共感不全

むしの虚音

第1話 無常

いつも窓の外を眺めていた。

教室の一番後ろの席。そこから見える景色は、ただの中庭だった。花壇の植え込みとレンガで舗装された、それだけの、何もない空間。ただ一面に緑が広がる。

休み時間になると、教室が騒がしくなる。

「ねえ見て」「やばいって」「わかる」「それな」「マジで?」

誰もがスマホを見ている。画面を覗き込んで、笑って、何かを確認し合っている。

「これ見た?」

「見た見た」

「やばいよね」

「やばい」

同じ言葉が、何度も繰り返される。

-

少年には、その会話が理解できなかった。

何が、やばいのか。

何を、見たのか。

何に、わかるのか。

でも、誰も説明しない。

「やばい」と言えば、通じる。

「わかる」と言えば、繋がる。

それだけで、会話が成立している。

-

少年は、その輪に入れなかった。

人に興味がなさそうな、クリアな顔立ち。透明感があるというより、何かが欠けているような印象だった。儚げ、と誰かが評したことがある。その言葉は、彼を形容するのに適切だったかもしれない。

パーツごとに見れば普通の顔。眉は整えていなかったが、少し長めの前髪のせいで誰も気にしなかった。目は二重で、鼻筋は通っている。唇は薄く、色味が乏しい。整っていて、パーツごとに見る人にとっては印象に残る。だが雰囲気を見る人にとっては、印象に残らないような顔だったような気がする。

休み時間になると、少年は決まって購買へ向かう。一人で。誰とも話さず、誰にも声をかけられず。

廊下でも、みんなスマホを見ていた。

「それ、昨日バズってたやつだ」

「見た?」

「見た見た」

-

見ていないことが、遅れていることになる。

知らないことが、恥になる。

少年は、そういう会話を避けて歩いた。

購買で彼が選ぶのは、いつも甘そうなパンだった。メロンパン、クリームパン、或いはシュークリーム。砂糖がまぶされた、艶やかな菓子パンたち。

そして、また窓際の席に戻る。

「ねえ、これどう思う?」

前の席の女子が、隣の女子に尋ねている。

「かわいいと思う」

「だよね! かわいいよね」


共感が、交換される。

同じ感情を持つことで、関係が維持される。

-

少年は、ビニール袋から取り出したパンを、ゆっくりと口に運んだ。

砂糖の甘さが、舌に広がる。

その瞬間だけ、少年の表情が変わった。恍惚とした、とろけるような顔。まるで、固い石鹸が、お湯に触れて柔らかくなっていくように。

頭の中のざわざわが、一瞬だけ静かになる。

共感を求められない。

誰かと同じであることを、強制されない。

ただ、甘さだけがある。

それだけで、十分だった。

パンを食べ終わると、少年は窓の外を見た。

窓の外には、何もない。ただの中庭。人が通るわけでもなく、鳥が飛んでくるわけでもない。季節の花が咲くわけでもない。

それでも少年は、じっと中庭を見つめている。

中庭の緑は、変わらなかった。昨日も、一昨日も、先週も、同じ場所に同じ形で存在している。

誰にも共感を求めない。

誰からも共感されない。

ただ、そこに在る。

それだけで、存在できる。

彼が何を眺めているのか。

彼が何を求めているのか。

彼が何を感じているのか。

誰も知らなかった。

そして、誰も尋ねなかった。


ある日、少年は、いつものように窓の外を眺めていた。

教室では、また誰もがスマホを見ている。

「やばい」「わかる」「それな」

同じ言葉が、繰り返される。

共感の、連鎖。

終わらない、承認の交換。

-

知らない女の声が聞こえた。

「変なの」

教室のどこかで、誰かが誰かに何かを言っている。

誰が言ったのかは、わからなかった。

誰に言ったのかも、わからなかった。

でも、少年は自分のことを言われた気がした。

根拠はなかった。ただ、そんな気がした。

共感できない人間は、変なのだ。

「やばい」と言えない人間は、異常なのだ。

「わかる」と言えない人間は、排除されるのだ。

少年の心は酷く傷ついた。

胸が、苦しくなった。

頭の中のざわざわが、急に大きくなった。

少年は窓の外を見た。

いつもの緑が、そこにあった。

でも、今日はそれを見ても、静かにならなかった。

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