恋は論理に非ず、剣に似たり。―考えすぎ令嬢と、押しに弱い騎士―
遠野 周
恋は論理に非ず、剣に似たり。―考えすぎ令嬢と、押しに弱い騎士―
婚約破棄の理由は、
「考えすぎる女は、愛せぬ」だった。
第五王子フェルナン殿下は、ため息まじりにそう言ったという。
ラヴォワ領の三女エリシア・ド・ラヴォワは、その言葉を聞いた瞬間、
ひと呼吸置いてから、にっこりと微笑んだ。
「存じておりますわ、殿下。わたくしは考えることが生きがいですから」
実に清々しい、開き直りである。
ラヴォワ家にとっても王家にとっても、
三女と第五王子の婚姻など、実務上さほど大きな意味はない。
王家の五番目の息子は、ゆくゆくはどこかの領へ婿に出ればよい存在。
ラヴォワ家の三番目の娘も、領地は潤っており、好きに生きても構わない。
両家は互いに傷つかず、むしろ「まぁ、そういうこともある」と微笑み合う程度だった。
問題はエリシアだけだ。
破棄されたその日の午後、彼女は言った。
「いいでしょう。では、愛を“考え尽くして”みせますわ!」
そして翌日には庭園を開放し、哲学サロンを立ち上げた。
『愛とは魂の幾何学』『恋は理性の試練』『感情は秩序を破るか?』
気づけば、令嬢や若い貴族たちに大人気である。
なぜ人気になってしまったのか、王家もラヴォワ家も理解していない。
王家にとって気がかりなのは、
「そのうち第五王子批判が飛び出すのでは?」
という一点だけだった。
エリシア自身はまったく意図していないのだが、
彼女の語る「恋と理性の矛盾」は、妙に人々の心を打つ。
王都でも“変わった令嬢がいる”と噂になるほどだ。
そこで、王家は静かに手を打った。
騎士をひとり送り込んで、軽く監視させよう、と。
選ばれたのは、隣領ヴァルド家の次男にして、
王立騎士団の中堅班長、ロウラン・ヴァルド。
真面目で穏やか、押しに弱く、何より面倒を起こさない性格が買われたらしい。
かくして、エリシアのサロンに“お目付け役”が置かれることになった。
本人は反発するどころか、
「まぁ! 新しい観客ですわね!」
と喜んだのだから、やはり問題は彼女ではなく世界のほうだ。
そして今日もまた、ラヴォワ邸の庭園には朝日が差し、
哲学という名の嵐が巻き起ころうとしている。
ラヴォワ邸の庭園は、今日も穏やかに狂っていた。
白い天幕の下、貴族子女たちが椅子に腰かけ、紅茶を手にしている。
だがその中心、金髪の令嬢エリシア・ド・ラヴォワは、湯気の立つカップを片手に、もうひとつの熱を語っていた。
「リュトン派は申します。愛とは魂の幾何学である、と!」
彼女は天を仰いだ。
「けれど、わたくしは思うのです。魂が円ならば、愛は接線! 一瞬ふれて、永遠に離れぬ、その一点こそ……」
ところがこのサロン、破談後にもかかわらず、なぜか日毎に盛況になっていく。
王子への批判を期待されているわけでも、特別な政治意図があるわけでもない。
エリシアの語り口が、妙に巧かったのだ。
難解な哲学を、まるで恋の物語のように語り、
恋の揺らぎを、学説のように精密に示す。
ロウランも初日に立ち会ったとき、思わず感心した。
(なるほど……これは、人気になるわけだ)
王家の懸念はさておき、
人が吸い寄せられる理由としては、至極まっとうだった。
とはいえ、ロウラン自身は納得していなかった。
(なぜ俺がこの役目なのだ……)
銀の肩章に手をやりながら、静かにため息をつく。
紅茶をひと口。だが苦いのは茶葉ではない。
任務書には簡潔に記されていた。
『エリシア嬢、王子による婚約破棄後、思想的暴走の恐れあり。監視を命ず。』
暴走とはなんだ。思想に速度でもあるというのか。
彼は視線を戻し、令嬢の指先が空を切るのを見た。
「つまり、愛とは試練ですの! 理性という鎧を脱がせてこそ、真の理解!」
「……誰の鎧を」
「あなたのです、ロウラン殿!」
紅茶を吹いた。
いや、むせた。いや、もうどちらでもよい。
周囲の貴族たちは目を丸くしていたが、エリシア本人だけは満足げだ。
その瞳は陽光を受けてきらめき、論理の名を借りた情熱が宿っている。
「……危険思想だな」
「危険こそ、恋の入口ですわ」
さらりと返され、彼はほんの一瞬だけ、言葉を失った。
(この令嬢は、論理ではなく剣だ。しかも刃を笑顔で振るう)
午後の討論が終わり、貴族たちが去ったあとも、彼女は興奮の余韻を纏っていた。
「ねえロウラン殿。愛とは理性の敗北でしょうか、それとも勝利でしょうか?」
「騎士として申し上げるなら……敗北のあとが、戦の本番ですな」
「まあ!」
彼女は頬を紅潮させ、胸を押さえた。
心臓が跳ねる音が、耳の奥に響く。
理性の鎧を脱がせるつもりが、どうやら自分の鎧が先に落ちたようだ。
ロウランが視線をそらす。
その仕草だけで、またひとつ鼓動が速くなる。
哲学では説明できない鼓動。思考が形をなさない。
「……ロウラン殿」
「なんです」
「あなたを観察していると、実在論のエル=ファウが申した“見ることは愛すること”が正しい気がいたします」
「……それは観察ではなく、告白に聞こえますが」
「理性の範疇ですわ」
「ならば、私の沈黙も理性の範疇ということで」
沈黙。
やけに長い沈黙。
風が花弁を散らし、白い衣の裾を揺らす。
彼女はふと、唇をかすかに噛んだ。
理性の範疇。……嘘です。
本当は今、胸の奥で何かが危険な速度でまわっている。
思考が熱を帯びる。語るほどに、理屈が遠ざかる。
(どうしてこの人の前では、理性がこんなに不安定なのかしら)
その問いの答えを、哲学はいまだ持たない。
けれどエリシア・ド・ラヴォワは確信していた。
恋とは、未知の理論である。
そして今夜もまた、彼女は新たな命題を立てるのだ。
「ロウラン殿の沈黙に、意味はあるのか?」
危険思想は、まだ始まったばかりである。
夜の庭園には、昼とは違う理性が漂っていた。
風は薔薇の香を冷やし、月明かりが石畳に幾何学のような影を落とす。
ひとりごとのように、しかし世界に語りかけるように言う。
「リュトン派が言いました。愛は魂の幾何学。でも、永遠とはどんな図形なのかしら」
「……また理論が始まった」
声は背後から。
任務ゆえの夜警。
「警護のついでに哲学とは、贅沢な夜ですね」
「哲学は命を救うのです。恋に溺れぬための理性の浮き輪ですわ」
「それを語って溺れている人を、私は何人も見ましたが」
軽く笑う彼の声に、夜の空気がわずかに波立った。
彼女は手にしていた本を閉じ、振り向く。
「ロウラン殿。あなたは“愛が続く”と思われますか?」
「……続かぬ、と思います」
即答。
それがあまりに平然としていて、エリシアはまばたきした。
「では、なぜ人は愛するのです?」
「剣を握るのと同じ理由です。たとえ折れると知っていても、誰かを守りたいから」
沈黙。
月が、彼の横顔を照らした。
その光を受けた輪郭は、静かで、理性的で。思わず、見惚れてしまうほどに整っていた。
「……ロウラン殿、いま、わたくしを見て“美しい”と仰りませんでした?」
「言ってません」
「けれど、目がそう仰っていました!」
「私の目は口ほどに喋らないつもりなのですが」
「では、心が喋ったのですわ!」
庭に笑いがこぼれた。
それは知の応酬のはずだったのに、いつしか息づかいが近づいていた。
「ロウラン殿」
「なんです」
「あなたの理性を、わたくしで試しても?」
小さな声だった。
風に紛れたはずなのに、彼の耳には届いた。
「……私は試験官ではありません」
「でも、合格かどうか知りたいのです」
その目が、まっすぐだった。
哲学のためでも、冗談でもなく。ただの、ひとりの娘の目だった。
ロウランは息を整え、わずかに視線を逸らす。
「……理性の防壁が崩れる音がしました」
「それは、恋の音ですわ」
薔薇がひとつ、月光の下で散った。
香りがふたりの間に流れ、夜がやさしく包む。
彼は小さく笑った。
「まったく、危険思想どころではない」
「ならば、わたくしを拘束なさいます?」
「できるものなら」
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
夜番の合図。
彼は剣を持ち直し、いつもの穏やかさに戻る。
「……お部屋へ戻りなさい、エリシア様」
「命令ですか?」
「お願いです」
彼の声は、思ったよりもやさしかった。
それだけで胸の奥がまた鳴る。
哲学書にどれだけ理屈を求めても、いまの一言には敵わない。
彼女は小さく頭を下げ、裾を翻した。
歩き出しながら、そっと自分に問いかける。
理性の防壁を崩したのは、わたくし? それとも、この人?
答えはまだ出ない。
けれど、その問いの中に、恋が息づいていた。
朝靄のラヴォワ邸。
空気にはまだ夜の冷たさが残っていた。
庭の噴水に光が差し込み、雫がまるで理性のように、静かに整列している。
ロウラン・ヴァルドは、その前で立ち尽くしていた。
転任命令書を片手に。
王都勤務への復帰。任務は完了、とのことらしい。
(つまり、監視対象は無害と判断されたわけだ)
淡々とそう思おうとしたが、胸の奥がやけに静かだった。
静けさは理性の友だ。だが今日は、少しだけ寂しい。
そのとき。
背後から、少し息を弾ませた声がした。
「ロウラン殿!」
振り向くと、白い朝光の中にエリシアがいた。
寝癖を慌てて撫でつけたのか、髪が波のように揺れている。
彼女はそのまま駆け寄ってきた。
「転任と聞きました!」
「……早いですね、情報が」
「女の勘は哲学より速いのです!」
思わず笑みがこぼれる。
彼女は真剣そのものの顔をしていた。
「お別れを言わねばと思って」
「ありがたいことです。おかげで、任務は退屈せずに済みました」
「退屈、ですか?」
「危険思想の講義を毎朝聞かされるのは、まあ、珍しい経験でしたから」
その声は穏やかだった。
けれど、エリシアの胸の奥に何かが詰まる。
(本当に、それだけ?)
沈黙。
噴水の音だけが続いた。
やがて彼女は小さく息を吸い、微笑んだ。
「ロウラン殿。わたくし、ひとつ確信しましたの」
「確信?」
「愛とは、わたくしがあなたを思う限り、わたくしが確かに存在するということです」
それは哲学の言葉に似ていた。
けれど、その声には理論ではなく、体温があった。
ロウランはゆっくりと視線を上げた。
朝日が彼の銀の肩章を照らし、金色の縁を描く。
「……では、私の理性はどうなりますか」
「わたくしが試し続けます」
「危険思想、再来ですね」
「恋の発展形ですわ」
その返しに、ロウランは小さく息を洩らした。
笑いとも、ため息ともつかぬ音。
「ならば、私は……あなたの存在を護るのが、私の理性です」
それは、告白のようでもあり、誓いのようでもあった。
エリシアは一瞬、言葉を失った。
次の瞬間、胸の鼓動が爆発する。
「……ロウラン殿、それは哲学的な意味ですか? それとも……」
「勤務上の意味です」
と言いながら、ロウランの声はどこか熱があった。
「今、すごくずるいこと仰いましたわね!」
「理性の範囲内です」
二人の笑い声が、朝の空気に溶けていく。
そして、彼は軽く頭を下げた。
「では、行ってまいります」
「はい。わたくし、哲学を続けますわ」
「……ほどほどに」
馬が蹄を鳴らす。
遠ざかる背中に、エリシアはそっと手を伸ばした。
届かなくても、確かに感じた。
思う限り、存在する。それが彼女の哲学の結論だった。
風が吹き、薔薇が揺れた。
花弁が舞い、朝日に光る。
「愛とは、理性の防壁に穴を開ける風ですわね」
そう呟いて、エリシアは笑った。
危険思想は、今日も美しく健在だった。
恋は論理に非ず、剣に似たり。―考えすぎ令嬢と、押しに弱い騎士― 遠野 周 @tounoamane
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