三年ぶりの光池公園。文乃の胸は懐かしさでいっぱいだった。昔はよくここで遥香や聡美と一緒に遊んだものだ。秋になるとたくさんのドングリが落ちていて、遥香がニコニコしながら大量に拾い集めていた姿をよく覚えている。


 誰かに手をあげたことなんて、今まで一度もない。だから、自分でも今日の出来事はショックだった。後悔が文乃の胸に重くのしかかる。


 応接室で姫山の母親に引き合わされた。お父さんは必死に頭を下げて謝っていたけれど、文乃はうつむいて何も言わなかった。手を出した自分が悪いのは十分承知のうえで、それでも文乃は謝りたくなかった。姫山の母親は激高し、耳を覆いたくなるほどの暴言を浴びせかけられた。先生たちが必死になだめてくれなければ、どうなっていたか。


 いろいろと胸に抱え込んだまま早退し、部屋に閉じこもっていたところに遥香からの呼び出し。あまり気乗りはしないけれど、ぬいぐるみのことも謝らないといけない。


 指定された時間ちょうどに、文乃は見晴らし台へとやって来た。


 東屋のベンチに座っていた遥香が、文乃の姿を見て駆け寄ってくる。


「……ハルちゃん」


 呼びかける声が、かすれた。


「アヤちゃん。ごめんね。わたしのせいで姫山たちに目をつけられて、いじめられて。大変だったでしょ。ほんとにごめんなさい」


 頭を下げる遥香に、文乃はいたたまれなくなる。


「やめてよハルちゃん。ハルちゃんが悪いわけじゃ――」


 言い切る前に、遥香が勢いよく頭を上げた。いつものにこやかな遥香とは違う。ものすごく真剣で、とても厳しい眼をしている。野球の試合で打席に立つ遥香を思い出す。


「でも、今日はその事じゃないんだ。少しだけ待っててね。わたしが絶対助けるから!」


 助ける? 何のことだろう。不思議に思っていると、遥香が目を閉じ、なにかをつぶやいた。


 突然、あたりが暗くなる。周囲の木々がざわざわと揺れ出した。

 全身を締め付けられるような、奇妙な圧迫感がある。不安感がかき立てられる。


「は、ハルちゃん? 何これ――」

「フハハハ! 領域展開とはな! 小娘、貴様一体何者だ?」


 背後から、男の人の声がした。びくりと肩を揺らして振り返った文乃の目に、全身をうろこに覆われた化け物の姿が映った。


「ひっ! な、なに、この人……」


 思わず後ずさった文乃は、けつまずいて尻もちをついた。文乃を見下ろす化け物の顔に、歪んだ笑みが浮かんでいた。




 ※

 領域を展開した遥香は、文乃の背後に取り憑いていた妖の姿をはっきりと視認した。


 ヌラリとした艶のあるうろこ。チロチロと飛び出す舌。ひょろりとした細長いからだ。腕や足はあるけれど、間違いない。


「お前、ヘビだな!」

「見ればわかるだろう? それで、わざわざ領域展開までして、何用だ、小娘」


 妖は余裕たっぷりの表情で遥香に向かい合う。


 遥香は目に霊力を集めた。霊視で妖の霊力を調べる。茶色っぽい霊力が妖の全身にまとわりついていた。


(木の属性か。確か、『木剋土もっこくど』だったはず。つまり、あいつは土に強いってことか。わたしが土だから……ちょっとヤバいかも?)


 前に見た奏多の霊力よりも力強い感じだし、相性もあまりよくなさそう。それでも、やるしかない。とはいえ、まずは――。


「お前! アヤちゃんから離れろ! そしたら退治しないでおいてやる!」


 自信満々のふりをしながら、妖にビシリと指を突き付けた。戦わないで済むならそれが一番だ。


「なにを言うかと思えば。お前程度の小娘が、俺を退治するだと? やれるものならやってみせい!」


 けれど妖は全く怯む様子を見せず、逆に大声で威嚇してきた。ビリビリとした気迫が襲い掛かり、遥香は内心大いに怯む。


(くそ、だめか。仕方ない……!)


 遥香は戦うことを決意する。


 遥香の得意なことの一つに、一時的に霊力を高める術がある。奏多がやっていた姿がカッコよくて、真似してみたら思いのほかうまくいったのだ。これで高めた霊力をこぶしに集めて殴ってやる。


 遥香は妖を見据えたまま、三歩ほど下がって距離を取る。妖は面白そうに見ているだけ。おそらく遥香をなめているのだ。後悔させてやる!


「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前!」


 唱えながら遥香は、一字ごとに両手を特別な形に組む。この手の動きを『印を結ぶ』といい、呪文が九文字であることから、九字印とか九字護身法とかいうそうだ。

 九字を切り終えた途端、遥香の霊力が跳ね上がる。妖がぎょっとした表情を浮かべた。


「な、なんだそのでたらめな霊力は! お前、本当に人間か?」

「人間に決まってるやろ! 人をおばけみたいに言うな! ちょ、ちょっとアヤちゃんまで、そんな目で見ないでよ!」


 蛇の妖の横で尻もちをついている文乃は、驚きすぎて何も言えない様子だ。ただ、遥香に向けている黒い瞳に、怯えの色が浮かんでいる。領域の中にいる文乃には、遥香の霊力が見えるはず。マンガのキャラみたいに勢いよくオーラを立ち昇らせている遥香が、化け物のように見えてもおかしくない。それはわかるけれど――。


 文乃は、ハッとした顔をしたかと思ったら、フイッと目をそらした。遥香は泣きそうになる気持ちを抑え込んで、妖に向かい合う。


「ま、まあいい! どうだ、これでわかっただろ! わたしはめっちゃ強いんだ! 痛い目にあいたくなかったら、さっさとアヤちゃんから出て行け!」

「……ふん。確かに霊力の総量はすさまじい。俺なんかとは比較にならん。だが――」


 落ち着きを取り戻した様子のヘビの妖が、突然口から何かを飛ばしてきた。かなりの速さでまっすぐ遥香めがけて向かってくる。ぎりぎりのところで体をひねってかわす。


「あっぶな!」

「ほう! よく避けたな! なかなかの身のこなしだ。だが、いつまでかわせる?」


 妖は次から次へと口から何かを飛ばしてくる。近づいて殴ってやろうと思っているのに、避けるだけで精いっぱいだ。


 何発か連続で飛んできて、その場で体をひねるだけでは避けきれないと思った遥香は、右の方向へ走り出す。


「おい! 卑怯だぞ! 飛び道具やめろ!」

「なにが卑怯なものか! これが俺の攻撃だ! それ、無駄口をたたいている暇があるのか、小娘!」


 蛇の攻撃はさらに勢いを増し、遥香は逃げ回ることしかできない。その姿を見て、妖は笑い出した。


「小娘! でかい口を叩いてそのざまか! 逃げ回るだけか! 情けないな!」

「やかましい! お前なんか、一発殴ればすぐに倒してやる!」

「ならばやってみせろ! 口だけの小童が!」


 遥香は逃げ回りながらも観察を続けていた。蛇が口から霊力の塊を飛ばしていることはわかった。木属性の攻撃で、食らうとダメージが大きそうだ。相剋の効果は遥香が思うよりもはるかに大きいと、西華も奏多も言っていた。なんとしても避けきらなければ。


 文乃はおびえた様子で座り込んでいる。文乃を巻き込むわけにはいかないので、まずは蛇の攻撃が文乃と反対になる方向へと移動した後、左右に攻撃をかわしつつ近づく隙をうかがう。けれど、攻撃の間隔が短すぎて、全く隙が見いだせない。


 蛇の攻撃はとどまる様子を見せない。打つ手のないまま逃げ回り続けること、十分。そのうち、遥香は疲れが出はじめてきたのを悟る。いくら体力のある遥香でも、休む間もなく動き回るには限界がある。息が切れてきて、足の動きが重くなり始めている。


(やばい。足が動かなくなってきた。このままだといつかはつかまる。どうすれば――)


 動きの鈍りを見て取ったのか、蛇の妖はさらに大きな声で笑った。


「小娘、ここまでのようだな! 残念だ、先に見つけていれば、お前の方に取り憑いてやったものを。まあいい。お前は実体化した後に食らってやる。まずは――」


 妖は遥香に向けていた攻撃をやめ、いやらしい眼を文乃に向けた。「ひゅっ」と息をのみながら、文乃は身をすくめる。


「こちらの娘の霊力を吸いつくすとしよう。それまでは見逃してやる。さっさと消えろ」

「やめろ! わたしはまだ動けるぞ! アヤちゃんに手をっ――」


 突然、おなかに衝撃。蛇の攻撃をまともに食らった。鈍い痛みと、こみ上げる吐き気に耐えられなくなって、遥香はその場に膝をつく。


 痛みが治まらない。たった一発で。護符の効果なんて軽々と突き破っていった。本気の霊力の攻撃って、こんなに強烈なんだ。前に西華や奏多の攻撃を食らったときは平気だったのに。だめだ、動けない。息ができない。


「ハルちゃん!」


 文乃の悲痛な叫び声が聞こえる。


「鬱陶しいな小娘。いい加減、お前の大言壮語も聞き飽きた。その霊力量は少し惜しいが、生かしておくと面倒そうだ。この場で命を刈り取るとしよう」


 蛇の声が遥香に落ちる。


「やめて! ハルちゃん、逃げて!」


 泣き叫ぶ文乃の声。でも、指一本も動かない。


 蛇が近づく足音が聞こえる。でも、そちらへ顔を向けることもできない。


(ああ、やっぱり西華の言う通り、無謀やったんや。意地張らずに、言うことを聞いておけばよかった。ごめんね、アヤちゃん。ごめんね、西華……)


 一歩、一歩、足音が近づいてくる。抵抗する気力もわかない。


 自分でも信じられないぐらい、あっさりと命をあきらめた。目を閉じ、覚悟を決める。


 その時――。


「何をやってる! さっさと立て!」


 怒鳴り声が聞こえた。聞きなれた、少し高い男の子の声。

 何かが地面をけりつけるような音がした。遥香はなんとか顔を上げる。

 近寄ってきていたはずの蛇の妖が、わずかに離れた場所にいる。


 遥香と蛇の間に立ちはだかるのは、黒い翼を背負った楠瀬奏多。


「遥香、立て! いったん引くぞ!」

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