【潜伏した正気】

@qpzm2408

単発小説【潜伏した正気】

今日も辛い作業だったはずだ。


それなのに,《肉の殻》達はただ呆けた顔を浮かべながら,古びたマンションへ歩を進めた。


アサダはまっすぐにしか物を見ることが出来ない。


脳チップに肉体の支配権を追いやられているからだ。


だが,それでも確信出来る事がある。


《肉の殻》達は無思考で,愚かで賢い支配者に都合の良いパペットでしかないと。


アサダはふと虫を操る生物を思い出した。


ハリガネムシだ。


共産党が表舞台まで君臨する10年程前の子供だった頃に読んだ図鑑によると,ハリガネムシはメスが水中で産んだ卵を産む。


産まれた幼生はまず,細胞分裂を繰り返し水中で成長し始める。


そして,カゲロウなどに捕食される瞬間を密かに待ち受ける。


その後,ハリガネムシが侵入したカゲロウなどの昆虫はこの世の真理である弱肉強食に従い,カマキリに捕食される。


すると…いよいよハリガネムシは本性を露わにする。


なんと,ハリガネムシは宿主であるカマキリの脳を支配するのである。


そして,自身の繁殖場所である水中に飛び込むように行動を支配し,水に落ちたカマキリは溺死する…


それはまさしく今の《肉の殻》達と同じでは無いだろうか?


君主に好きなように利用され,最後は身を滅ぼす。


いわば,脳チップが"ハリガネムシ"。そして,我々は"カマキリ"と言える。


背中に冷たいものが走った。いや,これは正確では無い。 何故なら,アサダの意識は視覚野にしか生き残っていないからだ。


他は全て,脳チップに乗っ取られているだろう。


 家に戻った。


奥に目をやると角張った煤けた机が佇んでいる。


右の壁には丸い鏡のようなテレビ画面がこちらを睨みつけるように張り付いていた。


そして,格子状の檻付き窓。


いつもの光景だ。変わる事が無い。


アサダは心の中でため息をついた。


…待てよ。もしかすると生き残っている部分は他にもあるかもしれない。


アサダは思考を進めた。


今まで自分は机,テレビ,窓とかその他諸々物の"形状"を認識している。


それ即ち,視覚野の…えーと。


アサダはこめかみを掴んだ…つもりで何とか記憶を捻り出した。


確か…視覚野の何とか経路,何とか経路。


え〜と。思い出せ。図鑑で読んだだろ。最初の文字は『ふ』から始まって…『ふくそく』で。


あっ!『ふくそくしかく』…で『経路』に繋がる!


そうだ!『腹側視覚経路』だ。


アサダは黒い靄が晴れた気分になった。


笑いたかったがそれは無理だろう。


だが,そんな事はどうでも良かった。


アサダはこの"思い出す"ことから自身は長期記憶。


つまり,『海馬』が働いている事に気付いた。


また,この気持ちの高ぶりの様から『扁桃体』も支配下から逃れているとも言えた。


そして,自分自身には"物の距離"を認識が可能。


つまり,『背側視覚経路』も自意識下で上手く機能していると言える。


喜びが湧き出た。


それはもう,思いっ切り笑いたい程に。


…俺は"カマキリ"では無いぞ!


アサダは心の中で笑みを浮かべた。


アサダはまた考えた。


この思考が前頭前野に起因するならば,前頭葉の他の部分も動かせるかもしれない。


…例えば,運動前野とか。


だが,今までから見るに身体の動きは脳チップの支配下だ。


それを覆す事は困難だろう。


それにもし仮に動かせたとしても視覚以外は…残念ながらなにも感じ取れない。


これは致命的だ。 何故なら物の感触を読み取る事で対象物に対する細かい操作をしている。


それが不可能ということだ。


しかも,それ以前に身体を自由に動かす事は脳チップに従わない。それ即ち〘君主に逆らった〙と見做され処刑される事を意味していた。


アサダは泣きたかった。


だが,その悲しみを涙で表現することは今のところ,出来ない。


せめてもの思いで心の中で泣き,哀れんだ。


多少心が軽くなった気がした時,視界はいつの間にか丸いテレビ画面に埋まっていた。


《肉の殻》が何か持っている。


ーリモコンだ。


視界の端に壁に掛けている時計が見えた。


それは8時を指していた。


いつもの刻(とき)来た。


《肉の殻》がリモコンを押したのか,左下の小さな赤いランプが緑に変わり,テレビの画面ついた。


そこに白地の画像の上に


『君主:アーディル・エドワード様は素晴らしき方だ!さぁ,崇めよ!我々を救うし者を!』


と黒地の文字が大きく映し出された。


《肉の殻》はそれをパピルスの紙に何度も書き殴る。


その様が,自身の意思による行動では無い事に浮足立った違和感を覚え,吐き気が催した。


やっぱり,こんな惨めで恐ろしい毎日で人生を終えたくない!


アサダは紙に書く文字をこっそり変えることを試みた。


 …よし,まずは。


筆が,いや思考を止めた。


今までから見るに恐らく君主は徹底的だ。それはもう,とても神経質な程に。


一文字違うだけで〘反逆者〙と感知する機械。


いわば,監視カメラが仕込まれている可能性がある。


だが,どこにあるのかは分からない。


身体を動かすことは出来ないから分からないだけかもしれないが…


ならば,どうすればいい?


どう,君主を欺けるのだ?


そう考えれば考えるほど渦が巻き,思考の纏まりが緩み,それでも取り繕うと努める。


だが,努力虚しくアイデアの因子が一つ一つ蜘蛛の子を散らすように散け,崩壊した。


そして,一つの結論に至った。


今は止めておくべきだと。


もし,今ここで下手に行動し,〘反逆者〙と見抜かれたら…それこそ本当に終わりだ。


アサダは泣く泣く一時撤退をした。


《肉の殻》はそんなアサダの心情に構わず,淡々と画像に映る文字を書き殴っていた。


 視界を見るに《肉の殻》の手の動きが止まったようだ。


テレビの左下のランプ が赤から緑に変わった。


《肉の殻》は電球がチカチカ明滅する通路を通り,慣れた手つきで郵便受箱から“配給品”を取り出した。


それは,いつも通り,不味そうだった。


《肉の殻》はテーブルに戻り,君主への礼をした後,ゆっくりと食い始めた。


アサダはどうしたものかと悩み,ピリピリした熱気が襲いかかった気がした。


この後,《肉の殻》は眠り,また朝から長時間労働…


その間に,アサダの意識が完全に消え失せても全くおかしくない。


…もしかしたら,さっきのが最後のチャンスだったかもしれなかったのか。


そう思うと自身の心に凍り付くような恐怖と自己嫌悪が,酸の如く侵食し焦り,怒り,そして冷たい悲しみが突き刺さった。


触覚なぞ感じないのになぜか胸が痛い気がした。


アサダは《肉の殻》の視界を眺めた。


…まだ,食っているな


《肉の殻》は配給品を指先でしっかり押さえていた。


茶色いそれが,めり込むほどに。


やはり,脳チップのプログラムゆえだろうか。


だが,その指は時々痙攣を起こしており,どこか危うさを含んでいた。


何処かのドキュメンタリーで痙攣持ちの中年の指が曲がりスプーンを落とした場面があった気がする。


そして,今。《肉の殻》の指先にその鱗片が感じられた。


…ん?痙攣?落とした?


アサダの脳内に鮮烈な稲妻が駆け巡った気がした。


これは,君主を自然に欺きつつ,実践出来る機会かもしれない。


思わぬ収穫に思考が熱を持ち出した。


 アサダはまず,今日自身が思考していた事を少しづつ引き上げた。


カマキリ…ハリガネムシ…視覚野…


記憶が"視覚野"というワードを起点に芋づる式に引き上がり始めた。


視覚野に繋がる腹側視覚経路。そして…背側視覚経路…そうだ,これが運動に関わる部分であり,前頭葉の…運動前野で身体の動きを制御している。


あと…幸運な事に思考を担う前頭前野が動いている。


つまり,同じくくりに入る運動前野も制御できるかもしれない…だったな。


そして,今,《肉の殻》の指先が時々小刻みに痙攣している。


これなら,指先が曲がり,配給品が床に落ちても気づかれにくいだろう。


…よし


アサダは腹を括った。


今や,身体と意識の分断が極端化されている。


だが,本来脳は一つ一つのパーツが連結し,補強し合うことで機能しているはずだ!


そうだ,これこそが本当に最後のチャンスかもしれないんだ!


動け!指よ!腕よ!身体よ!


すると,《肉の殻》の右手の人差し指が上に反るように揺れ動いた。


…よし!いいぞ!


アサダの脳内に熱い喜びが溢れ出た。


その喜びをゆっくり咀嚼し達成感が突き抜ける様を味わった。


こんな感情は脳チップを埋め込まれて以来,始めてだった。


だが,そうはいられないらしい。


視界の人差し指が小刻みに震え,元に戻ろうとする。


それは,脳チップの弾圧かもしれない。


まさしく,政府が革命軍を抑え込むかの如し。


アサダはそれに負けじと再び命令を再開した。


背け!抗え!抵抗しろ!


そう,命じれば命じる程,人差し指の震えが激しさを増した気がした。


だが,何とか人差し指は上に反ったままだ。


思考が熱を増した。


『更に突き進めるのでは?』と。


すると,アサダの思考にアクセルが踏まれた。


そして,エンジンを吹かし,猛スピードで目の前の障壁を突き破る…


そうだ,今なら行ける。


アサダは命令した。


この脳に,身体に


『動け!』と。


その瞬間。右手が《肉の殻》の視界から消え失せた。


アサダは戸惑った。


そして,黒水のような不安が染み込み出した。


…まさか,"警備隊"の仕業か?


…いや,だがこんなに早く通報されるのか?


…まさか,脳チップ自体に通報機能があるのか?


…つまり,"警備隊"に右腕を…クソ,何も聞こえないからそれすらも分からない!


恐怖のせいか視界に目が行った。


そして,視界の端にある物が見えた。


それは,薄いピンク色で光に鈍く反射し,細長い黒い線が至る所から浮き出ていた。


それは,多くで見た,だがしかし,却って見慣れすぎた故,記憶に残っていないかもしれない。


薄ピンク…鈍い光の反射…細長い黒い線。それで見慣れている。


それが何か,アサダは理解した。


右腕だ。動いたのだ,自身の命令に従い,凄まじい速さで。


そして,右側の支えを失った配給品が空気に溺れ,黒ずんだ床に叩きつけられた。


アサダは喜びたかった。だが,波を引いた。


…これは,目立ち過ぎたのでは?


命令が強すぎたのか?君主に感知されるのでは?


恐怖が渦巻いた。


…だが,この程度はデータのほんの欠片だ。見逃されるのでは?


それに仮に感知されても,稀に起こるバグとして見なされるだけでは?


…そうだ。そんな事より俺は勝利したではないか!


それがどんなにちっぽけでも。


まずは…自由への第一歩を祝福しようでは無いか。


−−勝利の象徴。右手と共に


 視界が開けた。


塗装が剥がれ,工場の煙が染み付いた天井が映る。


昨日は,"小さき勝利"の後,《肉の殻》が地べたに座り床に落ちた配給品を貪っていた。


あれは,哀れなほどに醜い様だった。


だが,アサダはあまり気に留めなかった。


何故なら,昨日は"小さき勝利"を掴み取ったからだ。


アサダは試しに《肉の殻》の右手を再び動かそうとした。


−−動かない。


だが,これは想定内だ。


アサダは強い命令を身体に下した。


『動け!』


−−動かない。


いや,右手を上げるどころか《肉の殻》は腕をだらんと下げ,ベッドに起き上がり,配給品を受け取った。


…クソ,『動け!動け!』


だが,指先の動きさえも操れない。


…俺に従って動けって言ってるだろ!


だが,《肉の殻》には伝わらないのか,淡々と食事を終え,通路を渡り始めた。


…ダメだ!止めろ!止めてくれ!


そう,1日中,騒ぎ立てた。しかし,無駄だった。


それは,1週間,1カ月,1年間…どんなに必死に,喧しく,騒ぎ立てても,何も変わらなかった。


あれは…あの"小さき勝利"は何だったのだ!?


まやかしだったのか?


愚かな勘違いだったのか?


違う!違う!あれは真実だ!この記憶に刻まれているだろ!


思い出せば出すほど鮮明に映し出される。


そして,虚しさが強まりこちらを嘲笑うようだ。


アサダの心に鉛が伸し掛かった。


それはあまりに重く,暗い底に沈んでしまいそうなほどに…


 −数年後−


黒ずんだ鉱石にピッケルをぶつける。


その反響は骨身に走っているだろう。しかし,伝わらない。分からない。


だが,意識だけは残っている。


アサダは最近思った事がある。


思考を殆どしていない事だ。


ただ,無情となり,淡々とこの"退廃的な日常"を受け入れようとしている。


だが,ある感情がリバウンドしてくる。


【反骨心】だ。この世界への。


それが波打つたびにアサダは身体に命令を下した。


何度も何度も何度も…


だが,どれも儚く崩壊していった。


やはり,あの右腕の動きが君主に感知されたのだろう。


そして,忽ちに脳チップのプログラムがパソコン越しで数時間で修正されたと…


そうだ。そんな事,直ぐに気付けたでは無いか。 だが,怖かったのだ。


そんな,恐ろしい現実を考えるのが…


アサダは久々に,まともな思考を働かせていると気付いた。


今までは思考という物は物事を解決させる,素晴らしき機能。


そう,疑いもしなかった。


だが,今は違う。


余計なデキモノ。自身に傷をつけ,痛みつける。そんな,冷たいナイフ。


それが思考に対する今のアサダの認識だ。


もう,嫌だ!


こんな世界に疑問を持ってしまう思考が!


いっその事,自ら消してしまいたい。


…そんな事,出来ないのに。


そうだ,誰かに消してもらえばいいんだ。


…誰か,誰か。


-俺を消してくれ-


(終)

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