💔 余命三ヶ月』で手に入れた愛と、健康になって失った居場所

Tom Eny

💔 余命三ヶ月』で手に入れた愛と、健康になって失った居場所

💔 余命三ヶ月』で手に入れた愛と、健康になって失った居場所


序章:定時後の二時間


田中悟(45歳)の日常は、定時で終わる。だが、早く帰ると妻の純子(43歳)と娘の葵(17歳)に邪魔者扱いされるため、悟には**「定時後の二時間」**を費やす場所があった。


駅前の寂れたゲームセンターの裏にある、誰も来ない休憩スペース。ベンチの錆びついた冷たさが、長年冷え切った悟の背中に心地よかった。


そこで悟は、誰にも言えない恥ずかしい趣味のコレクション――マイナーなSFアニメのフィギュアを並べ、眺める。手のひらに乗せたプラスチックの塊。彼らに話しかける時だけは、家族に必要とされない日々の、唯一の本物の居場所にいることができた。この「秘密」は、家族を愛していない、逃避している証拠だと、悟は心底思い込んでいた。


第一章:偽りの熱


ある日、胃の不調で受けた精密検査の結果、悟は**「余命三か月」**の宣告を受けた。肺に影が見つかったのだ。


診察室。頭が真っ白になった悟の隣で、純子は嗚咽を漏らし、震える手で悟の手を握りしめた。葵は「パパ…」と嗚咽をこらえながら涙を流す。


悟は思った。(ああ、これが愛か。自分は生きていても必要とされない人間だった。死ぬことで、俺は初めて家族の愛を手に入れたんだ)


その日から、悟の人生は一変した。


「パパ、定時になったら真っ直ぐ帰ってきてね。ご飯、一緒に食べよう」 葵の呼ぶ声は、長年聞いたことのない優しい音程だった。


純子は毎日、悟の好物を丁寧に作り、その鰹節と醤油の温かい香りがリビングを満たした。長年、インスタントカレーの匂いしか知らなかった食卓が、初めて家族の温もりで満たされたようだった。


夜は、背中をさすられる手のひらの確かな熱を感じながら、「無理しないで、ずっとそばにいるから」と語りかけられた。それは、何年も凍りついていた心を解かす、薪ストーブのような熱だった。長年の冷たい日々が嘘のように、悟は愛されているという幻想の暖炉にあたった。彼はもう、駅前の休憩スペースに逃げる必要がないことに深く感謝した。


しかし、悟の身体は「死」を受け入れなかった。咳も出ず、食欲は旺盛、夜は快眠。病院の数値は健康そのもの。悟は**「病魔が私を欺いている」**と真面目に思い込み、弱々しい態度を保った。家族を不安にさせまいと、偽りの病人の役割を全うし続けた。


第二章:居場所の破壊


余命が一週間を切った夜。悟は人生の精算を決意した。自分が死んだ後、家族が「偽善者だった」と後悔しないように、愛を確かめるための、痛切な自己批判を決行する。


リビングの緊張感が極限まで高まる。悟は涙を流しながら、告白した。


「純子、葵。パパは、もうすぐ旅立つ。最期に、話しておかなければならないことがある。……純子。結婚して初めて君が作ってくれた味噌汁を、不味すぎてこっそり洗面所に流した。葵。お前の受験の時、こっそりお守りの袋を開けて中身を見た。ごめん、ごめんよ!」


純子と葵は、怒るよりも先に、困惑と呆れが混じった顔で硬直した。悟の涙と告白の奇妙なギャップに、沈黙が落ちる。(なぜ今、そんなことを…?) 家族の間に、重い「間」が生まれた。


そして深夜、悟は愛用のマイナーSFフィギュアを抱え、裏庭に出た。


「すまない、サユリ。君たちは、**俺が家族の愛を手に入れたと信じるための、捨てなければならない「恥」**なんだ」 悟は真剣な顔でフィギュアの首を一つ一つ折り、決して燃えないように細かく裁断し、ゴミ袋に詰めた。


その時、トイレに起きた純子が窓からその光景を見てしまった。純子は悟の真剣な顔と、フィギュアの惨状を見て、胸を熱くして涙した。彼女の愛の演技は、彼には本物として届いていたのだ。


第三章:冷たい回帰


翌日、運命の再検査。


主治医は晴れやかな顔で言った。「田中さん。前回の『影』は、画像診断の稀なエラーでした。あなたは全く健康です」


悟は歓喜の声を上げるはずだったが、隣の純子の顔を見た瞬間、言葉を失った。


数秒間の、凍り付くような沈黙。


純子の表情は、安堵と共に、長年の罪悪感から解放されるための「努力」が無駄になったという、深い疲労と冷たい徒労感を帯びていた。それは、冷酷な日常への帰還を予感させる、重く、低い音程を持った表情だった。


その数日後。定時で帰宅した悟は、リビングのソファで横になっている純子に優しく声をかけた。


「純子、ただいま。今日は、何を話そうか」


純子はスマートフォンから顔を上げ、氷のように冷たい声で言った。「ああ、お帰り。悟さん、元気なんでしょ。いつまでも家にべったりいると邪魔だわ。私は疲れているから、どこかへ行って時間でも潰してきて」


葵は自室から出てこず、悟の呼びかけに、わざとらしい嫌悪感を込めて「うわ、くさっ」とだけ返した。


悟は、リビングの空気の重さに居場所がないことを悟り、静かに家を出た。


終章:生きている罰


向かう先は、駅前の寂れたゲームセンターの休憩スペース。彼はベンチの錆びついた冷たさを背中に感じながら座り込み、スーツのポケットに手を入れ、何もない空洞の重さを確認した。


愛する家族のために、本物の居場所であった趣味の友人を、自分の手で破壊したのだった。


命は助かったが、愛と居場所を失った悟は、誰もいない夜の湿った空気の中で、ただ座っているしかなかった。


彼は、死を餌に手に入れた偽りの愛の重さと、自分の手で本物の居場所を葬り去った愚かさを、誰も来ない夜の休憩スペースで、ただ静かに噛みしめた。彼は、生きている罰を、その孤独な場所で背負い続けた。

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