第27話 第五層
第四層の空気にも、だいぶ慣れてきた――はずだった。
それでも、壁際をなぞる足取りは、意識して一歩ずつ確かめるようなものになる。
苔とシダがまばらに生えた岩壁。天井の割れ目から差し込む細い光。
時折、単独で現れるゴブリンを潰す。
群れは避ける。弓持ちが混じっている気配は、問答無用で迂回。
腕を喰われ、体を矢で縫い止められたあの日は、もう一度味わう必要なんかない。
硬質化を体幹に薄く走らせる。
芯だけを軽く固めておき、必要な瞬間にだけ波を通す――そう決めてから、動きはだいぶ良い。
ふと、通路の奥の空気が変わる。
湿った岩と植物の匂いに、別の何かが混じった。
(……甘い?)
鼻の奥をくすぐる、粘つくような匂い。
熟れすぎた果物が潰れたような、砂糖水が腐りかけたような甘さ。
嫌な汗が、じわりと背筋を伝った。
慎重に進む。
シダは膝の高さを越え、葉の裏から細い“毛”のようなものが垂れ下がっている。
近づいてよく見ると、その毛は根だった。
空中に向かって伸びた“気根”が、湿った空気を舐めるように震えている。
通路の先が、わずかに明るくなった。
光源はないはずだ。天井の裂け目からの自然光にしては、位置が不自然だ。
壁際に身を寄せながら覗き込む。
「……階段、か」
そこにあったのは、下へと続く階段だった。
一層から二層へ、二層から三層へ――何度も見たものと同じ形。
だが、その段差の縁を、“植物に食い荒らされた”厚い蔦と苔が半ば飲み込んでいる。
階段の縁から、透明な樹液がぽたり、ぽたりと滴っている。
滴が床に落ちるたび、甘い匂いが濃くなった。
二層、三層と同じなら――ここが第五層だ。
「…… 一回戻って準備、って性格なら、もう少し楽に生きられたんだろうな」
誰も聞いていない愚痴が漏れる。
戻れば一層のパンと水、二層三層での再鍛錬。
それはたぶん、安全だ。理屈では。
けれど、頭の奥に、別の声が残っている。
あの白い空間。銀髪の“神”が、楽しくて仕方ないといった顔で口にした言葉。
――望みをひとつ叶えてやろう。時間の巻き戻しでも、死者蘇生でも。
あの日より前に戻る。
妻と、息子のいる朝に戻る。
その火が、一度ついてしまった以上――もう、簡単に引き返す選択肢は消えていた。
「……行くか」
階段に足をかける。
蔦の上を踏んだ瞬間、糸を踏み抜いたような感触がした。
中身の詰まった袋を押し潰したような、いやな柔らかさ。
足裏に残った樹液が、じわりと靴底に絡みつく。
それでも、足を止めなかった。
一段、また一段と降りていく。
下から、甘い匂いと冷たい風が混じり合った空気が、ゆっくりと這い上がってきた。
階段を降り切ると、世界が一変していた。
そこも“洞窟”ではあった。
だが、第四層で見た自然の侵食は、ここではすでに“侵略”に変わっている。
岩壁は、ほとんど姿を消していた。
代わりに、幾重にも絡み合った蔦と根が、壁一面を埋め尽くしている。
蔦はただ絡まっているだけではない。
ところどころ、木の瘤のように膨れ上がり、その表面から小さな蕾がいくつも顔を出していた。
蕾は、まだ開いていない。
開いていないくせに、わずかに震えていた。
外に向かって触手を伸ばそうとでもするかのように、表皮の下で何かが蠢いている。
その根本から、べったりと樹液がにじみ出ていた。粘度の高いそれは、壁を伝ってゆっくりと垂れ落ちる。
滴が床に落ちた場所には、薄い膜のようなものが広がり、足で触れるとぬるりと滑った。
天井からは、太い根の束が垂れ下がっている。
一本一本が生き物のように波打ち、互いに絡み合い、時折、石を砕くような軋みを立てた。
湿気は、これまででいちばん重い。
それでも――視界だけは、やけに明るかった。
苔が、光っている。
壁一面に貼りついた苔が、淡い青緑の光を放っている。蕾の周囲がひときわ明るい。
樹液に光が混じっているのか、甘い匂いとともに微細な光の粒が漂っていた。
綺麗、と言おうと思えば言える景色だった。
喉の奥まで出かかったその言葉は、腹の底に貼りついた警戒心がねじ曲げてくれた。
(……ここまで露骨だと、さすがに分かりやすい)
神の顔が頭に浮かぶ。
あの、百人を前に「娯楽だ」と笑っていた銀髪の男の顔だ。
スライムを落とし、蛇を這わせ、ゴブリンに知性を与え。
四層では、ゴブリンの顔を印刷したレトルトまで用意していた。
そして今度は、植物で遊び始めたらしい。
視界がふっと開ける。
「……なんだ、これ」
思わず、声が漏れた。
そこは、巨大な空洞だった。
天井は高く、裂け目から差し込む自然光が、真っ直ぐ下に落ちている。
その光を受け止めるように、空洞のほとんどを満たす地底湖が広がっていた。
湖面は、静まり返っている。
風もないのに、かすかに揺れる光が、洞窟の天井と壁に淡い模様を描いていた。
水は、どこまでも透明に見えた。
青白い光が底の岩を照らし、遠くの方では光が重なり合って銀色の帯になっている。
湖畔には、他の場所よりも濃い緑が集まっていた。
厚く重なり合った蔦と根が、まるで巨大な樹木の根元のように盛り上がっている。
そこかしこから、小さな蕾が突き出ている。蕾はまだ閉じているのに、その表面で赤い筋がぴくぴくと動いていた。
蕾の根元から、透き通った樹液が溢れている。
それが地面を伝い、湖へ落ちていく。
樹液が落ちた場所だけ、湖面の光が妙に濃く見えた。
「……綺麗、だな」
気づけば、そう口にしていた。
不意に、現実世界の記憶が脳裏に浮かぶ。
休日の水族館。ガラス越しに見た大水槽。
青い光の中を泳ぐ魚を、食い入るように見ていた息子の横顔。
ガラスに貼りついた小さな手。
水槽の青が、その輪郭を染めていた。
(……戻る)
あの日に戻るために進んでいる。
そうだろう?
湖面を眺めながら、自分に言い聞かせる。
不意に――
背骨の内側を、氷の針が走った。
「っ――!」
息が詰まる。
心臓が一拍、跳ね逃げた。
死線感知。
あのオーブを砕いて得た“新しいスキル”が、これまでにない強さで警告を吐き出していた。
四層でゴブリンに囲まれたときも、ざわめきはあった。
背後から矢が飛んできたときも、遅れて嫌な寒気が走った。
だが今のこれは、違う。
頭のてっぺんから足の裏まで、冷水をぶっかけられたみたいな感覚。
(……死ぬ)
理屈を挟む前に、直感だけがそう告げた。
どこからだ。耳を澄ます。
地底湖は静かだ。水の音もしない。
代わりに―― 聞こえる。
蔦と根が擦れ合う音。
岩の隙間から何かが這い出てくる音。
鈍い、湿った振動。
初めは岩か、と思った。
違う。
蔦の束だ。
湖底に伸びるように無数の蔦が、ひとつの塊になって盛り上がっている。
次に、蹄が見えた。
黒い、ひび割れた蹄。
そこから続く、太ももの筋肉。
筋肉の隙間から、赤黒い根がいくつも顔を出している。
腹部は半ば裂けていた。
普通なら、内臓がこぼれ落ちてもおかしくない裂け方だ。
だが、その裂け目から見えていたのは、臓器の代わりだろうか太い根だった。
瘤のように歪な根が脈動している。
どくん、どくん、と。
牛の頭。人間の胴体。異形の怪物。
ミノタウルス。
そこに、異物として植物が食い込んでいる――という段階は、とっくに過ぎていた。
肉と根の境界が曖昧だ。
どこまでが肉で、どこからが植物なのか、見分けがつかない。肩口から伸びた太い蔦が、ツノの根元に絡みついている。
そこからぶら下がった気根が空中で蠢き、滴る樹液が、ぽたぽたと湖面に落ちていた。
樹液は透明ではなかった。
薄い飴色で、とろりと濃い。
甘い匂いの正体は、これだ。
鼻腔を満たすその匂いは、同時に吐き気を連れてきた。
腐敗と砂糖水を混ぜて、さらに血を加えたような、胃の奥を逆なでする臭気。
ミノタウルスの目が、こちらを向いた。
白濁した眼球。
その中心で、異様に開いた瞳孔だけが、黒い穴として浮かんでいる。
目は、何も見ていないように見えた。
けれど、視線だけは、確かに俺を捉えていた。
胸の中の瘤が、ひときわ強く脈動した。肉に絡みつく蔦が、一斉にこちらへ向かって蠢く。
湖面に、初めて波紋が広がった。
(……最低だな、神)
喉の奥から、笑いとも吐き気ともつかないものが込み上げた。
ここまでしてでも、“面白いもの”を見たいらしい。
俺は拳を握り、硬質化を体幹に薄く走らせる。
ミノタウルスが、斧を持ち上げた。
寄生された腕が、可動域の限界をこえて反りあがり、筋肉の内側で何かが裂ける音がした。
それでも――動く。
死線感知が、さらに一段階、冷たさを増した。
(……やるしかない)
その一言が、喉の奥で溶けたところで――視界が、ミノタウルスの巨大な影で埋め尽くされた。
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