早朝の屋上で
アオノソラ
早朝の屋上で
1
屋上の手すりは赤錆の色が濃い。わずかにそよぐ風がその匂いを運ぶ。僕らの眼下にはグラウンドの白線が陽炎に揺れている。
こずえは一息つくと屋上の縁に腰を下ろした。僕も隣に腰かける。
交わす言葉もなく時間だけが過ぎていく。僕はただ、待った。
不意に、言葉が零れる。
「靭帯を切った」
こずえは淡々と語る。三年生引退後、新チームで張った合宿。練習中に他の部員と交錯したとき、変な踏ん張り方をした。膝の奥で鈍い音がして、足裏の力が抜けた。
肩をすくめ、サポーターの面ファスナーを指でつまむ。
「試合でもないのに、こんな怪我」
自嘲するこずえに、かける言葉が思い浮かばない。
体育館での練習風景が脳裏に浮かぶ。あのとき見た見事なサーブカットは、運動神経がいいとか悪いとか関係ない。積み上げた努力の賜物だと一目で分かった。
「医者に『来年の夏だね』と言われた。だからもう引退」
こずえは膝のサポーターを撫でた。
「沙織が」
こずえが僕の知らない名前を切り出し、あ、と付け足す。
「新チームで部長になった子」
たぶんあの子だな、という顔が浮かんだ。
「副部長として残ってほしいって」
怪我をしてプレーをできなくなった選手が、マネージャーやコーチになったという話は、確かに聞いたことはある。ただ、それも人による。そこにやりがいを見出せるかどうか。
「だから部に残って、皆をサポートしようかとも思った。けど」
沈黙。開いたまま言葉を紡がない口が、やがて結ばれる。目を閉じて、俯いたまま動かなくなった。
スズメたちの鳴き声だけが、聞こえる。
僕はじっと、言葉を待った。
こずえが、痛めていない左膝にグッと手を添えて、顔を上げた。僕の方を振り向き、口を開いた。
「わたしは、生徒会を頑張りたい」
一言ずつ確かめるように言う。眼差しは力強く、迷いの色は見えない。
その目を再び伏せて、俯く。
「でも、沙織は怒ってるんだ」
小さく呟くと、ひとつ息を吐く。
口角だけが上がる。頬は引きつったまま。
右足を庇いながら、顔を顰めて立ち上がる。スカートの埃を払うと、髪をかき上げて僕の方を向いた。
「とにかくもう決めた。これからもよろしく」
こずえは手を上げて、じゃあね、と屋上の入口へと向かう。
右足をわずかに引きずる背中を、ゴム底と砂の擦れる音が半拍遅れて追った。
2
「何しに来たの。こずえは生徒会に専念させるから退部を認めろ、とでも言いに来た?」
バレー部新部長の奥村沙織が、敵意むき出しで僕を睨む。ボールをバシンと叩き、床で弾ませてまたキャッチする。同じ動作を繰り返し、乾いた音を体育館に散らす。
「建前が要るなら、それでいい」
「どういう意味?」
奥村は訝しむ。
「『怪我したからって辞めるのは許さない』って空気が、部にあるんじゃないか?」
奥村の顔色がみるみる変わった。
「ふざけんなよ! 怪我したこずえに、そんなこと言うわけないだろ」
シューズが床を蹴る。ゴム底が擦れる甲高い音が、広がる。
「そもそもさ、生徒会の仕事が忙しいせいで、こずえがオーバーワークになったんだよ」
俯いたまま、踵で床を二度、強く鳴らす。
「やめるなら、生徒会の方だろ。あの子はバレー部にいたいんだよ」
「……それを、折本が言ったのか?」
僕の言葉に、奥村が顔を上げる。
「……言ってない。でも、あれだけ打ち込んできたんだ。あたしらだって、こずえにいなくなってほしくない」
仲間を引き留めたい思いと、こずえが選んだ役割が、同じ線上で交わらない。
「折本は」
言葉を探す。
「何というか、自分の役割をいつも考えてんだよ」
バレー部での貢献と、生徒会での貢献。どちらに責任を配分すべきか。
「義務感で動いてるわけじゃない。もちろんバレー部から目を背けたいわけでもない。こっちが自分の役割だって、決めただけなんだ」
奥村が僕を睨む。
「……嘘だ。こずえがバレーを捨てるわけない」
自分に言い聞かせるように、言う。
床から微かな音。目を落とすと、シューズのつま先が小刻みに上下し、床を叩いていた。
「でも、あの子がどう考えてるのか、聞いたことない」
「うん、だから」
僕は一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。
「もう一度よく、話してみてほしいんだ」
ボールがもう一度だけ、静かにバウンドする。奥村は一言、わかったよ、と呟いた。
3
昼休みの教室。級友たちのお喋りを伴奏に、僕は昼寝に入ろうとしていた。ここのところ寝不足だ。一〇分でいいから眠りたい。
机に顔を伏せた僕の耳に、よく聞き覚えのある足音が聞こえてきた。僕の机の傍で止まる。仕方ない、起きるか。
「——小西」
「——なに?」
声をかけられるのと、僕が跳ね起きるのとほぼ同時。目の前に、目を見開いたこずえの顔。珍しく、口角がわずかに上がる。
こずえは真顔に戻ると、僕の目をまっすぐ射抜く。
「沙織と話した?」
怒っているわけではなさそうだ。肩から力が抜ける。
「うん、昨日の放課後に」
僕の答えに、こずえは小さく頷く。
「そう。ありがとう。昨日の夜、沙織から連絡があった」
約束どおり、話す気らしい。
「それで、巻き込まれついでにお願いなんだけど。これを読んでくれないかな」
こずえは手に持った紙の束を僕に渡す。飾り気のない便箋に、几帳面な文字が並んでいた。一瞥して、僕は尋ねる。
「手紙にすることに、したの?」
こずえはまた、小さく頷く。
「ちゃんと話さないとと思って、メモを書いてたんだけど、結局手紙になった」
真剣な顔で言うけど、普通はそうはならないだろ。僕は思わず苦笑いする。
「わたしの言いたいことが、伝わると思う?」
苦笑に気づいているのかいないのか、こずえは真っ直ぐに聞いてくる。僕は居住まいを正して、もう一度便箋に目を落とす。
そこには、バレー部のみんなへの感謝と、奥村への気遣いのお礼、決してバレーボールが嫌いになったわけではないこと、自分に何ができるかを真剣に考えての選択であること、バレー部に貢献できないことへの謝罪、時間が許す限りバレー部を支えたいこと——これらが簡潔に綴られていた。恐らく奥村と共有しているエピソードや、こずえ自身の心情も添えられている。
便箋から視線をこずえに移す。唇が固く結ばれ、わずかに下目遣い。
「大丈夫だと思うよ。すれ違いを綴りなおす、いい手紙だね」
信用度を上げようと笑ってみる。片頬だけが引きつった。
こずえが、ふっと笑う。
「いいよ、無理しなくて。小西の言葉なら信用できる」
こずえは「ありがとう」と深く頭を下げた。
僕は引き攣った頬を、指で掻いた。顔が熱い。
照れ隠しに、手紙を机でトントンと整えたとき、僕は便箋がもう一枚あることに気がついた。
その一枚を下から取って読もうとした瞬間、すごい勢いで伸びてきたこずえの手に、ひったくられた。
「……見た?」
真っ赤な顔で、睨んでいる。僕は肩を軽くすくめた。
「いや。ていうか、見せたらまずいもの渡すなよ」
ごめん、と謝って、こずえは手紙を丁寧に畳んだ。
本当は、少し見えてしまった。
奥村に向けた、最後のメッセージ。バレーに負けないくらい大好きで、やりたいことがある、と綴られていた。
わたしは物語を書きたい、と。
4
早朝の屋上、僕は塔屋の屋上にいる。コンクリタイルに横になり、空を眺める。千切れた雲が風に散り、時折影を落とす。
ギィ、と屋上のドアが開く音。足音は小さい。僕はへりから下を伺い、誰か確かめた。人影がこちらを振り向いた瞬間、素早く頭を引っ込める。素知らぬ顔で、また横になった。
梯子に手をかける小さな軋み。一拍遅れて、声が届く。
「誰かいますか。上がります」
キシキシと梯子が揺れる音がする。やがて、塔屋の屋上に人が降り立つ気配。
「返事がない……」
上から見下ろすこずえは、眉根を寄せて呟く。僕は上半身を起こすと、ごめんと謝った。
「前に同じことされたから、ちょっとお返ししてみた」
む、とこずえがむくれる。
彼女の左手の指が、鉄錆を擦り落としている。その指にわずかに力が入っていた。
僕はもう一度頭を下げると、座るように促した。
ふわりと髪が舞い、シャンプーの香りが微かに漂った。前は制汗剤の香りだったな、と思い返す。ジャージの入った大きなカバンも、ない。
「沙織は、わかってくれた」
こずえがいつものように核心から切り出す。
膝を抱え、遠くを見たまま、それ以上言わない。
「手紙を、渡したのか」
こずえはこくりと頷いた。
手紙を受け取った奥村は、その場で読み、ただ一言、「わかった」と言っただけだったという。こずえの喉が小さく鳴った。抱えた膝のサポーターを、親指と人差し指で一度だけつまむ。
「それ以外は、何も」
こずえが呟く。
それは、言葉をもっと交わしたかったということか。
それとも、その一言以外、何もいらないということか。
こずえの表情からはわからない。でも横顔は前を見据えている。
僕はその横顔から目を逸らし、共に前を見つめた。塔屋のこの位置からは、街は見えない。ただ遠くの山並みが見えるだけ。
「あの山は、登った?」
こずえがすっと前を指さす。
「どれ?」
「あの大きな欅の、後ろにそびえる山」
「ああ、去年の秋に。部活で」
こずえはふうんと呟くと、別の山を指す。
「あれは?」
「あそこも、冬休みに登ったなあ」
こずえが僕の方を向く。
「てっぺんから見える景色は、違う?」
「それはそうだよ。それぞれに違う。登る道の景色から、頂上の眺めまで、何もかも。」
その言葉に、彼女は頷いた。
流れる雲がかかり、山の稜線が揺らぐ。
「——わたしは、別の山に登る」
宣言するように、言う。
「そして、違う景色を見にいく」
横顔には、微かに笑みも見える。その瞳には何が見えているんだろう。
「それだけのこと」
最後の一言は、自分に言い聞かせるかのよう。表情は揺るがない。ただ、少しだけ声のトーンが沈む。
後ろ髪は、まだ僅かに引かれているんだろうな。
でも、君の目はもう前しか向いてない。
僕は立ち上がり、こずえに向かって手を差し出す。
「そうだね。たぶん、いろんな山を登るんだよ。これから」
こずえは戸惑いながらも、僕の手を取る。立ち上がる重みが手のひらに移り、すぐに離れた。
(了)
※この二人が登場する他のお話は、こちら↓
文芸部の綴りかた https://kakuyomu.jp/works/822139838833570901
夕映えのジャングルジム https://kakuyomu.jp/works/822139839165994919
早朝の屋上で アオノソラ @shigezou11
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