その4
「――次の村までって、どれくらいなんですか?」
「この山を越えた先にあるという話だよ。僕の経験からして……明日には辿り着けるんじゃないかな」
木々の合間から差す日差しが、小川の水面で美しく輝いている。
姿は見えないが、小鳥がたくさんいるのだろう。チッチッという囀りが朝の山道を賑やかに彩っている。
そんな道中を、ボクたちは雑談を交わしながら進んでいた。
――結局、昨日はあれからすぐにぐっすり眠っちゃったな。
ご馳走を食べ終えて体が温まってから、ふと気が付くと意識が無くなってしまっていた。
立て続けに色んなことがあって、色んなことを知って、疲れていたんだと思う。
どうやらボクは随分長い間熟睡していたらしく、起きた頃には二人は既に昨日の片付けを終わらせて出発の準備を整えていた。
流石だなぁと感心する一方で、呑気に一番眠ってしまっていたことが少し気恥ずかしくもあった。
「シャルとアダムスさんって、どのくらい旅を続けてきたんです?」
旅慣れた様子の二人が気になって、ボクはそう問いかける。
「僕は……何年だったかな。もう数えてもいないけど……多分、五十年以上はやってるんじゃないかな」
「五十年……」
ボクには気の遠くなるような歳月に感じられるけど、天望人としての感覚ではどのくらいのものなんだろうか?
その口ぶりからするに、短くはない時間という風に感じられるけど。
「シャルはどうなんですか?」
一歩先を歩いているシャルに、ボクは同じように尋ねた。
シャルは振り返らないまま、小さく答える。
「私は……まだ、数か月だよ」
感情のくぐもったような声だった。
――数か月? 旅に出たばかり……ってこと?
もしかしたら、とは思っていたけど。
ひょっとするとシャルは、まだそれほど長い年月を生きていないのかもしれない。
「――あ、そうだ。そこの地面、滑りやすいから注意してね」
そんな中、先頭を歩くアダムスが突如振り返って指を差した。
そしてそこはちょうど、ボクが踏み出そうとしていた所で――
「わっ」
アダムスの注意で逆に気を取られて、ボクの足はつるりと地の上を滑り出す。
踏ん張りの効かなくなった体が前方に投げ出され……何か支えになるものを探して、両手が宙を掻いた。
……その結果。
「――ぴゃっ!?」
ボクは目の前の黒い物体にしがみ付くことで事なきを得たのだった。
……そしてそれは紛れもなく、シャルの肉体であった。
――トクントクントクン……
彼女の鼓動が、背中越しに頬から直接伝わる。
大きくて速い、心臓の音。
それを聞いて、ボクは遅ればせながら……今、何が起こっているかを理解した。
――あ、わ、わ。
少し汗ばんだ女の子の匂い。
黒い衣越しに感じる彼女の肢体は、華奢でありながらも僅かに筋肉質で、そして柔らかかい。
――ドクンドクンドクンドクン……
彼女のそれに合わせるように、ボクの心音もまた一気に最高潮にまで達する。
今聞こえているのがどっちの心臓の音なのか、もうそれさえも分からない。
そんな濁流のように押し寄せてくる情報たちに、ボクの脳はその機能を停止させる。
有り体に言えば、パニック状態になっていた。
「――えっと……」
……何秒、そうしていたのだろうか。
多分実際は、ほんの一、二秒ほどの刹那の出来事だったのだと思う。
でもボクにはそれは、永遠にも等しい時間のように思えた。
「は、離れてくれないか?」
「あっ、ご、ごめんなさい!」
困惑したようなシャルの声を受けて、ボクの体はようやく制御を取り戻す。
弾かれたように両手を離して、姿勢を整えた。
「いや、すまない……人に突然触れられるのは、苦手なんだ」
振り向いたシャルが、前髪を弄りながら小さく呟いた。
その顔が真っ赤に染まっているのを見て、ボクの頬もかぁっと熱くなる。
「おーい、あんまり遅れてると置いて行きますよー」
「あ、あぁ。今行く!」
前方で手を振るアダムスの声に、シャルは何事もなかったかのように前を向いて再び歩き出した。
――……。
まだ、心臓がバクバク言っている。
耳鳴りがしているみたいに、全ての音が遠い。
――女の子なんだ、シャルって……。
まだ手のひらに残っている柔らかな感触の余韻を感じながら、そんな感想が脳裏を過る。
彼女が見た目通りの少女であるという確信は、よく考えてみればこの世界では特異極まることのはずなのだけど……あいにくこの時のボクには、そこまでのことを考える余裕はなかった。
◇ ◇ ◇
それから数時間、合間に休憩を挟みながら山道を上がって行った。
先の件もあって、少しシャルとは言葉を交わしづらくなってしまっていた……が、それを察したのか、アダムスは行進の隊列を変え、彼自身が間に挟まる形に繕ってくれたおかげで、それほど気まずいという空気にはならなかった。
そして空が再び橙色に染まり始めた頃、ボクたちは遂に山頂へとたどり着いた。
「――わぁ、綺麗……!」
確かマジックアワー、というのだったろうか。
青と赤、そして黒が交じり合うような複雑な空模様に照らされて、見下ろす木々は紅葉でもしたかのように色鮮やかだ。
すっかり姿は遠くなってしまったけれど、振り返ると逆さ木も薄っすらとその輪郭を現し始めている。
星々の代わりに空を走る根も、その輝きを主張し始めていた。
「あぁほら、目的地が見えた。あそこだよ」
「あれが……」
アダムスの指差す先には、確かに集落のような建築物の集まりの姿があった。
――あそこに行けば、とりあえずゆっくり出来る……。
ようやく視覚的に確認できたゴールの存在。
「ふぅ……」
ボクはその安心から、ゆっくり息を吐いた。
「はは、流石に疲れただろう。今日はここで休むとしようか……シャル君、火起こしを手伝ってくれないか?」
「あぁ、分かった」
アダムスはリュックサックを下ろしつつ、こちらを見てにこりと笑って見せた。
多分、「ここは僕たちに任せて、休んでおいで」ということだろう……。
さっきのため息は疲れからのものではなかったのだけど、実際流石に疲労が蓄積しているのは確かだったし、何より『火』を見ないで済むのはありがたかった。
ボクはアダムスの好意に甘えて、少し休みながら草原を散策することにする。
「……あれ?」
しばらく付近を歩いていると、倒木に座る人影のような姿を発見した。
一瞬、アダムスかシャルかと思ったけど、振り返って確認しても二人はまだ火起こしの最中だ。
――?
しばらく様子を伺ってみるが、どうにも動く気配がない。
――確かめて、みよう。
足音を立てないように、ゆっくりと近付く。
徐々にぼやけていた輪郭がはっきりとしていき……そして。
「――……像?」
隣にまでたどり着いて、ボクがその外見に対して抱いた感想は、正に木彫り像だった。
全く精巧に作られた、人の像。
その肌は、茶色く乾いた樹皮のようだ。
丁寧に服まで着せてあるせいで、一見すると本当に人間のように見える……。
――というか、見れば見るほど……。
それは、今にも動き出しそうな生々しさを感じさせた。
「――いや、人だよ」
「え、うわっ!」
いつの間に背後に立っていたのか、シャルがボクの肩に触れつつ言った。
「――静かに。起こしてしまうかもしれない」
「人? ……この人は、眠っているんですか?」
ボクは気を取り直しつつ、小声でシャルに尋ねる。
どうやら火起こしは終わったらしく、シャルの背中越しに薄っすら背景が明るくなっているのが見えた。
「あぁ。言っただろう、天望人は『不老不死』だと……。それは逆に言えば、『死にたくても死ねない』ということでもあるのさ」
――『死ななくなってしまった』。
昨日、アダムスが言っていた言葉が思い起こされる。
「必然的に、いずれ精神の方が先にすり減って限界を迎えることになる……。そうしていつしか意識を手放して、永遠に眠り続ける像のようになる」
話を聞きながら、ボクは目前の彼の顔の前に手をかざす。
――息……してる……。
浅くではあるけど、温かな吐息が手のひらを掠めた。
その気持ち悪さに、ボクは震える。
「――これが天望人の終わりさ……いや、これは終わりですらない。ただ生きてはいるというだけの屍だよ」
「そん、な……」
天望人の最期が、こんな姿だなんて……想像もしなかった。
傷が治り、死んでも蘇り、永遠に老いず、生き続けられる……。
それは間違いなく、人類の夢だった……そのはずなのに。
――いずれ、ボクもこうなるの?
そんな想像に、怖気が走る。
いつか生きることに、生き続けることに疲れて、彼と同じように……何処かで眠り続けるのだろうか。
誰からも忘れられた場所で、唯独り。
「こんな風に眠る天望人は世界中に居る……君と出会った場所の近くにも居たから、君が今着ている服と靴は、彼の荷物から拝借したんだ」
「そう、だった……んですね……」
淡々とシャルは説明を続けていたが、正直それどころではなかった。
――確かに……どんな風に人生が終わるのか、なんて想像もしなかっただろうけど……。
数百年の眠りに付く前、恐らく普通に暮らしていた頃のボクは、多分。
――でも、こういう終わり方しか出来ないなんて、それは嫌だよ……。
いつこうなるのか、それは分からない。
でもいずれこうなることだけは、決まっている。
永遠に死ぬことができないということは、つまりはそういうことだ。
終わりのない、終わり。
「――そろそろ戻ろう。あまり刺激しない方がいい」
「分かりました……」
シャルに連れられて、ボクはアダムスの所に戻った。
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