人類の飼い方
@Icey1092
人類の飼育方法
人類の飼育の仕方 と銘打って、
3段階に分けてみる。
-前提-
人類、もとい人間は共同体での有様が最も生存に適している。
よって独裁者による為政は人類の生存方法における普遍的特性ではないものとする。
①共同体から物質への直線的利益 追求
共同体、社会に生ける人間達からの
生や富(貨幣などではない)への
物質的な追求は自然なことである。
動物だって肉を喰らい、快楽の為に行動する。
しかし人間の力とは個々で見るとひ弱だが、集団では無類の強さを誇り、自然界を破壊することだってできる。これには強さと責任を伴い、
自然への政治を行い、
警官へ就職する義務が生じるであろう。
②独裁や一方的な利益暴走への抑制の体系化
人は紙を欲しがり、食を欲す。
共同体からの自然界への直線的な利益の渇望は、集合的な独裁であることは確かであろう。独裁であることは永続性を欠き、無辜への介入を許す。そのため、人は謙虚で在らなくてはならない。
これには集合種である我々に統一感のある制度が必要だ。我々の清く、本能的でもある欲求を弱体するには、体系化された抑止力が必要なのだ。
制度は理性の檻であり、共存の条件である。
③正当化による調合と倫理的な納得
森林を伐採したら、動物の住処が減り、生態系が崩壊するかもしれない。
では、年間の伐採量に制限を設けよう。
これが制度である。ただしこれには製紙工場の利益や、紙を必要としている人への不満が払拭しきれていない。そのため、妥協点を打つ。
森林の伐採量は𓏸𓏸までとする。しかし、追加で𓏸𓏸ドルを払うのであれば、追加の伐採が可能だ。また、そのための納得のいく調合をしたい場合がある。理由を付加すると、何事にも納得を得られやすい。
ある人は、
「木を伐採しすぎると、生物の住処が無くなり、生態系が崩壊します。そうすると、私たちは生きていけないでしょう」
と脅しを交えたり、
「この可愛い子リスを見てください。我々は帰る場所があります。しかし贅沢を好み、この子の住処を奪ってしまうなんて...」
と情に訴えてくるかもしれない。
倫理観は、こうして芽生える。
勿論、利害性とは、①の欲求に②の制限を加えただけのものであり、単なる二律の取り決めでは大衆の感情を看過できず、社会全体の首肯を得るのは難しいであろう。そこで必要なのが倫理観や、正当化といったものだ。人は、理性を持ち、その内情は複雑だ。考えていることなんて、自分ですら分からない時がある。こんな複雑なものを携帯している生物が、何百と、何億といて、ある制度下で生活している。
それぞれに納得させ、三角関係に妥協点を打つのが正当化だ。打たれた点を基準とできれば、それぞれの複雑な価値観に近からず遠からずの視点が生まれる。
紙を生産したい。
森林を伐採しなくてはならない。
私が思うに、人は利益を追求するが、自然界へのダメージが長期的に見ると、人類へ害をなすと考えるので、我々は森林を野ざらしにしないし、好き勝手に動物を殺さない。だが、これは力が及ぶが故の自制であり、責任である。野ウサギが、草を食い尽くすのは良くないなどと謙虚にはならないであろう。万人に受け入れを許す制度はない。残念なことに、クマに親を殺された人が、その憤慨をクマにぶつけることは、制度で許されていない。復讐は連鎖が生まれ、復讐に寛容な社会は成り立たないからだ。この憎しみは、社会が受ける。再発防止の輸送、安楽死、彼のメンタルケア、補助金、様々な制度が、秩序維持のために動く。彼の憎しみは、血で注がれたビーカーに、制度といった社会秩序の顔をした水が注がれ、真っ赤な復讐心は薄れ、社会のために均されるだろう。つまり、人の情動すら社会という装置が希釈し、再利用可能な形に変えるのだ。こうなった希釈過程を経た彼は、本当は怒りに絶えないかもしれない。歴史を見ても、社会にはいつだって犠牲者は必要だった。しかし彼はまだ生きている。これは、人間といった超越者が、世界を嗜みながら、また、責任を負う機会が与えられたのだ。
こうして人間は、自ら築いた制度に飼われながら、文明という檻の中で己の牙を研ぐのだ。
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