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スマホが『ピ』と鳴った瞬間、遥香はアラームを止めた。いつもは三分ぐらい鳴りっぱなしになるアラームをすぐ止められたのは、すでに起きていたから――正確には、眠れなかったからだ。
飛んで家に帰った遥香は、はしごを登って自分の部屋に戻ると、すぐに頭からふとんをかぶって身を隠した。そのままガタガタ震えながら、一晩を過ごしたのだ。
(ああ、どうしよう。今日からテストなのに。こんなことなら、お百度参りなんかするんじゃなかった)
一睡もできなかった。猛烈に眠い。まともにテストを受けられる状態じゃない。けれど、さぼるわけにもいかない。
もうずいぶん前から外は明るくなっていて、そのおかげか、怖さはほとんど消え去っている。それだけが唯一の救いだった。
ふとんを脱いだ遥香は、元気のない足取りで部屋を出て、一階へと降りる。
「おはよ、はるねーたん」
九つ下の弟、貴明がトタトタと遥香に近づいて、ニッコリ笑顔で朝のあいさつをした。遥香は無理に笑顔を作って、かわいい弟のほっぺたをムニムニと触りながら、
「おはよう、たっくん」と返事をする。貴明がキャハハと楽しそうに笑った。
食卓には家族がみんなそろっていた。
お父さん、お母さん、三つ下の妹・美月と弟の貴明。これに遥香を加えた五人が、安倍家のメンバーだ。
みんなそれぞれの場所に座って、すでに朝食をとっている。遥香も、貴明を抱き上げて子ども椅子に座らせた後、自分の椅子に腰をおろし、用意されていた食パンにジャムを塗りはじめようとする。
そんな遥香に、美月が声をかけてきた。
「おねえ。昨日の夜どこ行ってたの?」
ギクリと体がこわばった。
「はあ? どこも行ってませんけど?」
「ウソ。十時ごろノックしたのに返事なかった」
「無視しただけですけど?」
「ウソばっかり。そのしゃべり方が、ウソだって言ってるようなものじゃん」
(くそ、アホ美月め! いらんことを言うなよ! お母さんにばれたら怒られるやろ! もういい、無視だ無視)
相手をしていたら墓穴を掘りそうだ。しつこくたずねてくる美月に知らん顔をして、遥香は食パンにかぶりつく。
幸いなことに、お母さんは二人の会話に興味を示さなかった。かわりに、遥香にとってはもっとまずい話題を切り出してきた。
「そういえば遥香。試験の準備はどうなの? ちゃんと勉強はできたのかしら? 中間テストみたいに、十点満点のテストかと思うような点だったらどうなるか、わかってるでしょうね」
「う……。わ、わかってるよ! お、お母さんこそ、約束忘れないでよね! 平均点以上の点数取れたら、絶対バット買ってよ!」
「取れたらね」
コーヒーをすするお母さんのすまし顔が、めちゃくちゃ腹立つ。ムカムカしている遥香に、スマホをいじっていたお父さんが横やりを入れてきた。
「バットなぁ。道具の力に頼るってのは、お父さんにはズルのようにしか思えないんだけどなぁ。ほら、弘法は筆を選ばず、ていうだろ? やっぱり、努力して実力を上げることの方が大切じゃないかなぁ」
「わかってないなぁ! 今はどの学校もみんなすごいバット使ってるんだから、ズルじゃないんだよ。それに、ほとんどの学校の選手はみんな三年生なんだから、一年生のわたしが張り合おうと思ったら、バットは必要なんだよ!」
力説する遥香に、お父さんは「そんなもんかねぇ」と気の抜けた相づちを打ち、お母さんは「まあ、それも試験の結果次第ね」と冷静な受け答え。
居心地が悪くなった遥香は、急いで食パンを平らげて、プリプリしながら席を立った。
部屋に戻って大きな姿見を見ながら、遥香は身支度を整える。姿見は、中学校入学のお祝いでおばあちゃんが買ってくれたものだ。
夏用の真っ白な制服を身につけ、チェック柄のスカートをはいて、青いリボンを胸元に装着。おしゃれにほとんど興味がない遥香だけど、制服姿の自分は気に入っている。かわいいし、大人っぽく見える。ひとしきり姿見を眺めて満足してから、飾りっ気のない黒のヘアゴムでローポニーに髪をまとめて、準備完了。
あらためて鏡で自分の顔を見る。
「うわ~。ひどい顔……」
寝起きすぐと思ってくれたのか、知らんぷりをしてくれたのか。家族からの指摘はなかったけれど、まん丸い目の下にくっきりと黒いクマが浮き上がっていて、まるでタヌキのようだ。茶色の瞳はどんよりしていて、光がともっていない。普段は健康的といわれる日焼けした肌もくすんで見えるし、ツヤツヤピンクのはずの唇は毒々しい紫色に。いつもはもっとシャープに見える顔の輪郭が、むくんでボヤッとしている。
メイクをすれば目立たなくなるかも、という考えが頭をかすめたけれど、やり方がわからないし、ばれたらお母さんや先生に怒られる。何とか顔を洗ってごまかすしかない。
結局お参りも中途半端で終わってしまったし、当然テスト勉強もできていない。お母さんには強がったけれど、もはや平均点以上を取るなんて絶望的だった。
「……いや、七十回はお参りできたんだ。七十パーセントは効果があるかもしれない。それだけヤマが当たれば、なんとかワンチャンあるはず。よし! 気合い入れていくぞ!」
遥香はバシバシとほっぺたを叩いてから、カバンを持って家を出た。
くよくよしていても仕方がない。カラ元気も元気のうちだ。遥香は力強い足取りで学校に向かった。
大阪府南西部、泉州地域――昔は
力強いステップで教室に足を踏み入れた遥香は、そのまま自分の席に向かう。
「あ、遥香おはよ~……って、何その顔。すごいクマ」
小学校からの親友、
聡美の特徴は何といってもその高身長だ。おととしの冬ぐらいからグングン背が伸びて、現在身長百六十七センチ。そこらの男子よりも背が高く、バレーボール部では未来のエースとして期待されている。ロングヘアーがよく似合う聡美の顔を見上げていると、なぜだか自分がとても子どものように思えて、少し悔しくなるのは内緒だ。
「おはよう聡美。顔のことは言わないで。自分でもわかってるから」
「いや、とはいってもその顔は――」
「大丈夫だから! 心配ないから!」
遥香は大声で聡美の言葉をさえぎった。すると、離れた場所で別グループの女子たちが話しはじめる。
「あ~あ、朝からうるさいなぁ。もう少し静かにできないのかな?」
「アホだから、無理じゃない?」
「あ、そっか! アホだから、迷惑になってるってわからないのか! アホだから!」
馬鹿みたいに笑いながら、わざわざ聞こえるようにそんな会話をしている連中を無視して、遥香は席についた。
聡美が心配そうな顔で遥香を見つめている。何か言いたげな聡美に、遥香は笑顔を向けた。
「大丈夫。気にしてないよ。いつものことじゃん。そんなことより、今日のテストだよ。聡美は勉強できた?」
聡美の顔がほんの少しゆがんだ。実は、聡美も勉強が得意ではない。
「あーうん、まあ、そこそこ? 遥香は……って、その顔じゃ、聞くまでもないか」
「ほっとけ。でも、大事なバットがかかってるんだからがんばるよ。秘策もあるしね」
「秘策、ねえ。どうせ遥香のことだから、しょうもないことなんだろうけど」
「ふん、言ってろ」
遥香は聡美にイーッとした。筆記具を取り出し、目を閉じて手を組む。
(お願いします、神さま! ヤマを当ててください! 何とか平均点以上を取らせてください! 七十回もお参りしたじゃないですか! お願いします、お願いします!)
こんなに必死にお祈りするいたいけな女の子を、神さまが見捨てるはずがない。この願いは届くはず。そう信じて、遥香はテスト開始の合図があるまで、お祈りを続けた。
「はい、そこまで! 後ろの人から前に解答用紙回して。みんな、三日間お疲れ様……そこ! もう書いちゃダメ! 〇点にするよ!」
一年一組担任の小野先生が、いつも通りのキビキビした調子でテスト用紙の回収を指示している。
遥香はというと、グデッと机に突っ伏していた。
(もうあかん……おしまいや)
どのテストも全くダメだった。解答欄は埋めたけれど、ただ埋めただけ。ほとんど全部あてずっぽうだ。お百度参りの効果なんか、ほこり一粒分も感じられなかった。
(やっぱり、七十回じゃだめだったんだ)
ジワリとあふれでてくる涙を、上を向いて無理やり引っ込めた遥香は、部室へ向かうために席を立った。そこへ、「あ、安倍」と、小野先生の呼び止める声。
「今日は走り込み特化で行くから、みんなにそう伝えておいて。テストで体なまってるでしょ。とっとと目覚めさせるには、走るのが一番だからね」
小野先生はソフトボール部の顧問でもある。担当教科は社会で、おととし二十九歳の美人女教師、らしい。自分でそう言っている。さん付けで生徒の名前を呼ぶ先生も多い中、小野先生は全員を呼び捨てにするけれど、遥香は全然気にならない。明るくシャキシャキしているところに親近感があって、結構好きな先生だ。けれど少しクセが強いからか、嫌っている生徒もまあまあ多い。大学では日本選抜にも選ばれたことがあるらしく、ソフトボールがすごく上手い。
「走り込み……あれ? 今日ってグラウンド使える日じゃなかったですか?」
「サッカー部と明後日の枠、交換しちゃった」
いたずらっぽく笑いながら、小野先生はペロッと舌を出した。
(また勝手なことを。先輩たち怒るぞ)
あきれながらも「はいわかりました」と返事した遥香に、小野先生はニッコリ笑顔で「お願いね」と言い残して、テストの束を抱えて廊下を歩いて行った。
ソフトボール部の面々が、ヒイヒイ言いながら外回りのランニングコースを走っている。先輩たちは「小野のアホ!」「こんなクソ暑い日に走り込みとか、鬼かよ!」「そんなんだから美人なのにアラサーになっても……いや、これは言っちゃダメだな」「あつい~死ぬ~」など、思い思いのことを叫びながら、必死に走り込んでいる。ソフト部ではいつものことだからか、すれ違う人たちは驚きもしない。
今日から七月。直火で焼かれているような気分になる強烈な日差しに、アルミホイルで巻かれて蒸し焼きにされているかのような猛烈な熱。そんな暑さの中で外回り五周のメニューは、拷問といってもおかしくないほど、きつい。熱中症対策で休憩は自由だし、飲み物も好きに飲んでいいのだけれど、それくらいでどうにかなるような辛さじゃない。
遥香も一周ごとに水分補給をしながら走り込みを続けていた。先輩たちとは違って、黙々と走り込んでいる。すでに四周。あと一周だ。
思いっきり体を動かして、嫌なことはきれいサッパリ忘れたい。けれど、コースの途中にある聖の森神社前まで来ると、どうしてもあの夜のことを思い出してしまう。
(あの声、いったい誰だったんだろう? おかげでテストがボロボロだよ。思い出したらムカついてきた。あいつのせいでバットが……。ああ、腹立つ! 今度会ったらボコボコにしてやるからな! 覚悟しとけよ!)
神社の奥をにらみながら、遥香はリベンジを心に誓う。
その時、背中にゾワリとした冷たい感覚が走った。
「え? なに、今の……」
遥香は思わず足を止めた。きょろきょろとあたりを見回す。誰もいない。なのに、どこからか視線を感じる。ねっとりとまとわりつくような、いやな感じがする。
体ごとぐるりと回して注意深く周囲を観察する。だけど、やっぱり誰もいない。
「……気のせい、かな?」
お百度参りの時に感じたのとは、少し違う。けれど本質的には似たような、心がざわつく気配。
ブルリと体が震えた。いや、震えたのは勘違いだと自分に言い聞かせて、遥香は猛スピードでその場を離れた。
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