第28話 ガンギマリ・ミノビーフ

 咆哮は、音というより衝撃だった。


 空気が押し潰される。

 肺の中身を、外から殴られたみたいに抉り出される。


 マジックバックが肩で跳ね、膝が一瞬、抜けかけた。


 同時に、頭蓋の内側で何かが弾けた。


 四層で腕を喰われたときの痛み。

 矢に脚を貫かれたときの振動。

 ゴブリンに押さえつけられたとき、背骨をなぞったあの冷たい汗。


 全部が、一度に蘇る。


(落ち着け)


 死線感知は、相変わらず全力で悲鳴を上げている。この距離で、あの斧をまともに食らったら―― 一撃で終わる。


 右足の裏に、薄く硬質化を乗せる。


 ミノタウルスが動いた。


 五メートルを超える巨体が、一歩で距離を詰める。地面の下で何かが潰れる音がした。


 床に張りついていた蔦と苔が、その蹄に踏み抜かれて弾け飛ぶ。甘ったるい樹液が飛散し、空気がさらに重くなる。


 斧が振り上げられる。

 可動域の限界を超えていた。


 肩関節が、あり得ない方向へねじれる。

 筋肉が裂ける音が、はっきりと聞こえた。

 白い骨が、皮膚の下で一瞬だけ浮き上がる。


 次の瞬間、その裂け目から赤い根が飛び出した。筋肉の代わりに、植物が補強している。


 根が骨に巻きつき、筋肉の代わりに関節を引き絞った。


 斧が振り下ろされた。


 死線感知が、喉笛を掴んだ。


 避けろ、とか、危ない、とか。

 そんな言葉に変換される前に、背骨の内側から体を蹴り上げる。


 右足を地面に叩きつける。


 波を通す。


 膝から腰へ。

 腰から背中へ。

 背中から肩へ。

 肩から肘、肘から手首――拳。


 全身を通った力が、右腕に収束する。


 斧の刃と拳がぶつかった。


 耳が、きしむ。


 骨に直接響くような振動。

 拳の中の小さな骨が、何本かまとめて悲鳴を上げた。


 硬質化していなければ、粉々だったろう。


 それでも、十分に痛かった。


「っ……!」


 声にならない息が漏れる。


 ミノタウルスの腕も、まともな衝撃を食らったはずだった。


 だが――奴は止まらない。


 裂けた筋肉の隙間から、赤い根が溢れ出す。

 

 骨に絡みつき、折れかけた箇所を内側から締め上げる。腕がさらに引き戻され、斧が別の軌道で迫ってきた。


(動かされてるんだ)


 ミノタウルス自身の意思ではない。


 胸の中で脈動する赤い瘤のような根の塊。

 あれが心臓の代わりに血と樹液を送り、神経の代わりに筋肉を操っている。


 生き物ではなく、“肉と骨でできた遠隔操作の道具”。


 そんな理解が、ぞくりと背中を冷やした。


 斧の風圧が頬を掠める。

 皮膚が浅く裂け、熱い線が一筋、頬を伝った。


 死線感知が、次の一撃を予告する。

 頭の中に、赤い線が走った。


 その線を掴むような気持ちで、横に跳ぶ。

 斧が、さっきまで俺がいた場所を粉砕した。


 石と樹液が混ざった破片が飛び散り、視界に白と飴色の斑点を作る。


 甘い匂いが濃くなる。

 吐き気と頭痛がセットで襲ってくる。


(嗅覚をやられてんのか……こいつ)


 息を浅くする。

 肺の奥まで甘い空気を入れないよう、意識して呼吸を切った。


 ミノタウルスの胸が、大きく膨らむ。


 赤い根の塊が、さらに速度を増して脈打つ。


 咆哮。


 今度は、音に“何か”が混じっていた。


 意味にはならない。

 けれど、“感情”だけが、直に脳に流し込まれる。


 快楽。飢え。殺意。

 それを煮詰めて凝縮し、声帯に叩き込んだような濁流。


 胃が反転しそうになった。


「……遊び方が、本気で気持ち悪いんだよ、お前」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。


 ミノタウルスか。

 寄生植物か。

 あるいは――この階層そのものをデザインした神か。


 体幹の硬質化を、わずかに厚くする。

 鈴が鳴る程度まで。

 頭の奥の圧が強くなりすぎないギリギリ。


 右足を踏み込む。


 波を通す。

 床を掴み、膝を伸ばし、腰を回し、背骨をしならせ、肩と肘と手首を連動させる。


 拳ではない。


 手刀だ。


 指先を揃え、抜き手の形にした手を、ミノタウルスの胸へ向けて滑り込ませる。


 狙うのは、赤い根の塊。


 死線感知が、一瞬だけ静かになった。


 それが“正しい線”である証拠のように思えた。


 抜き手が、肉を裂く。


 牛の皮膚と筋肉を破り、肋骨の間を縫う。


 その向こうに、ぐにゃりと柔らかい感触。


 赤い根の塊が、指先に触れた。


 硬質化を、一瞬だけ指先に集中させる。


「――っ!」


 全身の波を、その一点に叩き込んだ。


 鈍い感触。硬いようで、柔らかい。

 骨とゴムを同時に殴ったような、気味の悪い手応え。


 赤い根が、指の周りで暴れた。


 一本一本が独立した生き物みたいに収縮し、俺の手首に絡みつこうと蠢く。


 気根が手の甲をなぞり、樹液が皮膚に張り付いた。


 指先が、痺れる。


(まずい――)


 波を引き戻す。


 同時に、全力で腕を引き抜いた。


 肉を裂く音。

 骨が軋む音。

 赤い根が千切れる感触。


 ミノタウルスの咆哮が、洞窟を揺らした。


 膝をつく。


 赤い根の塊の一部が、胸の裂け目からはみ出している。そこから樹液と血が同時に噴き出していた。


 それでも、まだ脈打っている。


「どんだけタフなんだよ……」


 ミノタウルスの腕が、再び斧を持ち上げる。


 筋肉はもう、原型を留めていなかった。

 裂けた肉の隙間を、赤い根が完全に埋め尽くしている。


 骨の周りを、植物が締め上げている。

 その締め付けだけで、斧を持ち上げているのだ。


 死線感知が、今度は“横”を指し示した。


 右足ではなく、左足が勝手に出る。

 体が引きずられるように動いた。


 斧が振り下ろされる。


 避けた――はずだった。


 だが、刃の縁が肩を掠めた。


 世界が白く弾ける。


 硬質化していたおかげで、腕は飛ばなかった。

 それでも、肩の骨のどこかに細かいひびが入ったのが分かった。


 立っているだけで、視界の端が滲んでいく。


(……一撃でもミスったら、終わりだな)


 ミノタウルスの胸の中で、赤い根の脈動が乱れている。


 樹液と血の噴出も、さっきよりひどい。


 それでも動こうとするたび、あちこちから“千切れる音”がする。


 死線感知が、ふたたび静まった。


 あと一手。


 そう告げている気がした。


 踏み込む力は残っていない。

 全身は悲鳴を上げている。


 それでも――ここで止まるわけにはいかない。


 全部を一度押し流すように、息を吐いた。


「……黙って、潰れてろ」


 自分でも驚くほど低い声が出た。


 右足を踏み出す。


 波を通す。


 足首。

 膝。

 腰。

 背中。

 肩。

 肘。

 手首。

 拳。


 頭蓋の内側が、焼けるように熱くなる。


 視界の端が、黒く滲む。


 それでも、拳は前に出た。


 ミノタウルスが、最後の咆哮を上げる。


 胸の裂け目が、がばりと開いた。


 赤い根の塊が、むき出しになる。


 そこへ――拳を叩き込んだ。


 赤い根が、弾けた。


 内部に溜まっていた樹液と血が、一気に吹き出す。


 甘ったるい匂いと鉄の匂いが混ざり合い、喉の奥を焼いた。


 ミノタウルスの体が、びくりと仰け反る。


 蹄が空を掻き、角が天井近くの蔦をなぎ払う。


 気根がぐしゃぐしゃに潰れ、樹液の雨が降った。


 その巨体が、ゆっくりと後ろに倒れていく。


 地底湖の縁に、鈍い音を立てて横たわった。


 赤い根の塊は、もう脈打っていなかった。


 代わりに、無数の細い根が痙攣している。

 魚が陸に打ち上げられたときのような、小さく、見苦しい動き。


 やがて、それも止まった。


 ミノタウルスの輪郭が、ゆっくりと崩れ始める。肉が霧になり、骨が影に溶けていく。


 残った樹液だけが、しばらく地面に粘ついて残った。最後に、それも霧散した。


 静寂が戻る。


 地底湖の光だけが、淡く洞窟を照らしていた。


 膝が抜けた。


 その場に座り込む。肩がずきずきと脈打つ。

 右拳は、握るだけで骨のきしむ音がした。


 呼吸を整える。

 生きている――らしい。


「……ギリギリにもほどがあるだろ」


 誰に突っ込むでもなく、呟く。

 視線を落とすと、足元に何かが転がっていた。


 いや、「何か」どころではない。

 大量だ。


 銀色のレトルトパウチが、そこらじゅうに散らばっている。


 さっきまでミノタウルスの胸があった場所を中心に、まるで供物の山みたいに積み上がっていた。


 嫌な予感しかしない。

 一番近くのパウチを拾い上げる。


 表には、馬鹿みたいにデフォルメされたミノタウルスの顔が印刷されていた。


 血走った目で笑い、角を誇らしげに突き出している。その横には、大きな文字。


『ガンギマリ・ミノビーフ 超高濃度エナジー仕立て』


 胃のあたりが、きゅっと縮んだ。

 別のパウチを拾う。


『ラリホルン・ステーキ テンションぶち上げミルフィーユ風』


 また別の。


『ミノトリップ・ビーフ 見るものすべてが楽しくなる!』


『ブチアゲ・ミノメンチ まだ足りないあなたへ』


 全部、食べ物のパッケージの顔をしていた。


 袋の端っこには、小さな文字でこんな注意書きまである。


『※副作用には個人差があります。

 ※摂取後の行動について、当ダンジョンは一切の責任を負いません。』


「……責任取る気、最初からないだろ、お前」


 ため息とも、嗤いともつかない息が漏れた。


 パウチの素材は、三層や四層で見たものと同じだ。


 現実世界のコンビニで並んでいてもおかしくない質感。


 問題は、その中身だ。


 さっきまで目の前で暴れていた、寄生されたミノタウルス。


 その肉を、わざわざ“高栄養・高刺激”に加工してよこしてくる。


 神の悪趣味は、本気で底が見えない。


「……黒川さんたちに見せたら、確実に泣かれるな、これ」


 少女が、このパッケージを見てどういう顔をするかくらい、簡単に想像できる。


 俺自身だって、正直、口に入れる気は一ミリも起きなかった。


 それでも――エナジードリンクと同じで、カロリーだけは間違いなく詰まっているのだろう。


 マジックバックの口を開け、全パウチをまとめて突っ込む。


 ダンジョンの仕様上、いつか“食べざるを得ない日”が来るかもしれない。


 そのときに覚悟を決めればいい。

 今は、見なかったことにする。


 肩の痛みが、じわじわと現実に引き戻してくる。


 地底湖の光は相変わらず綺麗で、

 それが逆に、この階層の狂気を際立たせていた。


「……本当に、性格悪いな。神」


 もう一度、誰に聞かせるでもなく呟き、第五層の出口を探し始めた。

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2025年12月9日 18:00
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死に戻りの箱庭ダンジョンで、亡き家族を取り戻すため俺は何度でも死ぬ タイハクオウム @pana87

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