その5
「あれ? アダムスさん、何やってるんですか?」
彼は焚火から少し離れた場所で、何やら枝木を組み立てて台座を作っているところだった。
そしてそこに、煙を発する小さな四角い箱のような物を置いている。
「――あ! 煙にはあんまり近付かないでね! これは獣避けのお香なんだ……」
「獣避け?」
「うん。唐辛子を細かく潰したものと、ブナ科の樹木の樹皮を混ぜて焚いた特製のお香さ……キツめの催涙作用があってね、獣の類にはよく効く」
「ゴホッゴホッ」と咳き込みながら、アダムスは答える。
どうやら煙そのものに触れなくても、それなりに準備には苦労する品のようだ。
「――ゴホッ……といってもまぁ、唐辛子は昨日かなり使ってしまったから、効果は普段より半減しているだろうけどね……。それでも、普通の獣相手なら充分のはずだよ」
「なるほど……」
流石、五十年以上旅を続けてきたという大ベテランだ。
確かに山道で寝泊まりなどするとなれば、獣に襲われるなんてことは想像に容易い。
対策もバッチリというわけだ。
「良かったら配合の割合とかレシピについて、後で教えようか……ゴホッ」
「あぁ、ぜひお願いしたい」
珍しく、興味のある様子のシャルが首を縦に振った。
「OKだ……ま、それじゃそれはともかくとして……一旦飯の準備をしようか!」
お香の設置を終えたアダムスが、ぱんと手を叩く。
「あ、今回はボクにも手伝わせてください!」
「お、助かるよ~。料理、好きなのかい?」
「はい、好きです!」
――あれ? そうだったの、ボク?
自分で言ったことだが、自分で困惑してしまった。
無意識の内に、勝手に口が反応したというか……。
――あ、じゃあ多分ほんとに好きだったんだ……。
星について思い出した時のように……何だか、しっくりとくるような感覚があった。
アダムスが今度はシャルに向き直って尋ねる。
「シャル君はどうする?」
「……やったことないから、いい」
料理を、ということだろう。
それだけ言うと、彼女は目深にフードを被り直して、スタスタと歩いて行ってしまった。
「出来上がったら呼ぶから、一緒に食べよう!」
アダムスが大きく声を張り上げると、彼女は一瞬だけ振り向き、小さく頷いたようだった。
「――ふぅ。彼女、中々気難しいね」
「……そうですか?」
「うーん、なんていうのかな。厳格……真面目? 常に何かで抑え付けているような感じがするよね」
本当はそこから出たがっているのに。
アダムスはそう付け加えた。
「料理を手伝えないからってさ、多分今日食べないつもりだったろ? あの子」
「食べるのは、好きそうでしたけど……?」
昨日の食いっぷりを思い出して、ボクは呟く。
「うん、だからこそね。役に立てないなら、褒美にありついてはいけないって思っているのさ。幸せを得ることに理由なんて要らないのにね」
アダムスはくすりと笑って肩を竦めた。
「あの子が腹いっぱいになって笑ってる所が見てみたいね、僕は」
「それはボクも見てみたいです!」
料理のあまりの美味しさに満面の笑みを湛えるシャルの姿を想像すると、自然とボクの口許も緩む。
――シャルに、笑って欲しいな。
まだ出会ってからたった二日目だけど。
ボクが作った料理でそれが出来たら、凄く嬉しいと思う。
「よし、なら本日からさっそく試してみようか! ポット君、野菜を切ってもらえるかい?」
アダムスは意気揚々と声を張り上げると、リュックサックから野菜とまな板、包丁を取り出し、順番にボクに差し出した。
――包丁……。
先ほどまでは何とも無かったのに、その刃を目にした瞬間ゾクッと背筋に寒気が走る。
料理なんて、当然包丁を使うに決まっているのに。
――なんでこんなものが怖いんだ……。
「――ポット君?」
「いえ、大丈夫です!」
ぶんぶんと首を振って、包丁を手に取る。
右手が震えはするけど、何とか切るくらいなら出来そうだ。
まな板の上に野菜を置き、左手を添えて包丁の刃を当てる。
一度切れ込みさえ入れてしまえば、あとはそれに沿って力を込めるだけで良い。
集中力というか……精神的な負荷は重いけど、何とか進められそうだ。
――本当に、何なんだろう……これ。
刃と、炎。
トラウマ……という奴なのだろうか。
ただ意識するだけで、倒れてしまいそうになる。
けれど料理が好きというのも事実のようで、シャルの大鎌なんかに比べれば、包丁を握ること自体はそれほど辛くはない。
――ということは、やっぱりボクの『酷い死に方』に何か関係あるのかな……?
刃と炎が、ボクの死に関わったとすれば……うっ。
脊髄が凍るような感覚に、それ以上の思索を放棄する。
やっぱり、あまり考えないようにした方が良さそうだ。
「できました!」
何とか作業を終えて、アダムスの所に切り分けた野菜を持っていく。
「ありがとう。そのまままとめて鍋に入れてくれるかい?」
彼は焚火から分けた火元で鍋を熱しながら、何やら穀物を炒めている様子だった。
目を細めて、その中身だけに集中するようにしながら、ボクは尋ねる。
「今日は何を作るんですか?」
「野菜と麦の炒め物さ。手早く作れるし、腹持ちも良いんだよ」
「へぇ~! 美味しそう……」
調味料の香ばしい匂いが漂い始めた鍋の様子に、早くもじゅるりと涎が落ちそうになる。
完成に胸を躍らせながら、ボクが言われた通りに野菜を鍋に入れようとした……その時だった。
――オォ――ン……。
嘶き。
慟哭にも似たそれは、この山頂の草原のすぐ傍から発されたもののようだった。
「……遠吠え?」
月明かりの中響いたその鳴き声。
狼の類がやるそれを真っ先に思い浮かべながら、ボクは呟く。
「――これは……まずいことになるかもしれないな」
隣を見ると、険しい表情のアダムスが鍋を置き、マチェットナイフを手にしている所だった。
その手は僅かに震え、緊張が走っている。
「け、獣避けのお香があるから大丈夫なんじゃないんですか?」
「『普通の獣』相手なら、ね……今の鳴き声は、多分……」
普通じゃない。
そうアダムスが口にした瞬間、遠くの草むらから、黒い影が地面を転がり出てくる。
あれは……シャルの姿?
「――源生物だ!」
今まで聞いたことのない大きな声で、シャルはこちらに向けて鋭く叫んだ。
そして直ぐに起き上がり、草むらの奥を見据え……手元のナイフを構える。
「……げん、せいぶつ?」
「――人は種を得ることで不死の力を得た。じゃあそれを他の生物が手に入れたら、どうなると思う?」
厳かな口調で語り始めるアダムス。
その言葉に、ボクの頬を一筋の冷や汗が伝う。
種は、人類全てを進化させるに足るほど、この世に数多く存在する。
何故それほどに世界中に溢れている力が、『人だけのものだ』と今まで思い込んでいたのだろう。
何かのきっかけで種を飲み込む生物など、それほど山のように居てもおかしくはない。
「一説によると、種の本来の力は『種族の願いを叶えること』だと言われている。人の場合は個体間の望みが細分化されてしまい過ぎたから、大雑把な進化の形として不死という『時間』が与えられた。大抵の望みは時間さえあれば叶うものだからね」
地響きが、足を通して地面から伝わる。
草むらの先、木立の闇の奥から、確かに何かが近付いてきている。
「それと同様に、もし他の生物が種を手に入れると……その種族毎に特化した形質が現れる。そうして種の力によって進化した生物こそが、『源生物』さ……――くるよ」
「――っ」
林の陰から現れる、黄金の双眸。
月明かりが照らす草原に、ソレは一歩、二歩と踏み出してくる。
鏡のような銀の毛並み。
鋭利に尖った爪と牙。
ソレが本来示すのは、触れるもの全てを拒絶するような孤高さ。
だが今の彼は怒りに歪んでいるのか、シャルを見据えたまま唸りを上げている。
「狼……」
見たままの感想を、ボクは呟く。
だがその尋常でない姿に、同時に息を呑んだ。
――おお、きい……。
その体は、余りにも巨大過ぎた。
普通の狼の……優に四、五倍はある。
確か、世界最大の肉食動物はホッキョクグマという話だったが……それの二回りは大きいだろう。
狼というより、突然変異した牛だと言われた方がまだ納得できる。
だがその全身から溢れ出す殺気は、確かに獲物を捕らえる捕食者のそれだった。
――あれが、源生物。
種の力によって進化した生物。
まるで神話の物語に登場するような存在だ。
その神々しさに……この危険な状況も忘れて、何処か感動のようなものすら覚える。
「――オォ――ン……」
銀の大狼は、月に向けて再び嘶いた。
今度は間近で発されたその大気の震えに、ビリビリと全身の皮膚が粟立つ。
――死。
脳裏を過るその一文字に、ハッとして我に返る。
彼から感じたのは、圧倒的なまでに力。
自分などより遥かに強靭で、強大。
自らの命の手綱を相手に握らせているという、根源的恐怖が全身を包む。
……だがこの場にあってただ一人、その恐怖すらものともしない者が居た。
「――ふっ……」
シャルは小さな吐息と共に低く身を構えると、手に握りしめたナイフと共に地を蹴り出した。
そのまま夜の影と一体化して、地面を滑るように大狼へと肉薄する。
「まさかやる気か、あの子!?」
隣で、アダムスが驚愕の声を上げる。
マチェットナイフを握るその手は、依然として震えていた。
――はぁっ……はぁっ……。
そして全く同様に……ボクもまた、この状況に竦んでただ身を震わせることしかできなかった。
……あんなものに、立ち向かえるわけがない。
「シャル……」
恐怖に全身を硬直させながら……彼女の無事を祈り、見つめる。
今ボクに出来るのは、ただそれだけだった。
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