奇人

愛愁

奇人

 個性がある人間。抜群の発想と行動力で常人には手の及ばない行動を為出かし、言葉の節々でその才能を遺憾無く感じさせる者。それは言い換えれば、一般常識とはかけ離れた理解し難い奇行に走り、日常においてそれが垣間見える者のことである。

 一貫性のある人間。他人の意見を認識しつつ集団や流行の圧力に負けない強く強靭な精神を持つ者。それは言い換えれば、協調性に欠け周囲の者の損得を考えない我が強いだけの頑固者のことである。

 夢を持てる人間。自分の将来性に絶対的な信頼を置き、どんな苦難や現状も厭わず突き進める者。それは言い換えれば、現実を見ず自分の不特定な可能性に賭け事をするような極めて哀れな現実逃避者のことである。

 失敗を打算する人間。如何なる行動に於いても最悪の事態を想定しそれに備え無鉄砲を慎むことのできる者。それは言い換えれば、単に後ろ向きな思考をしているだけであり全体の空気を悪くする精神患者のことである。

 それらは私のことである。迎合を受け入れず何事にも自我を優先し、一見輝くような文言を言いつつも腹の中ではそれが無理だと半ば諦め切っているような愚者である。私は自分を嫌いつつも、開き直ったように愛してもいる。根本的な矛盾を抱えている生物だ。


 時代が変わるように私を構築する要素も時には抜け落ち、そして不意に補完されることがある。または全体そのものに影響を与える出来事にあうことも存在しないわけではない。

 ふと私の轍を振り返ってみるに、果たしていつからそうなってしまっていたのかは定かにはならない。一日一日を詳細に思い出し、それを整理したところで人格形成を紐解くことは不可能と言うのは誰にでもわかることだろう。それは、人格形成とは経験が積み重なった状態かつその場の感情によって発生する、いわばイレギュラーのような心理的出来事であるから故の結論だろう。単に出来事を思い出したとしても感情までを推測することはできない。その時の価値観を失ってしまった以上は予測すらも正確ではなくなってしまうのだ。

 気分転換に外に出てみる。最近は温度が急に下り坂を駆け落ち、息が色を帯びてくる時期だ。私はその季節が好きだった。雰囲気として漠然と好んでいるだけなのだが、その雰囲気が筆舌し難い魅力を有している。星が綺麗に見える空気にあてられても、私の気はちっとも晴れやしない。この場合、心理的には乾いている状態なのだろうか。それとも湿っている状態なのだろうか、そんなくだらないことを考えては結論が出ない憂鬱が増えていくだけだった。

 思えば昔からそうだったかもしれない。それは人格が変わろうと価値観が変動しようと揺るがない、生まれ持った才能のようなものだ。何をやっても上手くいくことはなく、私に善心の意図があっても誰かしらが不幸を被る形になる。朝起きて、窓を開ける動作にすら誰かの不都合が発生してしまうくらいに私は上手くいかない。

 死んでしまった方がいいのではないかと思ったことは何度もあった。だが、私のその才能が死を試みることに適用されない保証は誰もできない。何より、死ぬのが怖いのだ。肝が座っているように堂々としているのだが、実際のところ全てが怖い。一歩前に進むことが恐ろしい。誰かに話しかけるのも辛い、そして誰かに優しさを貰うのもまた苦しい。瞬きをして一瞬暗闇に落ちるのも耐えられず、そして次に現実を直視することも私には憚られる。

「君は多才だ」

 それは誤解である。ただ移り癖があり、優先順位を考えない私にとってはやりたいことが何よりも先だ。それ故に他人が合理的な行動をとっている時、私は金にもならないことに時間を費やしている。単にやっている時間が多いというだけだ。

「絵が上手いな」

 それは誤解だ。皆が板書をしているとき、私は嫌気がさしてノートに落書きをしているだけである。それもまた他人よりも絵に触れる機会が多いと言うだけであり、絵を学問としている人間の足元にも及ばない低俗な暇つぶしだ。

....。


「....ということがありまして」

 人と接する事は私の不安を紛らわせる唯一の方法だった。外部の情報を取り入れ、それを反芻する暇なく意見を述べる。そういう瞬発的な思考が念頭にあれば、憂鬱に割く時間は減少する。だから、私はよく人と喋る。紛らわせるためによく喋る。

 今回の話し相手は私の先生だった。彼は立派だ。私と歳が十年も差がないにも関わらず私の話をじっくりと聞いてくれるし接していて苦がない。様々な知見もあるようで、憂鬱の誤魔化し方も彼が教えてくれたものだった。

「君は小説家に向いているな。詩人ではなく小説家だ」

「ははあ、先生。小説家ですか。どうして詩人では駄目なんですか?」

 私には叙述的に物事を説明し、言い換えや譬え話を多用する癖があるということを先生は指摘した。また、私は独特な間で言葉を放つ癖もあるといい、それは詩という散文的なものではなく小説で生かすべきだとも言った。

 紙と鉛筆が有ればそれでよかった。私のくだらない思考回路さえあれば、それは砂浜と木の枝でも、石板と彫刻刀でも、何でも良かったのだと思う。兎に角この鬱憤を文章に置換し、時には素直に、そして時期を見て物語にしてみたりと、私も私なりに工夫を凝らした。先生の先見の明は見事に的中に、私を小説家へと変貌させた。

 私がとある賞を受賞し、それに付随する催しに赴いた。絢爛な衣装に身を包む者もいれば、私と同じように身の丈にあった背伸びの仕方をしている人間もいた。こう言う時、私は着飾るべきなのか質素でいるべきなのかを悩むのだが、往往にして後者を選びがちである。自分に自信がないからだろうか?それとも、そういう設定に憧れを抱いているのだろうか?金があっても私の憂鬱は解消されなかった。

「貴方は最優秀賞を取られた作家の方ですよね。ええ、拝読させて頂きました。はっきりと申し上げておきますが、私は貴方の陰鬱な文章が嫌いです」

 優秀賞を取った作家にそう言われた。同業者だから仲良くしろだとか、一期一会だから第一印象をどうとか、私もそんなお世辞のようなものに興味はない。だからといって強く言われることに抵抗がないのかと言われればそう言うわけではないが、彼女の言葉に落ち込むことはなかった。

 私は執筆の際に色々な事を考える。それが全て執筆の熱力に変換されるものならば良かっただろうけど、実際のところはいつもの憂鬱が大半を占め、そしてその憂鬱の昇華方法。それとは別に、私の文章に対する疑問だった。

「あんな暗い文章。誰が読むと言うのですか?」

 私の小説には優しさがない。現実の厳しさを誇張して伝えているかの如く、全ての作品において主人公は空回りし、結末は不運なものが集まっている。自分の指先から生み出される文章の人間にすら、私以上に幸せになってほしくはないと言う自尊心でも働いていると言うのだろうか。上手くいかないことは多いが、上手くいくことは皆無ではないだろうに。

 自己嫌悪をしている分際で悪いが、私は好き嫌いが激しい。しかして目の前に立ち毅然とした態度で主張をする彼女も嫌いだった。自分の作品を否定されたことには何の憤りも感じてはいないが、彼女の態度からは自尊心が窺える。自分の知識に絶対的な自信を持っていること、つまりその知識が最新であり先鋭的な意見だと勘違いしている典型的ななりたがりの思考であることに嫌気がさしていた。私は彼女と同じ小説家という括りを受ける。にも関わらず、私と彼女では違いではなく差異がありすぎる。つまりは彼女と同列に見られる事を嫌っているのだ。

 このままつけ上がられたままというのも癪なので、私は適当な酒類を顔に掛けてからその場を去った。後日、相手の発言を反省する旨の文書と先生の訃報が届いた。


 時折、自分の行動を後悔することがある。現実的な二択問題を迫られた時、現状を鑑みて自身の選択が間違っていたのではないかと思う瞬間は少なくない。

 それとは別に、自分の言動により引き起こされる結果が何もない時や失敗に終わった時も同様の心境に陥る。だからといって常に合理的で将来性のある行動だけをするということは私が人間という枠に囚われている以上は不可能である。そういうことができる人間は私のような轍を踏まず、はたまた才能と呼べるべき代物が自他の利益に繋がるものである場合に限られるだろう。つまり私はそうではないのだ。

 人と違うことが個性であり才能であり、その人らしさというのであれば、私は打たれる杭一つ無く、誰の前に出ても胸を張ることもなければ極端に気後れすることのない立派なスペアマンになりたかった。自己顕示欲や承認欲求が一際強いわけでもない、ただ人と常識が違うだけ。そして協調を望まぬ精神が相乗した結果、私は、如何に自分が人間らしい感性を持っていて特別な人間じゃないのかという主張を続ける生活を送っている。

 誰かと同じような夢を持ち、そして誰もが持つような憂鬱も孕んでいる。評論家のように現実的な性格であっても良いものは良いものと評価し、そして人が秘めている嫌悪を口に出してしまう。十人十色のうちに収まるような人間で、私は十一人目ではないということを様々な言葉を用いて表現し、そんな憐れさが大衆の目に止まり銭を恵んでもらう。だが、如何に私が自分のことを正常な人間だと思っていても、多くの人は自己顕示によって稼ぎを得ることはない。この揺るぎない、そして私の飯の種であるが故に止めることのできない事実が私を社会とを隔絶させる絶対的な証拠になってしまっている。そうして感じた憂鬱もまた、文章を介することで同じものへと変貌してしまう。

 私は人が怖い。人と会話することは好きだが、他人という存在がどうしても恐ろしく感じてしまう。それは白眼視や見下される等の他人の視線が怖かったり、吹聴や風の噂などの声が怖いというわけではない。それらの類のものは私にも備わっているものだ。私と他人は同じ人間であり、他人に備わっているものは少なからず私にも搭載されていたり、反対に私のアイデンティティでもある憂鬱もまた、他人も当たり前のように持っているものに違いない。

 だが、私が恐ろしいものはその憂鬱に関するものだ。他人は私のように憂鬱を感じさせることなく社会に於ける歯車と化している。なんのストレスもなく毎日を経過するということは不可能なので内側にそれを隠しているのだろうという凡その目安は立てられるにしても、私と圧倒的に違うのは憂鬱を腹の中に抑え込めるということだった。私と他人で感受しているものは何が違うというのだろう。個人と比べて仕舞えば差は多く存在するだろうが、全体的にみた時に少なからず私と同じような作品を鑑賞し、同じような感想を持つ人間もいるはずである。生まれも境遇も、決して貧乏や不幸を強要されてきたわけではない。環境に差が無いのであれば、違いが存在するところはやはり感受性に落ち着くだろう。

 文章を書く時以外にも人は癖がある。私の癖として最も優先的に手記するべきなのは、何に対しても最悪の事態を想定するということだろう。冒頭で書き記したように、それが良く転ぶこともあるだろうが、それは何か大きな博打をするときに限る。最悪の事態を想定することはリスクを考慮することであり、自分に齎されるであろう大きな損害を回避することができる。だが、私は何に対してもその性分があるため、例えどんな些細なことでも悪いことを考えるようにする。もし間違えたらどうしようか、もし食い違いがあったらどうしようか、もし解釈違いがあったらどうしようか、と、このように悪い方向へと事態を考えていく。

 自衛の精神はいつしか悪いことしか考えられない思考へと成り下がり、私の内面を蝕んでいく。どれだけ些細なことでさえも、度外視するべきマイナスにも目を向け、それを重大的に捉える。ともすれば何も出来なくなってしまうのが当然の帰結ではあるが、人は何もせずに生きていけるわけでは無い。飯を食うために金を稼ぎ、欲を満たすために行動をする。漏れなく私もその人という型に嵌め込まれており、最低限の文化的な生活を送るためにアクションを起こす。その際にも、私は暗い側面へ目を向けてしまう。その度に、私は暗い人間へと堕ちてゆく。


 友人から連絡が来た。

「今日は空気が乾いており、星がよく見える。夜空を見るがいい」

 驚いた。曇天続きの毎日が続き、天体観測も儘ならなかったが、今日はそんなことが嘘かのように晴れ渡っていた。視界に映る夜空にはまばらに星が輝いているようで、目を凝らしてみればもっと詳細に煌めいている。数年前の光、いつだって情報として取り入れている単なる光に感動を覚えるのは何故だろうか。

 私が驚いたのはそれだけでは無い。連絡を寄越した友人は私にとって、そこまで浪漫のある男では無かった。女に頓着が無く会うたびにタレが変わっており、邪な気持ちが優先されているような友人だった。書き起こしてみるとなんとも不名誉な人物であるが、私がそんな彼と数年一緒にいるのは、彼の朗らかさにあると言えるだろう。私が暗い分、周りには明るい友達がいて欲しいのだ。自尊心の高い私には、同じような人間を収集し傷を舐め合うということはやろうとは思えない行動である。

 そんな友人が綺羅星の話題を振ってくることは想定しうる彼の人柄ではあり得ないことだった。長い期間彼を見てきた私であるが故、知らない情報があるにしても凡その為人は理解しているつもりだ。しかして意外な話題ということは実に奇怪な体験と言えるだろう。理由は至極単純であり、私の知っている彼以外の彼がいる、つまり彼が成長をしたというだけのお話だ。人と会う度にその人に対する情報は更新されていくが、常に個人を監視しているわけでは無い私達にはどうしても知らない側面や成長の瞬間、変化の刹那に出会えないということがあり得る。彼は私を置いて成長した。それだけの話だ。

 幼少期のことは鮮明に思い出せる。自分があの時何を考えて行動したのか、何を躊躇って行動しなかったのか。思い出せることとは私の記憶が優れているからという話ではない。単純な話ということに変わりはないが、数十年前のあの日から今に至るまでの人生の中で、私の根本の価値観はきっと変わっていなかった。成長のタイミングはいくつかあった。それは成長が出来るであろう時というわけではなく、真に私が成長をしたのだと実感した瞬間のことを指す。

 現に私の価値観が古いまま停止していることを鑑みれば何が矛盾しているのか理解いただけるであろう。その成長の瞬間とは物事の捉え方が変わったということである。私は自身の価値観を紐解くことに『成長』という言葉を使用しており、他人のことを知るように自分自身のことを知ることが成長だと思って生きてきた。それが間違いではないにしても、正しいことだったとは言えない。自分の人柄を人一倍に理解していくことは生きていく上で大切なことではあるにしても、それは『全て』ではなく要素を超えないのだ。


「あまりに辛く考えすぎだ。人には二面性がある。それは善悪然り、優しいところがあれば短気なところもある、一見不可解に見えても理解の及ぶところがあるという事だ。君はその二面性に於いて悪いところに焦点を当てすぎなだけだと思う」

 私には天文学者の友人がいた。彼は宇宙の知識に精通していることは間違いなく、それ以外の事柄にも興味を示している。唯一の道を辿った私と違い、数ある選択肢の中から自由を振る舞った人間である。

「いつだって損をしたと感じるのは自分が期待をしすぎた結果だ。自分自身が傷つくことを避けるが為に暗いところに焦点を当てているという自覚は元より私に根付いているよ」

「自衛のための思考が結果的に君を傷つけることになっているのは元の木阿弥だろう?君はどうやらその思考に縋っているように思えるな。それ以外の方法を模索するのが手間か、それともその思考にしか存在し得ない何かがあるのか?」

 そんなこと私にはわからない。明確な差異を指し示すのであれば、一重に傷つくと言っても自分自身の行動が原因か他人が原因かでは傷の沙汰も変化するはずだ。答えになっているかは蚊帳の外に追いやるとして、私は自分自身を傷つけ自らが不幸の渦に落ちる事に安心を得ているのだと思う。そうすればどんな他人からの損害も、そうではなくなるのだ。

「君が失敗を悪いことと捉えるのは、君には前のめりの姿勢がないからだろう。人は失敗を糧にし、原因を解明し、再び実行に移す時に自身で打ち出した解決策を応用する。君はどうだろう?不幸に浸ることに善悪をつけなくとも、悪いことと捉えてしまうのはそういうことではないだろうか」

 現に、私の価値観は是正されようとしている。それは私の世界を破壊する行為であり、私にとっては気の良いものではない。きっと私に向上心があれば彼の文句を素直に受け入れ改善の材料とするのであろうが、私にその気が起きないのは不幸に満足している。それそのものに満足し、それ以上を望まず、一見絶望的に見えても楽観視しているからだろう。常に不幸に浸っていればあらゆる危機に鈍感になる。焦燥感もなければ、現在自分がどれだけ落ちぶれているのかも気にならない。


 完璧でなくとも良いなどと誰が言っただろうか。人は皆、他人や自分に水準を設定する。それは時折、完成度や点数と表現されるものだ。それらを嚥下し、生きていく上で数多くのノルマを超えていくのが人生である。今まで幾多のノルマを超え、そしていくつのノルマから逃げてきただろう。最低限のことをも放棄し全てを投げうった結果が今である。そろそろ私の鼻も効き出し、現状がいかに惨憺たるものかを私に知らしめていた。

 視界に映るものは私の面白みのない世界観を文字に置換した駄文である。机上は散らかっており、ペンや原稿用紙が乱れている。塵紙の山の中には些細な用途で使われたものもあれば、自分でも納得が出来ずに没にした原稿が含まれている。

 部屋の中は衣服や物品で片付いていない。私の生活や内面がいかに怠惰なのかを示したその空間に虚無を感じる。数十年生きてきた。立派な大人に花咲く事を夢見て歩いてきた結果がこれだ。途中で劇的な変化もなく、慢性的な憂鬱の結果がこの散らかったどこにでもある部屋なのだ。

 世間を見れば、あの時私がなんとも思わなかった彼は有名な画家として活動をしているらしい。仲の良かった友人は政治家に、いつも詭弁を喚いていた人物こそ今世間を騒がせている件の男である。きっと誰もが、どこかで人生の転機が訪れ、そうしてその機会を逃さずに掴み続けてきた人間なのだ。私とは真逆の性質を持ち、真逆の精神を持ち、真逆の姿勢を取っていたに違いない。なんだか嫌になってきた。

 今までの私を振り返ることは出来る。夢に溢れていたあの時代。憂鬱の存在も知らなかったあの時代。堕落に落ちぶれたあの時代。人生に光を与えてくれた友人に出会ったあの時代。自分から孤独を選んだあの時代。藁に縋っていただけのあの時代。恩師の訃報に涙も流せなかったあの時代。友人の功績に目を向けられずにいたあの時代。嫉妬に涙したあの時代。自分の現状を実感したあの時代。全ての時代を思い出せる。思い出したところで何があるだろう。

 私は今までの人生で、何か有意義な事をしてきただろうか。くだらない事に笑うこともできない私は些細な出来事を良しとしない。ならば、それも良かったねと美化することもできない。愛する人すら去っていく、寒さにも鈍く人の心を慮ることの知らない私は孤独に逃げただけであり、決して自分の選択をしたわけではない。今の自分を他人に話せるだろうか。私の為人を、あたかも人生のように話せるだろうか。人生には華があるべきだが、私にはない。私の人生には私を彩る凡ゆる要素が欠けている。

 過去に満足のできない人間はきっとそれが今に繋がっているのだと自分を落ち着かせている。そうともすれば、私のこんな才能は何に活かせるだろう。

 枕元に丁寧に置かれた書類は、そのタイトルからは想像もできないくらいに面白おかしく書かれているに違いない。それは私が人生の中で身につけた全てであり、そのつまらなさが私であり、社会の常識と食い違ってきた私である。私だ。

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奇人 愛愁 @HiiragiMayoi

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