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バッティング練習を終えてヘルメットを脱いだ遥香は、自分を呼ぶ声に気づいた。目を向けると、練習着姿の聡美が手招きをしている。
(聡美が部活中に来るなんて珍しいな)
首をかしげながら、聡美に近づく。はじける笑顔。鼻息が荒い。
「なに? なんかあったの?」
「遥香! 三組の転校生、文乃だって!」
聡美の言葉を、すぐには理解できなかった。
(あやのって……まさか、うそ、そんな)
「遥香聞いてる? 文乃だよ、御影文乃!」
忘れられない名前だった。
遥香の一番の親友だった女の子。四年生の春に引っ越して、それっきり。
『もういいよ、勝手にすれば! アヤちゃんなんて大っ嫌い!』
最後に会った時、怒りにまかせてぶつけてしまった言葉を聞いて、文乃はひどく悲しそうな顔をした。
心が痛くなって、その場から逃げた。泣きながら家に帰った後――。
『文乃ちゃんは理由もなく簡単に約束を破る子じゃないでしょ? 遥香には言えない事情があったかもしれないよ? 文乃ちゃんの事情は、遥香にとってはどうでもいいことなの? 遥香の都合だけが通る関係性を、遥香は望んでいるの? それが遥香にとっての友だちなの? お母さんは、そんなふうに思ってほしくないな。お互いを尊重し合って初めて友だちっていえるって、お母さんは思う。遥香はどう?』
まっすぐに遥香を射抜くお母さんの真剣な目と、穏やかで優しい声を、遥香は今でもはっきりと覚えている。とてもとても大切なことを、お母さんは伝えてくれた。
ずっと後悔していた。いつか謝りたいと思っていた。だけど、時間がたつにつれて、どうせもう会えないのだからどうでもいいと、あきらめてしまっていた。
(アヤちゃんが、帰ってきた……)
あんなに仲良くしていた親友だ。帰ってきたと聞いてすごく嬉しい。けれど、なぜだか素直に喜べない。会いたいはずなのに、会いたくない。
気分が悪い。喉が苦しい。心臓がバクバクする。
「ちょ、ちょっと遥香。大丈夫? 顔真っ青だよ」
聡美の心配そうな声。強がることもできそうにない。
「ごめん。ちょっと大丈夫じゃない。あっちの方で休んで――」
言いかけた遥香の目に、昇降口から出てきた女の子が映る。
遥香はその子を知っている。
肩のラインで切りそろえたショートカットがよく似合う、お淑やかな雰囲気の女の子。雪のように真っ白な肌が、西日を浴びて輝いている。長いまつ毛をたずさえた切れ長の眼は昔のまんま。少し大人っぽくなってはいるけど、彼女であることはすぐにわかった。
こちらに目を向けたその子の顔に、明るい花が咲いた。まばゆい笑顔に、思わず目をそらしたくなる。小走りで近づいてくるその子から、逃げ出したくなる。けれど、遥香の体は金縛りにでもあったかのように、ちっとも動いてくれない。
バックネット裏までやって来たその子が、嬉しそうに、言った。
「ハルちゃん! 久しぶり! 会いたかった!」
※
「御影文乃です。三年前までこのあたりに住んでいました。大阪に帰ってこられて、私もすごく嬉しいです。皆さん、仲良くしてください」
文乃は深々と頭を下げた。
顔を上げ、目だけを動かしてクラスのみんなを見る。見知った顔がちらほら。何人かは笑顔で小さく手を振ってくれている。あたたかい歓迎に、文乃の顔も自然とゆるむ。
遥香の姿はない。違うクラスなのか、それとも別の学校に行っているのか。
用意された窓側の席の、隣に座っていた男の子が、目を丸くしながら自分を見ている。遥香と同じ野球チームのメンバーで、そのつながりで文乃とも仲が良かった男の子だ。
「山本くんだよね。久しぶり」
「ああ、ほんとに御影さんだ。びっくりした。ほんと久しぶり。そうか。あれからもう三年もたつのか」
自分を飛び越して窓の外に目をやりながら、しみじみと言う山本が面白い。昔と変わらない、のんびりした感じが懐かしい。
「山本くんはまだ野球やってるの?」
「うん。外のクラブチームで続けてるよ」
「……ハルちゃんは?」
彼には申し訳ないけれど、実のところ聞きたいことはひとつだけ。不自然ではなかっただろうか?
「ああ、遥香か。そういえば、御影さんと仲良かったもんね。あいつは今ソフトボールやってる。茜さんが持ってった。うちの監督も野球部のやつらも、やられたって嘆いてたな」
「この学校にいるの?」
「うん。一組にいるよ」
放課後、先生と転校後の打ち合わせをした後、文乃は昇降口を出てグラウンドを見る。ちょうどソフトボール部が活動中だった。しかも、すぐ近くにあるバックネットの向こうに、お目当ての人物がいた。三年ぶりでもすぐに分かる。
そうして声をかけたのだけれど、遥香の反応が想像していたものと違う。てっきり、満面の笑顔であいさつを返してくれるものと思っていた。
実際には、まるでお化けでも見るかのように、顔が引きつっている。もしかして、忘れられてしまったのだろうか?
「えっと、ハルちゃん。私のこと覚えてる?」
たずねる声に不安がにじむ。
「あ、当たり前じゃん。あ、アヤ、ちゃん。わ、わたしも、あいたかった、かな?」
「なんじゃそりゃ。遥香、変なもんでも食った?」
歯切れの悪い遥香を責めた背の高い女の子は、昔の面影を色濃く残していた。
「うそ、もしかして聡美?」
「もしかしても何も、そうだよ文乃。久しぶり。元気そうだね」
「うわ、先輩かと思ってた! 背、伸びすぎ! 何センチあるの? モデルさんみたい!」
「ふふ、驚いたか。文乃は……まあ、あんまり変わってないね」
「聡美が変わりすぎてるんだよ!」
二人して笑いあう。けれど、遥香の顔は引きつったまま。
大丈夫かと声をかけようとしたら、
「……あ~! 先輩が呼んでる! 行かなきゃ! じゃ、じゃあ二人とも、またね!」
わざとらしく言いながら、遥香はくるりと身を返し、ものすごいスピードでその場を離れていった。
「なんだあいつ。せっかく久しぶりに文乃と会えたってのに」
「……ハルちゃん、なんか昔と雰囲気違うね。変わっちゃったのかな……」
三年前までは、もっと底抜けに明るい感じだった。見ているだけでこっちまで楽しく元気になれる、太陽みたいな女の子だった。さっきの遥香には、少し影があったような気がする。
文乃の言葉に、聡美が「はあ?」と素っ頓狂な声で反応した。
「変わったって、遥香が? ないない! あいつ昔のまんまだよ。むしろ全く成長してないのが心配になるくらい」
「……そうなんだ」
だとすると、多分、遥香はまだ文乃を許していないということか。
引っ越すときのどたばたで不義理をして、遥香を怒らせてしまった。きちんと謝る暇もなく引っ越してしまったので、遥香が怒ったままだとしても仕方がない。
やったことの後始末もしないまま、なあなあでごまかそうなんて、虫がよすぎる話だ。
(次にハルちゃんに会った時にはちゃんと謝ろう)
走り去っていく遥香の背中を見ながら、文乃はそう心に決めた。
※
修行はほとんど毎日ある。その日の夕方も、遥香は神社に来ていた。少し前に比べるとだいぶ日が落ちるのは早くなっているけれど、六時ぐらいならまだまだ明るい。
ご神木の楠を背に瞑想している遥香の耳に、西華の「もういい」という、ため息交じりの声が聞こえた。
不思議に思って目を開けると、西華が首を振っている。
ちなみに、今日の西華の服装は黒の着物に白い帯。黒留袖(くろとめそで)というそうだ。いつもの白拍子の姿よりも地味だけど、シックな感じも良く似合う。西華はときどきこうやって服を変える。洋服姿になることもたまにある。なんでも、考えただけで服を変えられるらしい。さすが妖。
「全く身が入っておらん。これ以上は無駄だ。今日はもう帰れ」
「で、でも……」
「修業を始めたころのように意識があちこちに飛び交っておる。ここ最近のお前からは考えられん。何かあったのか?」
西華が優しく問いかけてきた。集中力を欠いていたことを自覚していた遥香は「う」と言葉を詰まらせる。
西華を師匠として修業を始めて、およそ二か月。一つわかったことがある。この古狐は、めちゃくちゃ遥香に優しい。
確かに、西華は隙あらば遥香のことをからかって遊ぶ。修行中にヘマをしたらハルカス呼びされるし、その他にも阿呆だの赤子のようだの、口が悪いったらない。ただ、遥香をからかうとき西華はすごく楽しそうで、いやみが一切感じられない。その顔を見ていると、なぜか本気で怒る気になれないのだ。
「まあそう怒るな。ちょっとした戯れではないか。ほれ、じゅーすでも飲むか?」
優しい眼差しでこう来られると、遥香の腹立ちは、けむりみたいに消えてなくなってしまう。
いつの間にか遥香にとって、西華は頼りがいのある姉のような存在になっていた。年齢的には、姉どころか『ひい』が何個つくかわからないおばあちゃんだけれど。
何千年も生きてきたという話だし、もしかしたら文乃とのことでヒントをくれるかも知れない。
「西華は、自分がやったことで誰かを傷つけちゃったこと、ある?」
「……そうだな。あったかもしれんし、なかったかもしれん」
遥香の質問に、少しだけ目を見開いた西華は、空を見上げながらそんなことを言った。
「どっちだよ」
「まあよいではないか。それで? あったとすればなんだ?」
笑いながら、西華が先をうながす。
「昔、ひどいことを言って傷つけちゃった友だちがいてね。遠くに引っ越しちゃったんだけど、その子が帰って来たんだよ。ほんとは謝って仲直りしたいんだけど、ちょっと時間がたちすぎてて謝りにくいんだよね。踏ん切りがつかないっていうか。どうすればいいと思う?」
「謝れ。すぐに」
間髪いれず西華が答えた。あまりの速さに面食らってしまった。
「そ、それができれば苦労はないよ。できないから悩んでるんだよ」
「悩む暇(いとま)も惜しい。今すぐにでも謝れ。今からそやつのところに行って頭を下げろ。ほれ急げ。ワシも付き添ってやる」
西華が背中をグイグイ押してくる。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
思わず大きな声を出してしまったけれど、そのおかげで西華がようやく止まった。
「なんだ。一刻の猶予もないのだぞ」
「そこまで急ぎじゃないよ! まったく――」
愚痴りながら西華を見ると、今にも泣きだしそうな、すごく悲しそうな顔をしていた。西華のこんな顔は初めて見る。びっくりして、遥香は次の言葉を出せなかった。
しばらくしてハッと我に返った様子の西華は、気まずそうに狐耳をなでた。
「すまん、少々熱くなった。だが遥香よ。そういう感情はな、時を置けば置いただけ、大きく重くなっていくのだ。いずれ自分でも背負いきれんぐらいに重くなってしまえば、大切だったはずの想いごと、どこかに捨て去らねばならなくなる。それはあまりにも悲しいことだぞ。そうなってから悔いても、もはや遅いのだ。お前にはそんな思いをしてほしくない。だから遥香よ。謝ってすむのならば、一刻も早く謝ってしまえ」
いつになく真剣な様子の西華から出てきた言葉は、なぜだか遥香の心にスッと入り込んで、胸の奥の方に深く刻み込まれた。
夕日で光る西華の瞳が潤んでいるように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
※
「できもしなかったことを偉そうに……。我ながら、嫌になるな」
遥香が帰った夜の境内に、西華のひとりごとが響いた。心の疼きが疎ましい。
(恨み言を投げかけられるのが怖くて逃げだした臆病者の分際で……くそ)
苛立たしい思いを抱えながら、幻界の寝床へ戻ろうとしたとき、ふと、気になる気配を察知した。
覚えのない気配だ。ごくごく小さな残り香のような気配で、どこから発せられているのかもわからない。
遥香の修行は順調そのもの。最近は封印も安定しており、大結界も問題なく役割を果たしている。この状況で、よからぬ輩が容易に侵入できるとは考えにくい。
「……ワシとしたことが、見落としたか?」
遥香に鍵を奪われた直後の、混沌の最中に侵入を許していたとしたら――。
「さて、どうしたものか」
守り人でなくなった今の自分に、打てる手はそれほど多くはない。最悪の事態も考慮に入れつつ、西華は思案を巡らせた。
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