ひざまくら

南條 綾

ひざまくら

 玄関のドアを閉めた瞬間、湿った夜の空気といっしょに、一日の疲れがどっと押し寄せた。

スーツの上着をなんとか腕から引きはがして、そのままリビングまで歩く。

明かりのついた部屋からは、テレビの音と、ほんのりハーブティーの匂いが流れてきていた。


「おかえり。顔が死んでる」


ソファの端で、彼女が足を投げ出して座っている。

パーカーとスウェット、髪は適当に結んだだけ。仕事帰りの私と違って、生活の温度にちゃんと馴染んだ格好だった。


「ただいま。もう人間やめたい」


そう言って、私はソファの前にばたりと倒れ込んだ。

クッションに頬を押しつけると、そこだけやわらかい。


「そこ寝床じゃないわよ」


頭の近くで、指先がちょん、と床をつつく音がする。

顔だけ動かして見上げると、彼女が自分の太ももを軽く叩いた。


「ほら。こっちに来て。潰れるのならちゃんとこっちに来て」


「もう、自分で言い方ひどいって自覚はある?」


 文句を言いつつ、私は横向きになって、ずりずりとにじり寄る。

床の冷たさから、体温のある場所へと移動していく感じが、ちょっとだけ情けなくて、でも心地いい。

やっとたどり着いて頭を乗せると、布越しの弾力が額を受け止めた。太もものあたたかさがじわじわ広がっていく。


「はあ……ここが一番落ち着く」


「知ってる。十五年もやってたら覚えるよ」

彼女が笑いながら言う。指先が前髪を持ち上げ、こめかみのあたりをゆっくり押した。

そこだけ血が通い直すみたいで、自然と目を閉じてしまう。


 高一のとき、放課後の教室で、悪ふざけみたいに始めた膝枕。

あの頃は、こんなふうに疲れを癒やす儀式になるなんて想像もしていなかった。


「今日も、あの上司?」


 頭のすぐ上から、彼女の声が落ちてくる。


「うん。多分セクハラかパワハラ系なんだけどさ、多分言いがかりで終わりそうで、ちょっとつらい」


 口に出してみると、胸のあたりに引っかかってたものが、少しだけ形になる。

 正面から誰かに相談するほどじゃない。でも、一人で抱え込むには地味に痛い、そんな種類の疲れだ。


 彼女はすぐには何も言わず、こめかみを指先でそっと押した。


「おつかれさま」

それだけ言って、彼女は余計なことを足さずに、こめかみを少し強めに押した。

慰めの言葉より、その指の圧のほうがよっぽどうれしくて幸せを感じじゃう。

テレビから流れてくる笑い声が、だんだん遠くなる。

代わりに、彼女の呼吸と時計の音が、耳の奥ではっきりしてくる。


「ねえ」

自分でも、何を言いたいのか完全には決まっていないまま、思ったことを言ってみた。


「十五年って、けっこうすごいよね」


「そうだよね」

彼女はすぐには続けず、私の額にそっと指を滑らせる。

その間が、逆にやさしい。


「高校から付き合って、大学も一緒で、社会人になって同棲して……気づいたら三十代で、まだ膝の上に綾の頭あるの、ちょっと面白い」


「今さら?」


「今さらじわじわくる」

膝の上で笑うと、太ももが少し震えた。

私たちは、特別ドラマチックなカップルじゃない。

大喧嘩もあったし、離れた時期もあった。それでも結局、同じ部屋に戻ってきて、同じソファでだらだらしている。


「後悔してる?」


彼女がぽつりと聞いた。声の高さが、さっきより少しだけ低い。


「何を」


「私と、十五年も付き合ってること。他の恋愛とか、もっと色々しておけばよかったとか」


指先が、一瞬だけ動きを止める。

その小さな戸惑いに、私は笑ってしまいそうになる。


「それ、十代で聞かれたら悩んでたかもね」


「今は?」


「今は……めんどくさいからいいや、って思ってる」


「ひど」


抗議の声といっしょに、前髪をくしゃっとされる。


「だってさ。修学旅行の夜、周りが失恋とか片想いの話で盛り上がってたじゃん。

 ああいう、ちょっと付き合ってすぐ終わった恋バナを全部集めたところでさ。十五年分の膝枕には勝てないでしょ」

自分で言っておきながら、少しだけ胸の奥がむずがゆくなる。

きれいごとに聞こえないといいな、と思いながら、私は彼女の反応を待った。


「たまにさ、その口のうまさで逃げてない?」

頭のすぐ上から、半分笑ってる声が降ってくる。


「逃げてるかなあ? 思ったこと言ってるだけだよ」

考えて話すの面倒だから、思ったことだけ言ってるんだけどね。

考えるとしたら、うまくまとめようとしてる自覚はあるかもしれない。


「……そういうとこ、ずるいんだよね」

そう言いながらも、撫でる手つきはさっきよりやさしくなっている。指が耳の後ろをなぞって、首筋に触れないぎりぎりのところで離れていく。その距離感が、長く付き合ってきた証拠みたいでくすぐったい。


「……でもさ」

彼女が小さな声で続けた。


「この先も、こうしてていい?」


「こうして、って?」

何を言い出そうとしてるんだろう?

私は彼女の顔を見ながら聞いてみた。


「綾が仕事でぐちゃぐちゃになって帰ってきてさ。ここに転がってきて『膝貸して』って顔して。三十代でも、四十代でも、その先もさ」

天井の明かりに縁取られた横顔は、高一の頃より少し大人になっているけど、笑うときに目じりが緩む癖は変わっていない。


「それ、私のセリフじゃない?」


「え」


「この先もずっと、ここ帰ってきていいんでしょ、って確認するのは、こっちの役目だと思ってた。この家契約してるのあんたじゃん」


彼女が少しだけ目を丸くして、それから視線をそらす。耳の先が、うっすら赤くなった。


「いいよ。飽きるまで貸す」

私はそう言って目を閉じた。


「飽きるって言い方やめて」


「じゃあ、一生レンタル」


「それもなんか違うと思う」

そんなふうにくだらないやりとりを続けながら、まぶたがゆっくり重くなっていく。

意識が沈んでいく先に、会社の風景は出てこない。あるのは、この膝と、この匂いと、この声だけだ。


 世間体とか、親にどう説明するかとか、怖いものはまだたくさんあるけど、それでも今の私には、この太ももの重みの方がずっと現実だ。

十五年一緒だろうが、この人がそばにいてくれるなら、この先もきっと大丈夫だと思う。


 彼女の指が、もう一度だけ髪をやさしくなでた。

その手つきがさっきよりゆっくりになって、まぶたの重さが限界まで深くなる。

そのまま意識がふわっと沈んでいく。最後に残ったのは、太もものぬくもりと、髪を撫でる感触だけ。

十五年も、これからも。ずっと一緒にいようね。

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