3
もう間もなく八月も終わるというのに、相変わらず猛暑日が続いている。照りつける太陽の熱を浴びていると、体がアイスのように溶けてしまいそうだ。登校時間から三十度越えとか勘弁してほしい。ジャガジャガと騒ぎ立てるセミもまだまだ元気だし、あと一週間で九月になるなんて信じられない。
(ただでさえ体が重いのに、こんなに暑い日が続いたら死んじゃうよ。はあ)
ダラダラと学校までの道のりを歩いた遥香は、足を引きずるようにしながら、新学期の教室へ向かった。
「木火土金水土金水木火火土金水木相剋相生霊符護符人形臨兵闘者皆陣列在前……」
「遥香、それ何? なんかのおまじない?」
ブツブツつぶやきながら席についた遥香に、聡美が声をかけてきた。浅黒く日焼けした肌につやがあって、生き生きしている。海にでも行ったのだろうか。
「……聡美は元気そうだね」
「そういう遥香は元気ないね。もしかして、疲れてる? え、今日って夏休み明けだよね?」
なんだか失礼な驚き方をされているような気がするけれど、聡美の指摘は正しい。遥香は疲れている。人生の中で、一番大変な夏休みだった。
まさに地獄だった。
一日のスケジュールがすべて終わるのは大体夜の十時半。遊ぶ暇なんてありはしない。夏休みは積んでいたゲーム三昧の日々を送ろうと思っていたのに、とんだ誤算だった。
午前中の部活の練習は、全然問題ない。連日四十度近い酷暑ではあったけれど、どれほど過酷な環境であろうとも、大好きな野球、正確にはソフトボールの練習に打ち込めるのなら、遥香にとっては天国だ。
問題は午後だ。
昼食後すぐに、自宅隣にあるお母さんの事務所――お母さんは、税理士なのだ――に監禁される。うず高く積み上げられた問題集の山。お母さんと事務員の吉田さんによる厳しい監視。猛然と襲い掛かってくる睡魔。たくさんの強敵に取り囲まれての激戦は、遥香史の教科書に載ること間違いなしだ。
気力を振り絞って、どうにかお昼の課題をこなした後、野球の特訓に行くといって家を出る。向かう先は聖の森神社だ。目をこすりながらふらふらと神社まで歩くと、西華と奏多が腕を組んで待ち構えている。修業の開始だ。
修行は、瞑想や座禅なんかの精神修行や、基本的なことについての勉強が中心だった。体中にじんましんができそうなぐらい、ものすごく苦痛な時間だった。
最後は寝る前の暗記時間。とにかく覚えろといって渡された英単語や漢字の練習帳は、疲れ切ってヘトヘトの遥香にとって、一日を締めくくるラスボスだった。
目覚めたとき、枕が濡れていない朝はなかった。
こんなスケジュールだからだろうか。最初の頃は修行に身が入らなかった。
西華に会うまで妖の存在すら知らなかった遥香だ。狙われるといわれても、実感なんて持ちようがない。やれと言われたし、万が一のことがあった時に西華に見捨てられたくなかったので、修行には取り組んでいたけれど、自分でもわかるぐらい、いい加減で適当な態度だった。
だけど修業を始めて一週間が過ぎたころ、遥香の態度はガラリと変わった。
ある日突然、本当に妖が襲い掛かってきた。襲ってきたのはめちゃくちゃ弱い餓鬼という妖で、姿はゲームとかの序盤で出てくるような、ちびっこい鬼みたいな感じ。初めて見る異形の化け物が恐ろしくて、足がすくんで動けなくなった遥香に、そいつは甲高い雄叫びを上げながら突進してきた。まあ、ぶつかられたと思った瞬間、泡がはじけるように、勝手に消滅したのだけれど。
その様子を見ていた西華と、いつのまにか西華の助手のような立場になっている奏多との会話は、固まって動けなくなった遥香を恐怖の谷底に叩き落した。
「餓鬼か。数だけは多いからな。襲われるのも不思議はない。しかし相変わらず頭の悪いやつらだ。ハルカスの霊力に正面からぶつかればどうなるか、わかりそうなものだが」
「でも、よかったですよね、餓鬼で。烏天狗クラスなら、たぶん遥香、死ぬでしょ?」
「死んだら死んだで別に構わん。そうなれば、おそらく鍵もワシに戻るしな」
ハハハと朗らかに笑う二人。遥香はあぶら汗を流しながら心の中で絶叫した。
(かまうやろ! なに笑ってんねん! ……いや、これあかん。冗談に聞こえへん。ちゃんと修行せんと、ほんまに死ぬ!)
それ以来遥香は、野球に対するのと同じぐらいの情熱を、修行に捧げている。
大変な夏だったけれど、つらい思い出ばかりでもない。
一番の思い出といえば、和泉丘中学校ソフトボール部史上、初のベストエイト進出を果たせたことだ。夏休みに入ってすぐだったこともあり、遥香もまだまだ元気だったので、大会では獅子奮迅の大活躍。他の学校の選手や先生から、「一年⁉ ウソやろ⁉」と驚かれるほどだった。残念ながらホームランは打てなかったし、準々決勝の相手が優勝候補の学校で、コテンパンにやられてしまったけれど。試合後、号泣しながら遥香たち下級生を抱きしめる三年生の姿に、遥香も思わずもらい泣きしてしまった。自分もあんなふうに、下級生にお礼を言える三年生になれるだろうか。
あとは、毎年楽しみにしている恒例の家族旅行に行ったのだけれど、こちらは例年と違い楽しめなかった。原因は西華だ。
旅行に行くから修行を休ませてと伝えると、
「旅行……旅か。そういえば、三百年ほど前に奥州に行ったきり、旅など久しくしておらんな。よし、ワシもついていくことにしよう」
そう宣言した西華は、許可もしていないのに、フワフワと遥香にくっついてきた。旅行中、やれ善光寺は久しぶりだとか、戸隠のじじいどもは元気かのとか、お前の妹弟は可愛いな、お前とえらい違いだとか、なんやかんやと耳元で好き勝手なことをしゃべり続ける。うるさくて仕方がなかった。
普通の人は西華の姿を見たり声を聞いたりできないので、家族の誰も西華には気づかないのだけれど、耳元で騒がれると気が散ってしまい、旅行を楽しむどころではなかった。
ちなみに、基本的に西華の姿は、最初に会ったときの女の子バージョンだ。大人の姿はあまり好きではないとのこと。白い服に赤袴の格好は、巫女さんではなく白拍子の衣装なのだとか。白拍子というのは、今でいうダンサーみたいな職業らしい。
旅行中ひとつ気になったのは、西華が遥香をからかったときに、お父さんが小さくふき出していたこと。
(まさかお父さん、西華の声が聞こえてる?)
誰もいないときに聞いてみようと思うのだけれど、なかなか機会がなくて、今のところ確かめられていない。
「なんか、遥香が元気ないと違和感があるなぁ。それだけが取り柄なのに」
「だけってなんだよ! ふん、まあ見てるがいいさ。この夏休み、わたしは半端じゃない努力をつんだ。聡美がボケっと遊んでいる間に、はるかにパワーアップしたんだよ」
「遥香だけに?」
「やかましいわ!」
そんなやり取りをしていると、離れたところで例のグループがまた悪口を言い始めた。
「聞いた? あいつなんか変な呪文みたいなのぶつぶつ言ってるんだけど」
「聞いた聞いた! めっちゃキモいよね。呪われそう!」
「暑さにやられて、頭おかしくなったんじゃない?」
「いや、もとからでしょ」
大きな声で笑いながら悪意を飛ばしてくる連中。遥香は知らん顔をする。
けれど聡美は我慢できなかったみたいだ。怖い顔をして、そいつらの方を向いた。
「あいつらまた……! もう無理、ちょっと行ってくる!」
「いいって。ほっときなよ。相手にするだけ無駄だって。どうせ『は? あんたらのことなんか言ってねーし』とか言うに決まってるし」
「……姫山の真似、うまいね」
「まあね」
姫山というのは、あのグループのリーダー格のやつだ。姫山グループは遥香のことが気に食わないらしく、事あるごとにちょっかいをかけてくる。とはいえ、今のところ、せいぜい聞こえるように悪口を言われるぐらいで、直接なにかされたことはない。
きっかけは自己紹介の時。「ハルカス言ったらしばく」のあいさつをした後、「将来はプロ野球選手になりたいです!」と言ったことが、気に入らなかったらしい。遥香は大まじめなのだけれど、姫山グループのやつらは、ウケ狙いのギャグと思ったみたいだ。「さむっ」とか言って、遥香をけなしていた。寒いなら厚着して鍋でも食ってろ、と心の内でツッコんだのは内緒だ。
聡美はよく怒っているけれど、遥香は気にしないようにしていた。気の合わない相手の一人や二人、いない方がおかしい。友だちと仲良くできているならそれでいい。
「遥香がいいなら、まあいいけど。……あ、そういえば話変わるけど、三組に転校生がくるらしいよ?」
「へえ。でも三組じゃ、あんまり関係ないかもね」
「まあ、そうかもね。……そろそろ先生来るね。またあとでね」
聡美は手を振りながら、自分の席に戻っていった。
(転校生ね。今はそんなこと、気にしてられないんだよね……)
今週末、奏多が基本理論の確認テストを作ってくることになっていて、不合格だった場合、逆さ吊り滝行の刑に処されるらしい。近くに滝なんかないし、冗談だと思いたいけれど、相手は西華だ。気を抜くわけにはいかない。
(なんでわたしの周りにいる人は、だれもかれも厳しいんだろう? ああ、どこかに誰かわたしを甘やかしてくれる人はいないものか……)
不遇な境遇を嘆きつつ、頭の中で基本理論を繰り返す遥香だった。
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