僕が船舶免許を取る理由

わちお

あの時、あの船の上で

電車は、熱海のあたりを走っている。

窓から外を見ると小さな街の向こう側に広がる海が、水平線で空と一つになり、視界のほとんどを青く染めている。


ボックスシートの向かいに座る高校の頃の同級生はまだ船舶免許の話をしている。


「で、船舶免許取るのはいつ?」


まったく、事あるごとにこれだ。

これはある時、僕がひとりごとで"船舶免許が欲しい"などと言ってしまったが故に始まったノリである。


普通ならそこまで笑われるような話ではないのだが、なんと言っても僕達は揃いも揃って埼玉県うみなしけんに住んでいる。内陸、実家暮らし、常時金欠の僕が船舶免許など取ってどうしようというのか、というところで未だに友達が面白がってネタにするのだ。


実際、取りたいというのは冗談ではない。かと言って取れるものでもないが。


彼らの雑な冗談を聞き流しながら窓の外の海を眺める。僕が少しだけ、ほんの少しだけ船舶免許を取ろうと思っている理由は、何も海が綺麗だからだけではないのだ。


_____2年前 奄美大島_____


半袖をさらにまくり上げ、首に垂れる汗を拭う。

鹿児島の夏は蒸されるような暑さだった。それゆえに視界を覆う海はとても魅力的に見える。


ヨットの上から見る加計呂麻の海の美しさを僕は一生忘れないだろう。その海は信じられないほど透き通っていた。海底の魚と目が合ったのはこの時が初めてだ。


周りに浮かぶ島が入り組んでいるが故に波がほとんど起こらない凪いだ水面は、晴れ渡った空と溶け合い、幻想的な景色を作り上げている。


人の手が全く施されていない完全な"自然の美"に

僕はその時脳を殴られたような衝撃と感動を覚えた。


「海ってのは綺麗だろ」


「えぇ、来てよかったです、本当に」


タツさんはこのヨットの持ち主で、父の知り合いだったが故に今回、うちの家族旅行のために海を案内してくれたのだ。


「夢の中みたいな景色です」


加計呂麻の砂浜からこちらを見つめる両親に手を振りながら呟いた。


「ヨットの上で生活してれば、こんな景色が毎日見れる、地上にいるうちは人は窮屈だよ」


「でも、なんだか寂しい景色にも見えますね」


「そう、いつもお前らくらい騒がしいのが居りゃ良いんだけどなぁ」


苦笑いしながら遠くに沈みかける夕陽を見つめる。穏やかな水面に、夕陽に向かって一直線に金色の道が出来ている。この時、高校生だった僕には、遥か向こうで海の中に沈んでゆく夕陽に照らされたこの景色が、自由の象徴であるかのようにさえ思えた。


「ハルカがいた時も、このくらい騒がしけりゃ良かったんだけどなぁ」


「ハルカ?」


「娘さ。今頃おまえくらいの歳だったろうよ」


タツさんは少し俯きながら抑揚の少ない口調で話している。


「今は...」


そう言いかけた時、タツさんは少し遠くの海の下に何かを見つけたようだった。実際僕にもその時何かが海底で光ったように見えた。


「ちっとばかしヨットを頼む」


そう言い残すとタツさんは少しの迷いもなく波紋を残して海に飛び込んでしまった。これまでも数えきれないほどそうしてきたのだろうという、手慣れた様子だった。


海の上に1人取り残された僕は、ほんの少しの息抜きと自由を手にした(ように感じた)。

思い切ってヨットの上で仰向けに寝転がってみるとこれがなんとも気持ち良かった。


寝転がると、立っていた時よりもヨットの揺れが直に伝わり、自分が今、広大な海の上にいるのだという実感に包まれる。


ほどよい海風と雲ひとつない夕方の空も相まって、なんだが少しばかり眠りたくなる。こんな絶景の中で眠れたらどれほど気持ちが良いだろうか。


ゆっくりと3つ数えて瞳を閉じる。

さっきまで目で見ていた景色を、今度は身体全体で感じる。海の匂い、ヨットの揺れ、風の音。


全身で感じ取り形成された景色が、まぶたの裏で信じられないほど鮮明に美しく浮かび上がる。そうすると、なんとなく僕自身が周囲の景色に溶け合ったような、同化したような不思議な感覚に襲われた。


少しの間、海に揺られながらまぶたの裏で旅をしていると、頭の上で石と石がぶつかったような音がした。


「あ、起きた」


目を開くと、見たことのない少女がこちらの顔を覗き込んでいる。


情けない声と共に僕は跳ねるように飛び起きた。

高い声で笑う少女は、褐色の肌に包まれている。紺色の水着に包まれた身体は細身で引き締まっている。高いところで結んだポニーテールと、首に下げている貝を繋いででできたネックレスが、少女の強気な性格や海に住む境遇を物語っている。


「い、いつからここに?」


少女はさっきまでタツさんの座っていた樽の上に腰掛ける。僕の質問には答えずこちらを見つめている。


何から何まで不思議だった。いつからここにいたのか、どうやって体も濡らさずここに来たのか。


聞きたいことだらけだったし、実際たくさんの質問をぶつけたが、少女は何にも答えなかった。


「綺麗だよね、この海」


少女はやっと口を開いた。上手く言えないが、彼女の声は海に吹く風やさざ波の音色を彷彿とさせた。なんとなく懐かしいような透き通った綺麗な声だった。


「あぁ、とても綺麗だと思う」


僕は意外とすんなりとその少女の存在を受け入れた。


「でも、ちょっとだけ寂しい」


少女は、向こうに続く海の、更に先を見ていた。

その目には、言葉通りの寂しさが浮かんでいる。


「それはなんとなくわかる気がする」


僕も彼女と同じ方を向いて言った。

少女は嬉しそうにはにかんで、隣に座り直した。


「私、この海が好き。だからずっと、ずーっとここにいるの」


僕は何も言わなかった。目を瞑って寝ていた時と同じ心地よさがその瞬間、そこにはあった。


「ここで寝るとさ、すっごい気持ちいいでしょ」


「うん、そりゃあもう。信じられないくらい」


僕はそこから少しの間、少女と同じ時を過ごした。長いような気もしたし、短いような気もした。なんだか時間の外側にいたような気分だった。


「君、名前は?」


「...優吾ゆうご


僕はそう答えた。


「また会える?」


「ここに来れば会えるよ」


彼女は再び笑った。

次の瞬間、船の下からばしゃっという音がした。

タツさんが戻ってきたのだ。タツさんは右手に何かを握っている。


「...待ってるよ」


耳のすぐ近くで声がした。

はっとして視線を戻した時、既に少女はいなくなっていた。


「いやぁ、まさかこれだったとは驚いた。

ほれ...ん?どうかしたか」


「...いえ、なんでも」


「そうか、まあいい。そうだ、これはお前にやろう」


そう言ってタツさんは僕に"それ"を手渡した。


_____2年後 現在_____


「優吾〜」


友達の声で目が覚める。

まだ電車は静岡を走っている。


「船舶免許って合宿で取るんだな。免許自体は短期間で取得するんだ」


「取る前提で勝手に調べるな」


とはいうものの、船舶免許はいつか取得したい。

馬鹿げた話だということは、自分でもよくわかっていた。


けれどなんとなく、あの日のことは忘れたくなかったし、無視もしたくなかった。


いつになるかも実現するかもわからない。


けれど僕は再びあそこに行きたいのだ。


「いつも思ってたけど、それどこで買ったの?」


「あ、これはね2年前に奄美でもらったんだ」


僕はそう言いながら首につけた貝のネックレスを鳴らす。石のぶつかる音と、潮の匂いがした。


「降りるのはまだ先?」


「うん、まだ1時間くらいかかる。ゆっくり昼寝でもしようや」


僕は3つ数えて目を瞑った。


まぶたの裏にはあの日の景色が浮かんでいる。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕が船舶免許を取る理由 わちお @wachio0904

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画