第38話「願いの果てに」
「私だ」
絶望的な記憶が否定しようもない程はっきりとした形を持って、櫻の空虚な心に落ちていく。
その記憶は重く鋭いナイフとなって、容赦なく櫻の心を貫いた。
そのナイフは抜けない。
長い間ずっと、そこに刺さっていたと気付いてしまったから。
「私が、殺した」
棺の冷たさや男の言葉の温かさ。いつも夢で体験していたあの感覚が蘇る。
それらを現実に照らし合わせることで、櫻の中でリンの言葉に説得力が生まれた。
あれは現実のことだった。
「……先輩?」
櫻の変化を感じ取った正也は、絶え絶えの息で櫻に呼びかける。
しかし櫻は目を見開き、力無く項垂れたままだ。
「現実の人間と強い関わりを持った吸血鬼の王は力の一部を取り戻した。あなたの選択が奴をこの世界に繋ぎ留めた」
リンの熱く冷たい目が櫻に突き刺さる。
「将来有望なあなたのその過ちは、大人たちの示し合わせで無かったことにされた」
リンは噛み締めるように言い放ち、リボルバーを持ち直す。
「そして、再発防止のため残酷に生まれ変わった神殿の守り手だけが残った」
リンの視線の先、正也は震える手で櫻の手を握った。
しかし、その手から温度を感じられなかった。
「デタラメ言うな。先輩が、そんなことするわけない」
「そう思うのも無理はない。見たところ神野櫻は当時の記憶を失っていたようだから」
リンはそう言い、自分の服をぐしゃりと掴む。
「私は、忘れたことは無かった」
リンのその悲痛な目を見上げ、正也の中に絶望が流れ込む。
リンは大きく息を吐き、その銃口をはっきりと櫻に向けた。
「聞け、神野櫻。あなたにはもう一度だけチャンスが与えられた」
「チャン、ス?」
櫻は虚ろな目でリンを見上げる。
その目のあまりの力の無さに、正也の心が抉られる。
「そう。妖木正也、彼の拘束に協力すること。そうすれば再び、祓魔師としての道が開かれる」
「そう、か。そうなのか」
櫻は虚ろな目でそう呟き、落とした太刀をもう一度握り取る。
「先輩っ」
そして、正也を見下ろして微笑んだ。
「今決めろ」
リンの威圧的な声が降りかかり、櫻は虚ろな目のまま再びリンを見上げる。
「祓魔師として綺麗な身体で復帰して、その後どうするの」
「……感傷に浸ってる暇は無い。あなたにその権利は無い」
「彼を忘れて、戦うの?」
櫻は正也の手を握り返す。その手に、熱が戻っていく。
「そんな人生に、何の意味があるの?」
「神野櫻、今何を言ってるかわかってるのかッ!」
リンの肩が怒りで震える。
しかし次の瞬間、櫻は悲しそうに笑った。
「そんなの、耐えられないよ」
「ッ!」
リンの照準が大きくぶれる。その人差し指が、引き金を引けと叫ぶ。
しかし、目の前の櫻の笑顔から目を逸らせない。
脳が見るなと叫んでも、目を奪われる。
「やめろ。やめろやめろッ! そんな風に笑うなッ!」
櫻は自分の全てをリンに託すかのように、にへっと笑った。
「愛してるんだよ」
櫻の頬を涙が伝い、そよ風がそれを揺らす。
それを見ていた正也の目からも一粒の涙が零れる。
喉がヒリヒリと痛み、正也は、目の前の希望から目を離せない。
「こんなに人を愛したこと、なかった」
「やめろッ! 喋るなッ!」
リンの目の奥、櫻の姿が一人の女性の姿に重なる。
髪の長さ、背格好、歳まで同じその女性は、リンを振り返り微笑む。
『リンちゃん』
「いくらでも謝るよ。許されないかもしれない。殺されるかもしれない。それでも、正也君を裏切るよりはずっとまし」
「やめろッ! 撃つぞ! 本当に!」
「撃って」
そして櫻は、正也の手に恋人のように指を絡ませた。
「それでも、正也君のことは助けてほしい」
「あ、あああ」
リンの目に、風に揺れる櫻の長い黒髪が映る。
引き金を引けと叫ぶ。
思い出の中のあの人の手の感触が指を伝う。
殺せと命令する。
殺しちゃダメと言われる。
『リンちゃん、私、好きな人が出来たの』
――銃声。
極度の緊張に達したリンの指が筋痙攣を起こした。
その音に、自分の行為に、信じられないと目を見開くリン。
そして直後、目の前の光景に目を疑った。
「正也君ッ!」
正也の肩から血が噴き出す。
正也に覆われた櫻の悲鳴が響き渡る。
リンはその光景を、ただ見ていた。
ただ突っ立って、見ていた。
「正也君ッ! しっかり! 正也君!」
泣き叫ぶ櫻の姿がリンを放心させ、徐々に冷静さを取り戻させる。
まだ熱を帯びているリボルバーを腰に差した。
「……急所じゃない。大丈夫」
そしてリンは、そんなことを呟いた。
「え?」
「ちゃんと貫通してる。吸血鬼ならすぐ治る」
リンはそう言い、再び和傘を差す。
「一日、猶予をあげる。条件は悪くないと思う。ゆっくり考えることね」
「待って」
再び傘に隠れようとした直後、櫻に呼び止められる。
「君はもしかして、スズさんの」
「黙れ」
リンは短くそう言い放ち、すぐに前を向き直した。
「その名を言うな」
「あっ、待って!」
櫻が瞬きをする間に、リンは姿を消す。
最初からそこに誰もいなかったかのように、冷たい夜風が吹く。
「せん、ぱい」
櫻は虚ろな目を浮かべる正也を見下ろし、抱き締める。
「大丈夫。もう大丈夫だ」
正也は力無く櫻の背中を撫でた。
欠けた月が、二人を照らしていた。
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吸血鬼な俺と、美しく狂った祓魔師の話――これは最悪で最強の共犯契約 渋谷楽 @teroru
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