3(前)

 左打席に入った遥香は、ゆったりとバットを構えて、ピッチャーが投球動作に入るのを待つ。

 現在、七回表、ツーアウト満塁。二点差で負けているけれど、一打逆転のチャンスだ。


(この場面、フォアボールは嫌なはず。狙い球は初球の真っ直ぐ。甘く入ってきたら――)


 ピッチャーが構えて、腕をぐるんと回した。放たれたボールは、ストライクゾーンのど真ん中めがけてうなりを上げる。狙い通り、甘い!

 力むなと念じながら、遥香はバットを振りだす。バキッと鈍い音が響いた。バットの真っ芯に潰されたボールは、そのまま右中間のまん真ん中へ弾き飛んで行った。センターとライトの間でワンバウンドした後、広いグラウンドを転々と転がっていく。


 遥香は持ち前の快足を生かし、悠々とダイヤモンドを一周する。逆転満塁ホームラン。


 和泉丘中のベンチは大はしゃぎ。だけど遥香自身は不満でいっぱいだった。


(ああ、新しいバットがあれば、もっと飛距離が出たはずなのに……)




 結局、期末テストの結果は散々だった。全部で七科目あったテストの合計点は、二百点に届かなかった。


 お母さんは大激怒。バットを買ってもらえなかったのはもちろん、三カ月お小遣いなしに加えて、夏休み毎日五時間勉強の義務を課せられてしまった。「一時間でも大変なのに五時間なんて!」と抗議しても、お母さんは聞く耳持たず。夏休みのことを思うと、体中に重りをつけられてプールの底に沈んでいくような気分になる。


 お父さんはかばってくれず、美月はテスト用紙を見て大爆笑。貴明だけが、「はるねーたん、げんきだちて」となぐさめてくれた。感激して抱きしめた天使からは、ミルクの匂いがした。




 夏の大会前の最後の練習試合。遥香はテストのうっぷんを晴らすかのように、大暴れしていた。打っては三安打一ホームラン七打点、走っては四盗塁、守備ではファインプレー連発。一年生とは思えない活躍ぶりに、チームメイトたちも大喝采。「八面六臂の大活躍だね!」とは、小野先生の言葉だ。はちめんろっぴってどういう意味だろう。


「さすがハル! やっぱあんたすごい! 野球部に取られなくてよかった!」


 遥香をソフトボール部に引き込んだ、二年生の茜が嬉しそうに遥香を抱きしめた。

 茜は遥香と同じ学童野球チーム、『泉州ストームズ』の出身だ。数少ない女の子のチームメイトということもあって、当時から遥香に良くしてくれていた。去年のクリスマスにわざわざ遥香の家にやって来て、ソフトボール部に入ってくれと、土下座する勢いで頼み込んできた。敬愛する先輩に頭を下げられては、遥香も断るわけにはいかなかった。


 ソフトボール部の部員は、一年生三人を含めてわずか十一名。昨年秋からまともに試合も組めなかったそうだ。三年生が引退するとまた人数が足りなくなるので、遥香も熱心に仲のいい友だちを誘っているのだけれど、なかなか首を縦に振ってくれる人はいない。


「でも茜さん。あんなの普通の球場ならいいとこスリーベースです。ああ、新しいバットがあれば、もっと飛んだのにな。バット欲しかったな……」


 ホームランを打っておきながらしょんぼりしている遥香の背中を、茜がバシバシと叩いた。


「なにぜいたく言ってんの。充分だよ! そのまま大会まで好調を維持してね。今年は優勝狙うよ! あんたがいれば、夢じゃない!」


 期待されると、それにこたえなくてはという気持ちがムクムクとわいてくる。

 遥香はこぶしをグッと握りしめ、「がんばります!」と元気よく返事をした。




 泥だらけのユニフォーム姿のまま、遥香は家に向かってテクテク歩いていた。

 今日はまずまずの働きができたと自画自賛する。


(あとは、もう少し飛距離が出せればなぁ)


 どこまで行っても、遥香の思いはそこにたどりつく。


 六年生の時、全国大会で打ったホームランの感触が忘れられない。ボールをとらえた瞬間に生まれる完璧な手ごたえ。放物線を描きながらはるかかなたまで飛んでいく白球。達成感と爽快感を抱きつつ、味方だけでなく相手チームからもおくられる惜しみない賞賛を一身に浴びながら、心に羽が生えたような気分で悠然とダイヤモンドを一周する時間は、まさに最高のひとときだった。

 もう一度、いや一度といわず何度でも、あの瞬間を味わいたい。


(でも、今のわたしの力じゃ、あれが精いっぱいだしなぁ。地道にトレーニングをして、お父さんが言うように実力を上げるしかないか。ああ、もう少し頭がよかったらなぁ)


 ふと、背中にゾワリとした感覚。ビクリと体が震える。顔を上げると、聖の森神社の大きな鳥居が目に入った。


(……またこの感じ。こないだから、なんか変だな。神社になにか、あるのかな?)


 どうも神社周辺に来ると、心がザワザワする。このままじゃ気持ち悪くて、この辺を歩けない。違和感の正体を確かめようと、遥香はおそるおそる鳥居をくぐった。




 境内に入るのは、お百度参りの夜以来だ。


 聖の森神社は大きい神社ではないけれど、初詣の時は参拝する人がそれなりにたくさんいて、にぎやかな雰囲気に包まれる。数は少ないけれど屋台なんかも出て、遥香はそこで食べる焼きそばが大好きだった。人っ子一人いない今は、ひっそりおごそかな雰囲気で、お正月とは全然違う。


 神社の周りには大きな木がたくさん生えていて、遠くから見るとちょっとした森みたいになっている。こういう、神社の周りにある森のことを、鎮守の杜ちんじゅのもりというのだと、前にお父さんが教えてくれた。


 参道の石畳はきれいに掃き清められていて、ちり粒一つも落ちていない。七つ並んでいる小さな鳥居は朱塗りになっていて、お昼間だと周囲の景色から浮き上がってくるみたいに、華やかな感じがする。


 境内のあちこちには、狐の石像とか、狐の姿が彫られた石碑が置かれている。石碑には、『恋しくば尋ね来てみよ和泉なる 信太の森のうらみ葛の葉』という和歌も一緒に彫り込まれている。この神社には狐のお嫁さんがどうとかの由来があるのだと、いつぞや初詣の時にお母さんが教えてくれた。


 杜の大木がいい具合に木陰を作り出していて、外に比べると境内はかなり涼しい。さわさわと音を立てて枝の隙間を抜けていく風も、冷たくて気持ちいい。アンダーシャツにへばりつく汗がスーッと引いていく。


 遥香はきょろきょろと周囲を注意深く観察しながら、一つ、また一つと鳥居をくぐり、拝殿へとたどり着いた。今のところ、特に気になるものは見つからない。首をひねりながらも、せっかくだからと鈴を鳴らし、パンパンと手を叩いて頭を下げる。


(三十回足りなかっただけなのに、お願いを聞いてくれなかったんですね。おかげでわたし、これからひどい目に合うんですよ? 神さまのせいですよ? ……まあいいです。次のテストのときは、裏切らないでくださいね?)


 神さまが聞いていたら「知らんわ! 責任転嫁するなよ!」と怒り出しそうな内容だけど、遥香は大まじめにそんなことを考えていた。


 一分ほど神さまに文句を言って満足した遥香は、「はて、何しに神社の中にきたんだっけ?」と口にして、入り口に戻ろうと振り向いた。そして――。


「うわっ!」


 びっくりして後ろに飛びのいた。勢いよすぎて、お尻と背中が賽銭箱にぶつかった。ドガンガチャンと激しい音がする。ぶつかったところがめちゃくちゃ痛い。


 驚いた理由は、振り向いた鼻先に、人が立っていたから。何の音も気配もなく、本当にいつの間にか、遥香は背後を取られていた。


「無礼な小娘だな。人の顔を見るなりその反応とは、いささか傷つく」


 後ろに立っていたやつが、おもしろくもなさそうに吐き捨てる。

 その態度に、カチンときた。


「ど、どっちが無礼だ! いきなり何も言わずにわたしの後ろに立つんじゃないよ!」


 言い返す口調が強くなってしまった。けれど、強気を保たないと痛みのせいで泣いてしまいそうだ。ドキドキとうるさい心臓に、静かにしろと命令しながら、遥香は目の前の無礼者を観察する。


 目鼻立ちの整った、かわいらしい女の子だ。十三歳の遥香よりいくつか下に見える。ちょうど美月と同い年ぐらいか。金色の長い髪が、木漏れ日を浴びてキラキラと輝いている。


 顔立ちは完全に日本人そのものなのに、なぜだか金髪がごく自然になじんでいる。気の強そうな、吊り上がった大きな目に、ギュッと寄せられた形のいい眉。鼻筋も通っていて、まるでお人形さんみたい。への字に閉じた口が、不機嫌だぞと主張している。

 白い和服と赤い袴を身につけていて、お正月に見かけた巫女さんのような姿だ。この神社の関係者だろうか?


 けれど何よりも目を引くのは、頭からニョッキリ生えた二本の角みたいな物体。ふわふわとした毛皮のようなものでおおわれている、あれは――。


「狐の耳?」

「ほう。よくわかったな。いかにも、狐の耳だ」


 なぜか誇らしげに、女の子が胸をそらす。別に褒めたわけでもないのに、変なやつだな――そう思う遥香は、あることが気になった。


(ん? この声、どこかで……)


 記憶をたどる。そう昔のことではない。ついこの間、夜、ここで、聞いたような。

 お百度参りの時に聞いた正体不明の声と、今聞いた女の子の声。全然印象が違う声なのに、なぜか遥香の頭の中で、二つの声がピタリと重なった。


「あ~! お前、あの時わたしに失せろって言ったやつだろ!」


 女の子に向かって、遥香はビシッと指を突きつけた。

 女の子は顔色一つ変えず、平然としている。


「なるほど。霊力が気になって来てみれば、お前、あの時のこわっぱか。薄汚れたなりをしておるからわからなかった。言われてみれば、確かにあの時の小娘だな」

「お前とか小娘ってなんだ! わたしの方が年上だぞ。ちゃんとお姉さんって呼べ!」


 突き付けた指をぶんぶんと上下に振りながら、遥香は女の子に命令する。


「年上? お前が?」

「誰がどう見たってそうやろ!」


 女の子は遥香の返事を聞くと、フンと鼻を鳴らした。次の瞬間、ビュオッと強い風が吹いた。思わず顔をそむけた遥香が、視線を戻したその先には――。


「な、なな、何、その姿……」


 そこにいたのは、さっきの女の子がそのまま大人になったような、女の人だった。金髪のものすごい美人で、頭の狐耳も、巫女さんのような服装もそのまんま。


「さあ、お姉さんと呼んでくれて構わんぞ?」


 狐耳の美人が、口の端をニイッと吊り上げた。


 子どもから大人の姿に変化した狐耳を目の前にして、遥香は口元がピクピク動くのを止められない。さっきから心臓がドキドキなりっぱなしだ。


(あわわわ……お、おばけだ。絶対、狐のおばけだ!)


 昔から、おばけとか幽霊のたぐいが大の苦手で、テレビのホラー番組なんかも絶対見たくない遥香だった。なぜ自分がこんな目に合わなくてはいけないのか。神社になんか入らなければよかったと、近くの鏡池よりも深く後悔する。


(と、とにかく、はやく逃げないと……)


 だけど、逃げ道には狐耳のおばけが立ちふさがっている。なんとか隙を見つけ出そうと、細かく視線を動かす遥香に、目の前の美人が笑顔で話しかけてくる。


「ほれ。さっきまでの威勢はどうした? ん? 何をきょろきょろと……もしやお前、逃げようとでもしておるのか?」

「そそそ、そんなわけないじゃん!」

「わはは! お前、わかりやすいな。どれ……」


 大きな声で笑う狐耳が、遥香に向かって腕を伸ばしてきた。「ひっ」と声を出しながら、遥香はその手を打ち払う。おばけの体は、何ともいえない奇妙な感触だった。コンニャクとかゴムの塊みたいな、やわらかいような硬いような、説明できない手触りだ。


 狐耳は、表情を変えずに払われた腕をさする。


「ふむ、やはりな。霊力の高さは目を見張るものがある。小娘。名は何という?」

「な、名前? は、遥香、ですけど――」


(あ、しまった! おばけに名前教えちゃった! ……いや、ここは素直にしたがったほうが――)


 少なくとも、会話している間なら食べられることはないはずだ。逃げ出すチャンスを見つけるためにも、しばらく目の前の美人おばけと会話しようと決意する。


「氏は?」

「う、うじ? あ、名字ってこと?」


 コクリと狐耳がうなずく。


「安倍、ですけど」


 ピクリと、狐耳の耳が動いた。目を細めて、遥香の顔をじっと見つめている。


「あの~なにか?」

「いや、なんでもない。だが、そうか、なるほど。『あべのはるか』か」

「ちょ、ちょっと! 間に『の』を挟まないで!」


 聞き捨てならない言葉に、怯えが一瞬で吹き飛んでいった。遥香は狐のおばけに目をむいて食ってかかる。


「なんだ急に。のをはさむ? 何を言っておる。……そういえば、少し前に出来たと聞く、背の高い建物――」


「それ言うたらしばくぞ!」


 ムキになって大声を出す遥香を見る美人の瞳が、キラリと輝いた。吊り上がっていた目じりがストンと下がり、口の端はさらに吊り上がる。楽しくて仕方ない、というのがまるわかりの顔。


(あ! こいつ言う気や!)


「あべのハルカス、だったか?」

「言うなって言うたやろ! なんやねんお前! 人が嫌がること言うな、アホ!」


 遥香はキーッとなってバタバタとその場で足踏みをする。

 狐耳がおなかを抱えて大笑いしていた。

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