宗像さん。このネックレス、私につけてくださいませんか?」


 紅音は一瞬固まり、それからゆっくり立ち上がり、麻衣の後ろに回った。

 震える指で、そっと、チェーンを麻衣の首にかける。カチッ。

 小さな音が、静かな店内に響いた。


 ネックレスは最初ひんやりしていた。でも、すぐに麻衣の体温で温まっていく…。


 麻衣は、そっとバッグから小さな手鏡を取り出した。

 鏡に映った自分を見て、麻衣は息を呑んだ。そこにいたのは、

 会津の行き遅れの女ではなく、確かに誰かに選ばれた女だった。


 鏡の奥に、俯き加減で、どこか申し訳なさそうな紅音の表情が少しだけ映る。


 麻衣は彼の心を見抜き、鏡越しに、初めて心からの、慈愛に満ちた笑みを零した。

「……似合ってる?」


 紅音は慌てて顔を上げ、

「……うん…」

 声が、少し震えていた。


 麻衣は手鏡を閉じて、

「ありがとう」

 と、小さく呟いた。


 車に戻る道、麻衣は意を決して、紅音の手を握った。

 無骨で、緊張の為か少し汗ばんだ手。だが、その温もりは確かだった。


 麻衣は紅音の顔を見上げて、初めて、偽りのない笑顔を見せた。

 紅音も、照れ臭そうに目を逸らしながら、その手をしっかりと握り返した。


 2005年10月23日。


 会津の空は、まだ雪を降らせていない。

 でも、麻衣の首にかけたネックレスは、これから先、何年も何年も、少しずつ、確かに温まっていく…。


 だから私は、彼の手を握った…。

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