ダーター・ファブラ

譜久村 火山

ダーター・ファブラ

 私は世の中を鳥瞰する癖があった。心の中に自分だけの世界があって、その世界から現実世界を客観的に眺めるのである。そのようにして、大学の3025教室を俯瞰していた時、私はこの世で最も忌み嫌うべき種の人間に出会ってしまった。彼は、窓際から二列目の席に座って、窓の外に映る別館の壁を眺めている。まるで、自分はここにいる人たちとは違うと言いたげな態度だった。「私はお前たちのように遊びたくて大学に来たわけじゃない。大きな志を抱えて、はるばる田舎からやって来たのだ」という文字が顔に刺青のごとく刻まれている。1年生の必修科目であるこの授業は、授業というよりも同回生との交流を図るのが主な目的のようだった。そのため、難しい文学作品を扱うこともなく、授業の多くはグループワーク、アイスブレーク、ミニゲームと言ったポップな内容が多い。それが彼は気に入らないようである。だが、気に入らないという顔をしながら、授業を放棄する勇気も無いらしい。隣の席の女子に話を振られれば、人当たりのいい声で答えるし、グループで会話が盛り上がるとボソッとした声で棘のある冗談を口にしたりする。そんな斜に構えたジョークでも、大学1年生という生き物は笑うのだ。彼らは、箸が転がるどころか、そこに箸があるだけで笑うような人種なのだ。そんな彼らの笑いをとって、さも自分はセンスがあると言いたげに満足している彼の襟足を、今すぐハサミでちょんぎってやりたいという衝動を抑えるのに苦労する。


 私がこの世で最も忌み嫌うべき彼は、その水曜1限の授業であろうことか自らの大志を高らかに宣言した。クラーク博士も大志を抱けとは言ったが、それを言いふらせとは言っていない。共感性羞恥というべきか、胸の内を掻きむしられるようなもどかしい気持ちを教室中に撒き散らしながら、本人だけは何も気にせず「私は小説を趣味で書いています」と述べたのである。ちょうど、ロシアの劇作家の作品を見た後、意見を求められた時のことだった。中年女性の教授が、憐れむような困ったような眉を隠そうともせず、「素晴らしいですね」と言った。その言葉の裏にある言葉を理解していないのは、教室で1人、発表のために立ち上がっている彼だけである。そんな行間も読めないようで、何が小説を書いているだと笑われていることなど、想像もしていないのだろう。「では作り手側からの視点で意見をぜひ聞かせてください」と先生が言う。その時点で私は恥ずかしさから、彼のことを見ていられなくなって、結局彼がどんな意見を述べたのかは覚えていない。その代わりに、シーンと静まり返った教室の空気だけは鮮明に記憶されていた。彼はきっと、皆が自らの大志に耳を傾け理解してくれていると思ったに違いない。だが実際は、胸を張って堂々と道を踏み外した男を、哀れんだり数奇に思っていたりして、言葉が出なかっただけなのだ。あるいは、動物園の檻の中にいるアマゾンのホエザルを、珍しい生き物だと言って眺めているのに似た心持ちなだけだった。


 だがそれまでは、彼はあくまで私の世界の外側にいる人物であり、それこそ動物園のガラス越しに眺めている程度に過ぎなかった。しかし、彼が私の世界との国境線を犯し始めたのは2年生も後期に突入した頃である。就活の早期化とは恐ろしいものだという意見には私も賛成だった。何とまだ大学生活を半分も経験しないうちから、意識の高いものたちは卒業後に向けてインターンやら企業説明会やらに顔を出し始めるのである。私や彼の周りにも、そうした人種は決して少数派では無かった。そして彼は、そんな大学生の先頭を走ろうとする彼らの事を笑っていたのである。「就活って嫌だな」「俺、会社で働きたくない」。これらの言葉は、もし大学生語検定があれば最頻出語彙として真っ先に暗記しなければならない類のものである。彼は、こうした大学生の常套句を用いることを拒んだ。したがって彼は意識が高い学生に対して、「気持ちは分かるんだよな〜」といったんは理解者のような口を聞くのである。だが、彼自身は就活を始める気など毛頭ないらしい。それはとりあえず染めて見ただけの金髪を見たら分かる。彼はとにかく普通を嫌った挙句髪を染めたは良いものの、そこに深い動機や理屈がある訳もないので、服や顔立ちと全くと良いほど噛み合っていないのだった。言わば、ケーキの上にステーキを乗せたようなものである。そんなひどい身なりを、恥とも思わぬ愚鈍さには敬意さえ生じ始める。また彼は、唯一無二を目標としていた。そのため、意識の高い就活生たちをバカにするグループとも一線を置きたがったのである。そんなとき、彼がよく用いた言葉が「ダーター・ファブラ」だった。彼は、聞き齧った程度の文学知識で、同級生たちが「流石にまだ就活は早いだろう」と現実逃避をしているのを聞くと、「ダーター・ファブラ。ダーター・ファブラ。明日は我が身だ」と言って回るのである。その言葉を聞くたび、私は吐き気を催しそうだった。もし金色に染まる彼の襟足を切り落とす機会を得たならば、そのついでにハサミで彼の舌もちょんぎってやりたいと言う衝動を抑えるのに苦労する。


 そして3年生になると、いよいよ多くのものが就活に重い腰を上げ始めた。彼らは意識の高い者たちに比べ腰こそ重かったものの、一度立ち上がればそれまでどこに鳴りを潜めていたのかと思うほどの行動力と団結力で、サークルの先輩、バイト先の同僚、あるいは就活系ユーチューバーなどから集められるだけ情報を集め、ESを書き、リクルートスーツに身を包むのである。仮面ライダーも目を丸くするほどの変身ぶりと言えた。だが当然と言えば当然のごとく、私が最も忌み嫌うべき彼はその就活の波に乗り遅れた。物事を俯瞰する私に言わせれば、彼は頑固すぎるのである。大学に入ってからの2年強の期間で、自らの大志が誰の心にも届いていないのは明らかであった。だが彼は、その事実に目を背け蓋をする能力にかけては右に出るものがいなかったのである。彼は大志のためという甘い戯言に入り浸り、就職活動を先延ばしにしていた。しかし、彼の大志よりも現実の方が遥かに強大で残酷だったらしい。彼はついに巨大な波に屈して、髪を黒く染めたのだった。そして奇跡的に彼と帰り道の方向が三年間も同じだった私は、今日もファミリーマートでタバコを吸い「やべ、まじ肺痛いわ」と叫ぶ大学生を横目に見ながら、家への足を早める。彼は終始無言だった。彼は諦めが悪く、就活の傍ら筆を折ることはしなかった。むしろ彼の認識では筆を執る傍ら就活をしていたと言う方が正しいのだろう。だが二兎追うものは一兎をも得ずとはよく言ったもので、どちらの進捗も芳しくないらしい。頭の中では、就活の波に乗り遅れた焦燥と自己表現の挫折で大いに不安が渦巻いていることだろう。良い気味である。今日、彼の家には奇跡的に出来た友人が、一緒にES対策をするというので訪ねてくることになっているようだった。ちなみに、遅ればせながら、私が最も忌み嫌うべき彼は、名を党紀とうきと言う。私は、党紀の暮す六畳のアパートに入ると手を洗うことも抜かしてハサミを手に取り、自らの襟足をざくりと切り落とした。手に掴んだ髪の毛の束は、未練を感じる前にゴミ箱へと捨ててしまう。そのまま舌を切ってやろうと思うくらい腹が立ってはいたが、面接の時に言葉が話せなくなるといけないので一度強く噛むだけで許してやることにした。少しして部屋を整理していると、インターフォンがなったので私は扉を開ける。私の友人は、人懐っこい笑みを浮かべて玄関前の外廊下に立ち、「党紀の分も酒買ってきた」と言って、私の顔の前にビニール袋を持ってくる。その中には、人を微睡に誘う悪魔的な飲み物が入った缶が2つ傾いている。私は、友人に聞こえないよう心の中で呟いたのであった。「ダーター・ファブラ」と。

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ダーター・ファブラ 譜久村 火山 @kazan-hukumura

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